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農業は、田んぼといっても、この辺はご覧のように傾斜地の山間地だから、「棚田」なんてあるけれど、ああいう大規模な棚田なんていうのは、ここでは無理です。田んぼをやるには、水がいるでしょう? だから、沢ざわ、水のあるところに田んぼを作った。水田を作れそうなところを耕したというわけです。この辺は、小規模なんです。自分で食べるくらいしかできないんです。耕地が少ないです。これは一般論ではなく、私の家の話ですよ。
この辺は本当に零細農家だから、100アールなんて耕地は稀です。今考えたら、よく生きていたというようなもんです。収穫量が少ないんだもの。田んぼは、水を引くでしょう? 沢にしか水がないんだから。灌漑用水なんて、昔は機械で水を汲み上げることができなかったから、水のある周りだけで田んぼをやっていたんです。米を売るぐらい採れる人は何人もいなかったんです。食って終わりです。畑には麦を作りました。米が少ないから麦も食べるんだ。麦ごはんにして食べたから、糖尿病の人が少なかったんです。今は糖尿病の人が多いよね(笑)。
ところが、今は米も安くなり、そうして肥料なんか、色々なものが高くなったから採算が合わなくなって、みな放棄してしまいましたね。今はね、田んぼも畑もほとんどね、耕作しない人が多いです。ウチももうやっていません。沢だから、山が伸びてくると日陰になってしまうから、木が伸びると何もできない。そういう条件の土地ですから。農業は10年くらい前まではやっていました。
私の生家は、半農半漁です。兼業です。そして、自営業だね。田んぼも畑も魚もやるってことです。ワカメはここ何十年です。昔、ワカメは養殖ではなかったです。天然のものだから。皆さんは、おそらく養殖のワカメしか食べたことがないと思います。昔のワカメは、天然のものは硬かったんです。そいつが、技術が進歩してね、昔はワカメといえば、生で塩蔵したのが始まりです。
最初は、生のワカメを塩蔵にしたんです。そいつが色々進化して、ボイルして、茹でてからね、テレビで見たことあるでしょ?そのようになってきたんです。乾燥わかめといえば、昔も乾燥もやりました。その時は、灰をまぶして乾燥しました。灰で乾燥させると色が良かったんです。今は、天然物は全然ないです。養殖物を食べたら、天然物は硬くてね、今は誰も食わねぇの。
米作りでは自分のところだけでなく、他人から田を借りて5~6ヘクタールもの請負耕作をしました。その当時トラクターはなく、テーラーという耕運機で畑を耕したものです。牛も5頭飼って乳搾りをしたり、「上台ファーム」の自動車を買って、木を伐って炭を作り、それを車に乗せて仙台へ売りに行ったり、タバコの栽培もしましたし、養蚕もしました。ドジョウの養殖がいいと言ってやっていた時期もあります。いろいろ挑戦して、ほとんど失敗ですよ(笑)。
私の生家は350年前から14代続く農家です。名字が無いのが当たり前の、名前だけの時代からありました。鱒淵という地域は、今は300軒くらい家がありますが、古文書の上では18屋敷から始まったとされ、我が家はその18軒のうちのひとつなのです。家が続く、ということは実は大変なことです。
3月になったら畑の仕事が始まります。麦のあとのかさを取ったりします。麦蒔くのは、9月から10月ですが、翌年の3月頃、雑草を取ったり、麦踏みしたり、手入れをしたんです。
麦踏みというのは、冬に土が凍って、春になると溶けて、根が浮き上がってるから、土をかぶせて足で踏むんです。麦の収穫は7月頃だね、お盆の前に収穫終わりますから。お米は5月頃に植えるんですね。4月頃に苗をみな、各家庭で作ってね。収穫は10月頃ですね。この辺りの冬は、稲の収穫が終わると翌年の3月頃まで畑が凍ったりするので、農業はお休みなんですね。
実家は農林業でした。炭を作るんです。山の木を切り出して、窯に木を仕込んで焼いて、できた炭をちゃんと梱包して製品にして、ここらへんに出荷してました。当時はいっぱい炭が売れたから、それが我が家の収入源でした。
夏になれば、刈り払い、下刈りと言って、植林後の山に雑草が伸びてくるから、それを刈る手入れが必要だった。冬は冬で炭焼きの仕事があり、年中働いてましたね。
今朝も、気仙沼の鹿折(ししおり)まで行ってきましたが、まあ、驚きますよ。工場は焼けてメチャメチャだし、水も来ているし、あれでは寝ることもできません。半年経ってもあの状態とは、酷いものです。1回行ってみたらよく分かると思います。それでは、歌津の復興はどうするのか、という話です。
歌津は海と山の町です。とくに漁業は盛んなので、まず第一次産業を早く立て直したい。
でも、船を揃えるにも、ホタテや貝の動力船だと9トン級の漁船が必要です。そうなると、少なくとも5、6千万円はかかりますから、家を建てるより高くつく。しかも、それは船を揃えるだけの金額で、漁を始めるにも5、6千万はかかります。この地域で考えたら、ワカメや海藻、アワビなどを採る24尺くらいの強化プラスチックの船でも一隻何百万円。それにワカメの資材なんかを揃えると5、6百万円はかかるでしょう。それから、資材を置く土地も必要です。それなのに、土地はない、家もない。土地だけでもあればいいけれど、仮設住宅に入っている人はそれもないんです。しかも、2年の期限が過ぎたら、出て行かなきゃなりません。だから、早い段階で資金が必要です。神戸などの震災とは状況が違うんです。
