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この辺りでは「契約講」が2つあるんです。昔から伝わっている契約講は、昔からいる財産持ってる人たちで、入るには何十万ですよ何百万ですよってお金が必要なのね。そんな大金を出すには、自分の生活するのさえ大変な時代だから、加入しないで過ごした人たちがいて、その人たちがあとから新契約っていうのつくって。あくまでも古い契約のほうから部落の会長をだす。そして新しい方から副会長。そして、会長になった人は部落の一切を仕切るわけだ。
志津川のほうでは、なんでも行政区長さんが代表だっていう。区長っていったって、行政のこともやるし、部落のことも一切のことやったら大変だべ、っていうから。そういう風にやってきているから。なんだか区長になる人は大変なんだろうな。町の方のことも精いっぱいなのに、部落の一切のやることまで頭にいれていたら大変。
だけど、昔の歌津町は行政区長さんの方は町の方の行政を担当して、あとのことは、契約会が仕切るんだっていう感じ。会長やっていた時分には、年に一回ずつ会長会があり、役場のほうからも人が来て、会ったんだけれども、今はどうなっているのか。私が辞めてから何十年になるから。
震災後に入った寄木仮設って9世帯で部落の人たちだけだから、たとえ魚一匹取ってきても、自分の家で食べきれないと、さらってきたから、って分けてやったり、梨送られてきた、食べきれないからって一個ずつやったり、畑もやっていればきゅうり持ってきてやったり、そういう、普段からのいたわり合う気持ちは、津波の後でも、まず変わりないんだね。仮設に住んでるのが部落の人たちだけで、ここで良かったなって。
だから、仮設でも豆送られてきたって豆分けてよこす者もあれば、リンゴ来たからやってやったり、米なんかも一杯送られてきたから、食いきれないからわけてやったりして。ここの海岸でワカメ作業しても、震災でばらばらになっているから、今は難しいけれども、自分の仕事、ワカメの切断から、メカブを切断したりの作業でも自分の家の分が終わっても、よその家が終わらないと、手伝ってね。寄木はそういうことについては、歌津町の時代から、模範部落として何回も表彰受けているんです。こっちの言葉で「結(ゆ)いっこ」って言うんだ。ここは仕事なんか遅れると、他の仕事でも畑の仕事でもみんな手伝ったから。沖に作業にでても、早く私たちなんか海に出ると、一人で出てる人の船によく乗り移って、手伝いした時もあったのね。一人でかわいそうだから、遅くなるからって。みんな、結っこをやったんだ。
だから共同精神はこの辺は、この部落は一番ね。お母さんの教育がいいから。親の背中を見て育つっていう喩えがあるんだもの。親がこうやってるから、自然にみて。教えるのではなく、覚えるんだよ。それにやっぱり体惜しまず動く人と、動かない人とは全然違ってくるよ。
親父が早く亡くなったから、私は遠洋漁業やめて帰って来て、漁は沿岸だけにして、その合間に、最初は海苔をやったのね。ここほら、波穏やかだから、この辺一帯、全部海苔網だったの。竹を立てて、海苔網張って。
海苔を始めるのに、最初は天然の海苔のタネつけといえば、垂下式だったのね。元の歌津町でも浜の漁協とこっちの漁協と2つに分かれてんだ、漁協が。で、こっちの漁協だけで、研究会っつうのをつくって、指導員さんには県の漁協の方が来て、あとはこの辺の水平の高さと干潮時の高さ、いろんなの測って、このへんさ網をはれば、この水位さえあれば、ここの部落では海苔が付着しますつう格好で。
一番最初は海苔の胞子をとって、貝殻につけて、それを生育させて、温度と日光の具合をみながら熟成させてる。それから張った網さつけるんだけども、その時期になったらば、海苔のタネ付いてる貝殻は、最初真っ黒くなってるんだけど、紫色になるんですよ。それが、胞子を出せるようになってる海苔の色。3日目ぐらいなると、波で揺られるうちに、その胞子が消えてもとの貝殻のように白くなるんです。顕微鏡で見ると、胞子がみんな、その海苔網さ付着してる。
