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華足寺のお供えは伊勢の神宮の流れを汲んでお膳を捧げるんだねえ。献膳係の中に「献膳係」っていうのがいてね。お祭の形式的なことを守り伝えている人がいるんだね。
オイカワエイシさんって今度総代になって貰ったんだけどね、献膳長でやってもらってる人がいるんだね。3人いるのね、献膳ってひとが。そのうちの総代になって貰ったんだから。昭和13年生まれのかただね。私より1つ上。
献膳の内容は、全部写真におさまってあるんだけども、非公開ってなてんだね。なるべく写真撮らせねえんだ。例えば大根の太さがなんぼで、長さがなんぼでって全部それを測って記録したんだね。お膳が17あんだけども、1の御膳さ何付ける、2の御膳さ何つけるって、白菜とかいろんなもの買ったりとかね、米を分けておいたりする。
それから、我々献膳の係はお膳を捧げる時は、紙っこを三角に折って口に咥えるんだね。お話をしたり、神さん居るんだからお膳に不浄な息もふきかけんな、っていうことなんです。
ところがそんなこと最初から指導してないもんだから、人が足りないからってにわかに頼んだ若い者がちゃんとしてなくて、去年の秋には雷落としたけどね。やっぱりこういう言い伝えというものは、大切だね。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
小泉は3つ部落あんのさ。『浜(はま)(蔵内、二十一浜)』、『町(まち)』、『在(ざい)』と。それから4月8日には、『在(ざい)』の御薬師(おやぐし)さまのお祭りをしたんだね。
8月の13日は、『町(まち)』の八幡様、普通は8月15日に八幡様のお祭りをするけども、『町(まち)』は、なんだか早めに13日にするので、「早稲(わせ)八幡」というんだね。今は勝手に日曜日にやるけどね。9月15日には『浜(はま)』の御天皇(ごてんのう)山のお祭り。そんなのは覚えてんだよねえ(爆笑)。そんな昔のことはよく覚えてるんだけど、今のは忘れるんだよねえ。本当におかしいね、今のことは忘れてんだから。
小泉の虎舞はうちの子どもたちも太鼓叩いたし、孫もやるから、20年以上前からだねえ。
そして御天王山(ごてんのうさま)の獅子舞を、虎舞の後にやるようになったの。それを見て、ちゃっこい(小さい)サヤ(お孫さんの名前)が泣いて、泣いて。踊りだすというと虎が動くんだ。そうすっと「おっかねえ、おっかねえ」って泣いて泣いて。歌生(うとう)(本吉町歌生)のお祭りの獅子舞は最近出てきたけんども、小泉のお祭りのは昔からずっとあったのかな。そして、子どもたちが太鼓叩きに行ったのね。
平磯の虎舞はとても盛んで、中国だのなんだのにも公演に結構行ってるってね。
私が子どもの頃には虎舞なんかなかったし、獅子舞もなかった。
私が子どもの頃のお祭りは、風船を膨らましてバァーっと鳴ったり、そういう売り物がいっぱい出たの。お金をもらって、なんか売り物がなんでも、買うのが一番嬉しかったの。うんうん。そのお祭りよりも、その買うのが面白かったんだねぇ。
その頃は、子どもは太鼓を叩かねえの。叩きたいとは思わない。叩くのは全部大人だったの。男だけ。笛も吹いて、その笛さあわせて太鼓を叩いたんだね。今はどこでも、子どもが叩くね。
私が東京に奉公に出て、こっちにいないとき、そうすっと昭和12~13(1937~8)年ごろだね、そんとき、ここで踊りなんか教える人は、誰もいなかったの。そしたら、堤防の石垣作る人が、米川(登米市米川)のほうから来て泊まって、ここの学校の子どもたちに踊りを教えたんだって。その踊りを今もやるんだってよ。
神社の花火を上げた筒は、今は鉄なんですが、その当時は金属は無かったもんですから杉の木を割って、くりぬいて空洞にして、それを竹のダガ、桶なんか作るときに竹を細く切って編んでグルグル回すあれで、合わせて作ったんです。
それが、神社の縁の下にあったのを、だいぶ物心がついたときに見つけましてね。3本ぐらいありましたが、だいぶ年月が経っていて、竹は割れてしまって、合わせた奴が離れてしまっていました。
