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米川では人がなくなると、お寺で葬儀をしたあと、棺台にひつぎを乗せて野辺の送りをしたものでした。昔は土葬でしたので、亡くなった人が出ると、村の人が桶のような形の棺を亡くなった人の身体の大きさに合わせて杉の木で作り、その中にふつうは膝を抱えて座るような感じに入れ、棺台(がんだい)に乗せてゆっくりとお墓まで担いで運んだのです。身体が下り曲がらなければ長方形の棺にして寝かせ、リヤカーに乗せて運びました。契約講といって近隣の互助会で葬儀を執り行ったのです。
この写真はカナダ帰りの写真屋さんが撮ってくれたものですが、75年前の葬儀の写真です。亡くなった人を家から運び出すときは、玄関から出すようなことは絶対にしません。必ず座敷から出て行きます。そしてそのあとを箒で清めるような動作をしました。
この辺は田舎だから、結婚式や葬儀もいろんな取り決めがあるんです。まさか急に親父がそんなことになると思っていないから、親父にもどうするかなんてあまり聞いてもいないし、年配の人にしたってきっちり覚えている人は少ないし。外野席は一杯いるけど、きっちりと葬儀を仕切れる人はいなかったんですよ。やり方がわからなくて、批判されました。その時自分で苦労したからそれ以降、従兄弟たちに恥をかかせないようにいろいろ教えておきました。
私のような3代目になると、かなり親戚が増えるから大変なんです。冠婚葬祭も3代分の付き合いに渡ってやるようになります。1代目の関係する人たちは、全国に出ているわけです。八王子にも親戚が3軒あるんですよ。普段は連絡をとらないけれど、そういう時の連絡は間違いなく来ます。全部、礼を欠かさず、冠婚葬祭の誘いには行きましたよ。
親父の病気が見つかってからの10年間は、女房もそうだったと思いますが、ものすごくハードでした。よく乗り切れたと思います。それもね、兄弟が多いから支えられたんだと思う。私の兄弟6人に親父の兄弟は10人いましたし、一人仙台空襲で昭和20(1945)年に亡くなっていますが、その他はみんな所帯を持ってるんです。2~3人の家族で、あの状況を乗り切れるかっていったら、無理だったと思います。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
私は小学校3年生の夏休み、父親が病気になって、小泉に帰ってきたのですが、父親はその年、42歳で亡くなったんですね。
8月の暑いさなか、母親が、父親の枕元にみんな集まれって言いました。母親は、「父ちゃんは間もなく死ぬんだ。死ぬっていうことはあと、この世の中に生きてこられないんだよ。お前たちはこの家をしっかりやっていかなくちゃだめなんだよ」と言いながら、ガーゼを割り箸でつまみ、水を浸して「末期の水」で、父親の唇を濡らしてやったんですね。私たちはおんおん泣きました。そして母親がやったように、こうして脱脂綿で唇をこうして濡らしてやって。その時でさえ、母親は涙を流さないんです。気丈な女性だったんですね。
土葬が行われていた頃は、会員が亡くなると会員たちで埋葬のための穴を掘ったものです。そうすると、ご遺族が「これで飲んでください」と1万円ぐらいくださるわけです。そのお金を使って、弔いの酒席をつくる。そうやって交流の場を増やしていました。近くの食堂あたりで飲みながらね。今はそういうこともしなくなりましたが、契約会館で卒塔婆(そとば)をあげたりしてね。火葬となった現在でも、納骨堂の掃除などは会員が行っています。
契約会以外の地域との絆も強いですよ。誰かが亡くなれば、必ずお悔やみにも行きます。昔は必ず亡くなった方の家に行って、3千円とか5千円とか包んでお線香を上げてきたものです。そして、香典のお返しは近いところは直接、持っていきました。でも、最近はお悔やみに行くと受付でお返しをくれるから、便利になりました。その場で全部、済んでしまうんですね。
生まれは昭和13(1938)年8月31日です。ちょうど73歳です。宮城県本吉郡歌津字伊里前です。ずっと地元で生活してきました。
兄弟は、弟と2人です。兄がいたんですが、5歳で亡くなっていますから、両親と弟と4人家族です。父は役場職員でした。
半農で農業を少しと、役場の職員という感じです。「歌津町史」にも載っています。町役場では助役を務めていました。農業は主に田んぼをしていました。
私が小さい時、父は軍国主義者っていうか、当時の大人はそういう風だから、小学校へ入る前に仙台へ閲兵式を見に連れて行ってもらったことがあって、その時、偉い人たちは馬に乗って衛兵は銃を肩に行進していて、それを見て親父に「お前は歩くより馬に乗る方にならないと駄目だ」と言われました。
親父が偉いとかそういうことではなくて、そういう時代。で、そんな親父だから戦争に負けた時、1週間飲まず食わずになって「このままだと親父が死んじゃうぞ」と子ども心に思いましたね。当時はラジオがまだ珍しくて殆ど無かった時代だから、ウチの前に近所の人たちが集まって玉音放送を聞きました。玉音放送は、明らかに国民に対する謝罪の言葉だと思いました。「申し訳ない」というね。私はわかりましたよ。
親父が飲まず食わずになったのも、「申し訳ない」という気持ちだったんだと思います。本当に飲みも食いもしなくて、頑固でしたね。赤紙が来て応召して、戦地へ送り出して、中には戦死した方もいたわけだから、「申し訳ない」と感じたんではないでしょうか。
津波の前に、たまたま親父の写真を整理した時に、「村葬」って言って、歌津村葬っていうのをやったんだけど、山内さんという方の旗(のぼり)の写真が見つかって、その家の方に「あるか?」って聞いたら「無い」というので大きく引き伸ばしてお渡して、喜んでもらったことを思い出しました。
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