海苔もしばらく良かったんだけども、だんだんね、松島の方におされて、ダメになってきて、それに代わってワカメに切り替わりました。
子どもの数は、昔は20人くらい、昭和40(1965)年生まれの人たちが1年生か2年生の時には30人くらいはいたね。「ささよ」が歌津町の文化財に指定されるようになってから初めて、保存会っていうものを作らなくちゃならないからって言って、発足になったんです。昭和55(1970)年8月21日だ。「ささよ」を子どもたちに50年以上教えてきているけれども、保存会ができてからまだ20何年なんです。今は小中学生合わせて6人か5人か。
歌津町の文化財登録のことで役場に行った折に、「寄木さん、なにか「ささよ」の保存について考えていることはないですか」って言うから、「祭に使う太鼓のような物でもあって、他町村の伝統行事との交流を深めて子どもたちの健全育成につながればいいかと考えてる」と私なりに語ったわけだったのさ。「ささよ太鼓」と名付けて、残していこうと思ったんです。そして、役場の生涯学習課から、県の方に補助の書類を出したんだが、いっぱいでその年はダメだった。
次の年、ダメもとでもう一回出してみたら、採択になったのが、日本生命財団(現ニッセイ財団)。その当時の助成金額で私たち一番多くもらったんです。あくまでも太鼓の購入にあてるということで、1個買って20万円でした。けれど、「貧乏家で馬を一頭持っても、どうにもならない」っていう喩(たと)えがある通り、太鼓一個もらったってどうにもなんないから、部落でなんとか、その太鼓作ってくれないかって、話し合いが賛否を呼んで、「大金かけて、太鼓を作るもんじゃない」とか、いろいろ文句は出たけれども、最後は私に押し切られて大きな太鼓2個を買ってもらって、私が法被15着とのぼり旗なんか寄贈して、基を作っておいたんです。それから、長く伝えていたおかげで、気仙沼でも地域文化賞っていうのを頂いて、私が頂きに行ったり、地域貢献賞っていうのもらいました。
ところが、今回の津波で、部落のセンター(集会所)が海岸にあって、そこに表彰されたものも、法被やら何百万もする太鼓やら、全部置いていたから、津波で全部流してしまった。バック幕って、この辺のどの文化財の人たちでも演じる後ろさ幕入れてっから、「おらほでもこれ作っか。俺とあんだで寄付して作ったらええか」って寄付したのもあったけど、こいつだけ津波のあと、見つかったのさ。
付近の人たちね、「大きくなったら学校さ入って太鼓を教えてもらえると思ったのに、流されてしまって」って嘆いてる。もともと、70%の確率で津波来るよ、って言われていたから、センターを海岸に置くのは反対だったんだけども、宝くじの支援金だったから、期限があることで、急いだんだね。高台に山を崩して平らにすれば、いくらでもあったのに、時間がなくて、現状のところに、ということでつくってしまった。「あくまでも集会所なんだから、いいだろう」ということで。その頃私たちも、部落から引退してるから、「年よりがなに、余計なこと」って言われるから強くは言えなかったね。
それでも、震災後、JR(東日本鉄道文化財団の「歌津寄木ささよ整備事業」支援)から100万円寄贈されたんです。
法被は太鼓と歌とどうやら20着ずつ作ったし、今度の保存会の会長さんも、いろんなところ回ってなんとか寄贈されて、太鼓を準備できたようだし。
だから私のところにまた、「子どもにささよ太鼓を教えてほしい」って、1週間だか10日ばりしか期間がなかったから、津波前は楽譜みたいなの作ってたけど、それも流したから、3分の1の時間で何とか終わるように全体を切り詰めて、変わらかして(変更して)、なんとか恰好だけつけたんだね。ささよ太鼓の譜は、最初は「かわらや(屋号)」さんの息子さんに作ってもらったんだけっども、叩きよう(叩き方)が3種類しかないんだ。それをいかに組み合わせて格好よく、またみんながその音を聴いて「あっ!」と思うようにやるのが譜面の作り方なんだ。あとは、叩く格好をいかにも「太鼓叩いてるんだよ」っていうような格好に見せるにはある程度の練習がいるんだな。けどもとは真ん中さ「ささよの歌」を入れて30分以上かかったのが、今年は15分ぐらいに短い。練習時間も短くてやむを得ないから、それでもいいんでないかと。