大人になってから、大工さんに、「古い奴はもう駄目だから、模造品をつくってくれねえか、昔小泉のお祭りの時に花火を上げた、そのひとつの名残としてひとつつくってくれねえか」ということでお願いして、2本ばかり作って貰ったんですね。それと、古くなってどうしようもなくなったのにはシートかけて、神社の拝殿の中に置いてあります。小さいころに小泉の神社の花火を上げたんだな、という思い出が大事にとってあるんですね。
小泉の花火って言うのは当時有名だったそうなんですね。岩手県の方まで応援に行って花火をしたそうなんですけど、その時に昔の家は今のような瓦じゃなくて草ぶきの家が多かったもんで、近くでどんどん花火を上げたら落ちて行って火事になってしまう。そして小泉の花火師がつかまったりしてね。そしてその後小泉の花火も駄目になってしまったんですね。
火薬の配合法など、いろんな記録はあったって聞いていました。たとえば火薬には炭の粉と魁皇の粉とか赤リンとか3種類くらい擦って粉にして、合わせるといい綺麗な花火になるからとか、他の人に読まれると他の人に秘伝が盗まれるから、暗号で書かれていたようですね。今の人たち見たって分かんないんですね。
ある家でその記録を持ってるって聞いたんですが、行ってみたら「ありませんね」って言う事だったんです。そういう記録がここ小泉の大事な大事な財産だったんでしょうけど、今は記録は無いんですよね。花火を上げた筒はあるんですから、それだけでも誰でも見れば分かるってことですね。文面がないんですね。
小泉地区にはそういう文章っていうのが今ほとんどないんですよね。先日も地元の小学校の子どもたちが学校から「郷土探検」っていう授業で来た時に、「昔小泉で花火を上げたんだよ」と筒を見せて話してやってるんです。
祭りの前には、必ず田束山に登ります。神様をお迎えに行くんですね。祭り前日の午後には神社に行って、神輿の担ぎ手は神官に祈祷をしてもらい、神輿に魂を入れてもらう。そして、翌日、祭りの1日目の午後には神輿を出して、45号線をずーっと魚竜館まで行って、神輿をきれいな海の水と塩で清めるんです。昔は違う場所で清めていたと言います。担ぎ手は、口に白い紙を挟み、白装束と地下足袋を履きます。地下足袋も昔は草鞋です。奥さんが妊娠をしている人は担ぎ手にはなれません。
また、祭りの前は、松の枝や竹を切って神輿の歩くところを全部、清めて、各家の前に縄を張る。神輿行列が通る魚竜館から45号線に向かう沿道もず〜っとです。これが、ひと仕事なんですが、伝統だからやらないわけにはいきません。担ぎ手も疲れますから、神輿の休憩所を作り、そこでも軽くお神酒を飲めるようにしておきます。こうした準備が本当に大変なんです。でも、伝統ですからやらざるを得ないんですよ。
祭りの2日目は、朝の10時に、神社から暴れ神輿が降りてきます。私も担いだことがあるけれど、誰も止められないほどの勢いなんですよ。神社の階段の下では、お囃子が流れて獅子が舞うんです。
これは京都からの流れを汲むもので、5つのお囃子を繰り返し演奏する。勇壮な“通り囃子”は、聴くと心がうきうきしますよ。自分も祭りに出たような気になるね。そこに、神社の階段からロープで吊るされた神輿が、だーっと揺れながら降りてくる。これがクライマックスで、最高なんですよ。そして、神輿の列は夕方には三嶋神社の神館に向かいます。神館に近づいたらお囃子と獅子舞が入れ替わり、屋台を先頭にして神輿も神館に入ります。ただね、今回の津波で、この神輿も神館も、みんな流されてしまいました。
地域の祭りは芸能部の役割です。昔は契約会だけで行っていました。太鼓も契約会の子どもしか叩けなかったんですが、だんだん子どもも少なくなったので、いまは伊里前の子どもなら誰でも叩けるようになりました。最近は祭りの運営も子ども会と共同で行うようになっています。
契約会主催の伊里前の祭りは、どちらかというと伝統芸能みたいなものですね。必ず、毎年やるというわけではないんです。原則として4年に1回は開催しますが、今年の祭りをやるかどうかは、春に町のみんなで決めます。たとえば、契約会の会員に不幸があったら、来年に先送りします。逆に、バイパスの開通や、田束山(たつがねさん)のダム橋の完成のような町の大きな事業があれば、その記念も兼ねて開催します。
お祭りは、三嶋神社が中心になって行われ、御神輿も神社にあります。