しかし、「自然にはかなわない」。農業をやるにしても、今回の震災にしても、相手が自然では、どうしようもないですね。これは、吉川英治が書いた『宮本武蔵』を読んで改めて悟りました。武蔵は精神統一のために山にこもり、畑を開墾して自給自足の生活をしたんですね。そして、畑や田んぼは、自然から幾度となく被害を受けました。そのうえで、自然には勝てない、自然を利用しなくてはだめだと悟った。だから、佐々木小次郎との巌流島の対決でも武蔵は朝日を背負って立つ。そこで構えたときに、小次郎の目を朝日がくらますんです。私も、武蔵ではないんだけれど、やはり自然には勝てない、うまく利用することだと、つくづく思います。
父は専門の漁業をしていたわけではありませんが、漁業権は持っていたから、開口とか、ハモ釣りとかには行っていましたね。漁業権もいつのころからかわかりませんが、漁業協同組合を立ち上げて、農家の人たちを漁師さんのようにして、漁業権を与えたんです。漁業権がなければ、開口の日にアワビなんかを獲りに行けないですからね。たいていは、半農半漁ですね。海あり、山ありだから。
戦争中は、男手が(出征で)無くなってしまい、田んぼは働き手がないから、学生さんが来てやってくれていたんです。今みたいに農機具がないから、田んぼを軟らかくするために、足で踏んだんです。牛や馬が入れる田んぼはそうやってしたんだけど、このころの田んぼはみんな膝の上までの深さがあるほど深かったんですよ。
昭和52(1977)年ごろからホウレンソウは市場に出荷していました。当時夏場にホウレンソウを出荷する人はいなかったんです。ホウレンソウはもともと冬の作物ですから。作物には、長日性作物と短日性作物との2つがあって、長日性は日が長くなって花咲くもの、単日性は日が短くなって花芽が付くものです。ホウレンソウは典型的な長日性なので、夏、種をまいて17、18cmぐらいになった時に花芽を取り去って市場に持って行ってみたら、市場で受付のやり方を聞いている間にそれが売れてしまったんです。なんと(250g1束あたり)400円の高値で売れたんです。当時の400円ですよ。それは当時、「先取り」と言って欲しい人が先に持って行ってしまう方法でした。そんな時代もありました。
それから野菜研究会という組織を立ち上げて、最終的には100人以上の組織になりました。後に農協内にホウレンソウ部会を作って会長をやって、夏場のホウレンソウ出荷を定着させるよう努力してきたんです。
本格的に野菜を市場に出荷し始めたのは昭和55(1980)年、大冷害の年でした。米の収入はゼロでしたが、国からの補償金で何とかなりました。しかし、それをきっかけにもう田んぼは儲からない、ということで、ハウス栽培に切り替えたんです。息子も生まれた時だし、百姓を継ぐ気持ちもあったから、借金をして昭和56(1981)年に750坪の土地にビニールハウスを建てました。そこは道路よりも1m以上低い土地だったので180万円かけて埋め立てて、その上にハウスを建てたんです。その時女房には話さずにやったので、今でも「相談してくれなかった」って女房に言われますね。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
実家は農業。ああ。おめぇたちに言ってもわかんねぇなあ。その頃は機械も何もないから、田を起こすのにも、荷物を積むのにも、馬を使ったのさぁ。農家はどこにも馬がいたの。お父さんは、その馬の、荷物を積む荷鞍の、その中に入れる「タバサミ」(鞍薦(くらこも)というが、この地方では「タバサミ」とも呼んでいた)っていうのを作ってたの。ガバでね。ガバっていうのはね、因幡の白うさぎのガバだよ、♪ガーバにく~るまれ♪って、あの。穂が綿にくるまれとって、綿(わた)みたいになるの。ガバっていうけど、ガマだね。なんとなくわかる? それでね、自分で荷鞍を作って、それを売ってたの。
うちのお父さんは荷鞍のタバサミを作ってお金を取って(現金を稼いで)たけど、その頃、お金取り(労働力を提供して賃金をもらうこと)っていうのはそんなに無かったの。それが、昭和8(1933)年、二十一浜にね、津波が来たんです。そのあと、堤防を拵(こしら)えんのが土方で、それやって金取りが始まったんだって、聞いてたのさ。私はそんときは子どもだから、そんな「金取り」の意味なんか考えなかった。うちのお父さんは、農家やって、農家の仕事が終わったらば、荷鞍のタバサミを拵えに行商に出っから、土方はやんないの。農閑期に何もしない人は、二十一浜の堤防の土方に金取りに行ったね。
農家はね、毎年、荷鞍を左右とも、両方、新調するの。毎年のことだから、農家の家々では、タバサミの材料のガマを刈って、乾かしておいたのを置いておくの。
冬に農作業をしなくなると、お父さんは登米だの横山だのに出て、ずうっと家を空けて出稼ぎです。毎年(まいねん)毎年(まいねん)、ずっと、タバサミを作り作り、一軒ずつ行くんだ。お金もらって、そのお金でどこかに泊まりながら行商するんです。出稼ぎは、柳沢から始まって、大盤峠を越えて、横山(登米市)まで行ったんですよ。自動車が通んない前、昔だからね。雪も降ったそうです。横山にたどり着く頃には、お正月、昔は旧のお正月だから2月になるんですよ。
農業研修では、宮城県の青年の国内研修の第1回目に参加しました。農業部門と教育部門に分かれて1カ月の研修です。私は農業部門で、富山県に1週間くらいホームステイをして稲刈りなどの研修をしました。静岡県の御殿場にある「国立青年の家」にも行きましたし、千葉県の鋸山で有名な鋸南町にも行きましたね。各地の農家に1週間くらい滞在して一緒に働くんです。全部で20人くらい参加していたと思います。行った先では分宿で、1週間たったら集まってまた移動する。その頃は、まだ宮城県には「青年の家」もありませんでした。私たちが研修に行ってから、ああいう施設も必要だという話になったのではないかと思います。