歌津町でいたときは、年に2回、契約長会議をやっていました。歌津町から町の三役のうち1人が出席するかして、各契約会の代表が出席しました。
今の保健センターのところにあった役場に契約会の誰が行っても、町長がいると、「おーい、こっちへ来てお茶飲めや」と声がかかる。お茶飲むってことは話を聞いてくれるってことです。こういうことだから頼むと、わざわざ陳情に行くんです、そんなふうに、各部落の契約会が気軽に役所を訪れて、街の三役が常に話し合いをしていました。暮れには、各契約会がお金を出し合って忘年会をやっていました。だから、町にまとまりがあったんです。契約会長が先頭に立って部落をまとめて、部落の区長がその下にいるんです。だから浜に行ったら部落の契約会長は強かったんですよ。6500~7000人規模の町だったから、まとまりが早かったですよ。
南三陸町に合併してからはそういうのがなくなってしまったんです。区長にはなにも権限がないし、契約会長の話も町で聞いてくれない。このごろは誰も陳情に行かないし。前は契約会が音頭をとって行くのが普通だったんです。町議会と契約会が顔を合わせる機会はもうないです。今は他の契約会との交流はありません。
田束山(たつがねさん)に行ってみるといいですよ。あそこは、藤原秀衡(ひでひら)があそこを開山して、お経の筒を埋めたんですよね。それが発見されて、霊山と呼ばれています。
お祭りは、5月6月に旧歌津町と旧本吉町でつつじ祭りっていうのをやってたんですよ。旧本吉町というのは、今は気仙沼市と南三陸町に分かれてしまいました。地震で倒れてしまったんですが、三十三観音像や、不動明王像もあります。観音像は大体1メートル50センチくらいのが33体あって、あと高さ5~6メートルの不動明王が1体あります。
大谷地区ってありますよね、あそこは大谷鉱山って金が発見された場所です。藤原氏は金色堂で有名ですが、関係があるって伝承があるんですよ。(注※この地方の金が、奥州藤原氏の黄金文化を支え、平泉中尊寺金色堂に使われたともいわれている)金の採掘の歴史は相当古いものだと思うんです。大谷鉱山は石巻の金華山の下までトンネルが続いてるっていう話もあるくらいですからね。
実はうちのじいちゃんは大谷鉱山に行っていたんです。それが閉鉱になってから、シーサイドパレスで働いたんですよ。
議員になるきっかけは歌津町長をしていた叔父に「そろそろ社会で役に立ってみたらどうか?」と言われたのがきっかけです。「みんなの声があるよ。やってみたら」とも言われました。今は議員をやっていますが、当時はそんな気は毛頭なかったですね。
2世議員というのは、親が引退の時出馬する。私の場合、父が引退してからずいぶん間があいてしまって、本当にゼロからのスタートでした。自分は「先生」とか「議員さん」と呼ばれるのが嫌いです。議員の役目は町民奉公だと思います。議員で儲けようと思ってやる仕事じゃないと思います。中には「先生」と呼ばれて、自分を特別だと思っている議員もいますが、自分はそうはなりたくない。自分は「樋の口の孝樹」と呼ばれてみんなが気やすく何でも色々言ってくれる方がうれしいですね。
議員だからと堅苦しく構えるのではなく、ジョークで例えるなら、登壇の際には自分のテーマ曲を流して登壇するとか・・。もし私なら、ピンク・フロイドやキング・クリムゾンの「21世紀のスキッツォイド・マン」なんかで登壇したいですね(笑)。
議会というのは、言いなりで数の論理に流されてはだめだと思っています。評決は辛くても勇気を持ってやらないといけません。「辛口でないと・・」と思います。