ただ、神社には神社の祭典がきちんとあって、それは太鼓を叩いて拝むんです。そして、祭りとなったら神輿を出して、村の若者が担ぎます。この神輿は、120年くらい前からの山伏の山岳信仰に由来するもので、田束山の神輿でもあるのです。山形の羽黒山とも関係があり、樋ノ口という地名も羽黒山と縁のある地名だそうです。田束山は奥州藤原氏が信仰したといわれる霊峰で、田束山を尾根続きに1キロほど南に行った満海山は、出羽三山の修行僧がミイラとなるために入定したといわれています。
私の住んでる地区は、昔は年に2回、春と秋、今は旧暦の10月19日に地域の祭典日があったんです。しかし、今回のこの震災で、地域の神社の宮司さんが不在になっています。歌津には宮司さんが2人いらっしゃったんです。田束山(たつがねさん)を信仰する宮司さんと、うちの方の八幡様の宮司さんが。私たちは八幡様の氏子なんだけど、そこの宮司さんがいなくなってしまったんですね。
お正月には、神棚に飾る幣束や「きりこ」を、宮司さんがみんな切って氏子に渡すわけです。だから、宮司さんが見つからなかったら今年のお正月はどうすんだろうなって思ったんです。
神職と教職を兼ねている人は多いですよ。お寺のお坊さんは、檀家が多ければそれ専属で生活できるわけです。宮司さんなんて氏子がいてもそれで生活できないでしょ。宮司さんの仕事なんて地鎮祭とお祭りとか、年に何回しかないんだから。これから宮司さんをどうするか、氏子は今悩んでるところなのです。今は他の地区の宮司さんにお願いする方法しかありません。宮司さんになるのは、お寺の和尚さんになるより難しいということでした。
「いや、誰でもできんだ、テープレコーダで音を流して、ダンダン、ダンダンって。烏帽子をかぶってやればいい」と冗談でそんな話もしていますが、本当に宮司を務める人がいなければ、ただあの、お正月のお飾りができないんです。都会と違ってわれわれは海と神様と深いかかわりを持って生活してきたんですから。
氏子も、昔は神社に何度も奉納する機会があったわけですが、今は単なる神社を回っての打ち鳴らし、要するに、神楽です。宮司さんの鳴らす太鼓は神楽の太鼓なんです。私自身、神社ではありませんが、青年団で神楽をやったので、ある程度の知識はあるんです。当時ある地区の郷土芸能を伝承しようということで、若い連中5〜6人を集めて、神楽を習いに行ったんです。そして、青年団で芸能部門で県の文化祭に参加して神楽を披露し、優秀な成績を収めたこともあります。
うちの部落で神社は3つあるんです。八幡神社(はちまんさん)ていうのは、各部落にあるもので、そのほかに白山神社、愛宕神社。祭りの時はお神楽で、その3箇所を回ることになっています。神社は、建てる位置も「田束山から見て南南西になんぼ」とか、角度が決まってるんですね。詳しいことは分かりませんが星回りなどが関係しているのかもしれません。
肉って言うのはめったに口にしませんでしたね。クジラの肉は食べましたよ。その他はたまに、卵を産むのに飼ってる鶏をシメたこともありました。
漁に出ると、黒い海鵜(うみう)がエサを狙って寄ってきて、延縄(はえなわ)にかかるんですよ。その羽をむしってカレーライスに入れてみたら、その肉が真っ黒で臭いんだ。美味しくなかったですねえ。でも肉には違いない。美味しくはないと言っても肉だからね。私たちが昔食べた肉というのは、そういうものでしたね。ジンギスカンとか豚肉なんていうものを口にするようになったのは最近ですね。子どもの頃は肉を食べることをしないから、初めて牛肉を食べたときは、それが鳥の肉だか牛だかも区別がつきませんでしたね。
私にとってのご馳走ってなんでしょうね。誕生日を祝うなんて習慣は田舎にはないですから。一番の大好物は稲荷寿司で、これが一番のご馳走だと思ってますね。ちらし寿司よりもお稲荷が好きだったですねぇ。子どものころから今だに(爆笑)。運動会や学芸会の時は、必ずお稲荷にしてもらってました。こういうことを言うと、自分の子どもたちにも笑われましたけど(笑)。昔は稲荷寿司の皮が缶詰になって売られていたんです。寿司飯は作るんだけど、皮だけは缶詰を買うんです。いまは、袋に入ってるでしょ? これがメーカーによってぜんぜん味が違うんですよ。あるメーカーじゃねぇと口に合わないというのがあって。いまは自分のところで煮ますが、やはり缶詰の方が美味しかったと感じますね。お祭りの時も稲荷寿司かって? お祭りのときは稲荷寿司じゃない、お餅ですよ。
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