今、自分は2期目(旧歌津町では合併を迎えるまで2年5か月務めました)ですが、町に対しては、偏りが一番気になっています。均衡のある街づくりをしたい。格差・差別のない社会が理想です。今、南三陸町はどうしても志津川中心で歌津が後回しになる傾向があって、2つの地域には空気の違いがあります。夫婦が相思相愛で結婚したはずなのに、やっぱりお互いが馴染むまでにはそれ相応の時間が必要なように、町も同じなのだろうと感じています。震災後志津川に物資が偏り、同じ町内なのに・・という事実がありました。「分ける」「分かち合う」「心は一つ」「絆」が、口先だけのスローガンになってしまっていてはダメです。
色々な事情があったとは思います。時間をかけて、いずれバランスの取れたところに納まるのではないかと期待しています。
歌津と志津川との合併は対等合併で進めようということで、合併協議会の会長に志津川の町長、副会長は私という体制で進めました。
平成17(2005)年10月1日、歌津と志津川は正式に合併して南三陸町が誕生し、私は、その前の月、9月21日に平成の森で記者会見を行いました。歌津町の最後の大きな行事となった老人クラブの大会も無事終わり、町の行事がすべて終わったのを見計らって行ったのです。そこで私は、「南三陸町町長選挙には出馬しません」、そして「町長選に誰が出馬しても、応援は一切いたしません」と宣言をしました。そして、「新しい南三陸町町長には、ひとつお願いがあります。海や山を活かした、第一次産業を中心とした町づくりをしていただきたい」と申し上げたんです。歌津も志津川も海で生きる町だからです。
町長を辞任した10月1日の次の日から、次の町長が決まる11月4日まで、私は職務代行を務め、職場を去る最後の日、11日に志津川の役場に職員全員を集めてお別れの挨拶を行いました。「私は今日で南三陸町役場を去りますが、皆さんにお願いがあります。南三陸町は職員の皆さんがつくる町ではなく、住民の皆さんがつくる町です。だから職員の皆さんが現場に出て町民の声を聞きながら、町民がどのような町をつくりたいのか聞きながら、新しい町をつくってください」と最後のお願いをし、完全に行政から手を引いたわけです。
平成11(1999)年には、イタリアのベザーノ(Besano)という町と友好町になりました。この町はスイスの国境付近にある町で、歌津と同じ魚竜化石の町。歌津では2億4千200万年前の魚竜化石が出土しているんです。ベザーノの化石は、歌津とは違って海が隆起した山から見つかったそうです。ベザーノのほかに、魚竜化石が出土した町としてはドイツのホルツマーデンがあります。
じつは、最初に友好町の話を持ちかけたのは、このホルツマーデンでした。しかし、ドイツという国はお金持ちの子どもしかホームステイができないというんです。ホルツマーデンの隣のキルヒハイムという音楽家の多い町にも話をしましたが交渉は難航しました。そこで、候補国をイタリアに切り替えたんです。イタリア人は陽気で面白く、話を持ちかけると「OK! OK!」と、二つ返事で応えてくれました。ベザーノのコロンボ町長も面白い人で、歌津で開催した「国際魚竜化石サミット」で締結を結んだ際には、わざわざ歌津まで28人の親子を連れて来てくれて、お互いにホームステイをして交流も行いました。
町には国際交流協会も作り、町の予算で子どもたちを国内外に送り出しました。小学生は国内の、海のある町と山のある町に行きます。山の町は山形の立川町(今の庄内町)。ここは風力発電を進めている風車のある風の町です。研修に行った先の町の子どもたちは歌津へ招待し、10月にワカメの種はさみ、2月はワカメ刈りの体験をしてもらいました。これは、立川が合併して庄内町になっても続いています。中学生以上は海外へ研修に行かせました。そして、大人たちもグランドゴルフで交流を行いました。
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