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この寄木(よりき)という地名は、台風でたくさんの木がここの浜さ、全部寄り上がって(打ち寄せられて)山になってたと。その前に、田束山(たつがねさん)ていうのがあるんですけど、あそこに住んでるお坊さんがお寺を造りたいということで、ぐるっと諸国巡ったらしいんだね。そんでたまたま通りかかったら、ここの浜さいっぱい、木材が寄り上がって、それを使って、大きいお寺を建てたんだね。ぐるっとその、木を使ってお寺を建築したっていうそれで、寄木いうような地名が。だから家の流されてない、半分ぐらいまで奥はもと海だったんだ。長い年月にだんだん陸(おか)になって、家が建つようになったから、また今後の津波でさらわれてんだ。
この部落でさえ、今度高台さ、移転するんですけども、そこの少し手前の山に、ここの寄木部落で一番先に、住んだ侍、落ち武者なそうですけど、その敷地があるのね。平らになっていて、土台にした石だなんかが残ってる。だんだんに時代が変わって、海で生活するようになってきたんで、山の方から浜まで通うとひどい(体が辛い)というような恰好(かっこう)で、そこからちょこっと行くところから、神さんあるんだけっどね。そこへ引っ越してきて生活したんだ。高いところだから「上(うえ)」ていう屋号がついてるんだ。昔(いにしえ)の人たちもさすが、津波ということには頭を入れて、高台に住んだんだね。今度の津波でも、本宅までは行かなかったけども、蔵のあたりまで波が来たって。昔からの家訓として守って、今度の震災にも助かって。
田束山(たつがねさん)に行ってみるといいですよ。あそこは、藤原秀衡(ひでひら)があそこを開山して、お経の筒を埋めたんですよね。それが発見されて、霊山と呼ばれています。
お祭りは、5月6月に旧歌津町と旧本吉町でつつじ祭りっていうのをやってたんですよ。旧本吉町というのは、今は気仙沼市と南三陸町に分かれてしまいました。地震で倒れてしまったんですが、三十三観音像や、不動明王像もあります。観音像は大体1メートル50センチくらいのが33体あって、あと高さ5~6メートルの不動明王が1体あります。
大谷地区ってありますよね、あそこは大谷鉱山って金が発見された場所です。藤原氏は金色堂で有名ですが、関係があるって伝承があるんですよ。(注※この地方の金が、奥州藤原氏の黄金文化を支え、平泉中尊寺金色堂に使われたともいわれている)金の採掘の歴史は相当古いものだと思うんです。大谷鉱山は石巻の金華山の下までトンネルが続いてるっていう話もあるくらいですからね。
実はうちのじいちゃんは大谷鉱山に行っていたんです。それが閉鉱になってから、シーサイドパレスで働いたんですよ。
今度の津波のときも、昭和8(1933)年のとき助かったように、柳沢の奥のほうに逃げて行けばいいと思って、手押し車持って行ったのよ。それで足も冷たいし、中に入り込んだの。
その時孫が、金曜日で、遊びさ行ってきたばかりでね、そんで地震があったから、今までの地震と違うと、地震にたまげて、訳分かんなくなって(動揺して)しまったのよ。
それで、「早く、車さ乗れ、車さ乗れ」って。そうして今語るわけさ。車こうしてあるから。あれさえあれば、どこさ行ってもいい。たたんでね、それさ積もうと思ったの。そうしたら孫が怒ってね。ラジオできょうの津波のことを詳しく言ってるんでないか、と思ったのね。そして、実家さ行ったのさ。
そこまで行けば大丈夫だと私も思ってだんけど、そこも、みんな逃げてしまって、いなくなって、うちのおばちゃん一人なの。おばちゃんも車に乗るなり、「早く! 早く行け!」って言うんだっちゃ。だから孫の言う事聞いて車に乗って、田束山(たつがねさん)ていう小泉の一番高い山の中盤の、遊び場があって、そして、トイレがあるとこ行くっていうのさ。そこなら安心だからって。そこへ連れていかれたの。だから津波は見なかったわけ。
私たちと孫はね。「とにかく早く乗れ」ってことで、そこへは、一番先に着いたんだよ。あとからどんどん他の車が来て、夕方には駐車場がいっぱいになったの。それで、そのあとは、高いところにあるから、小泉中学校の体育館に行ってきた。雪っこも降ってきた。
二十一浜の人の話、聞いたんだけど、そこは真ん中に川があって、両側は山で、川の両側に家建ってんのよ。だから逃げるっつたら、山さ上がって行くのね。山さ上がって津波の来るのを見てたんだって。見てた人、一杯いたんだって。その人たちから話を聞いただけで、私は何も見なかったの。そしたら、小泉の町が流れた、さっき通った実家も流れたっていうんだもの。ほんとに驚いた。そうしたら、陸前高田も流れた。志津川も流れたっていうからねぇ、夢にも思っていない。
こんな津波が千年前に来たんだって、そんなこと、だれも昔話だって思うね。明治の津波のことは聞いてたけども、そんな千年も昔なんて、そんなの、もう誰も聞いてないし、誰も知らない。語りおく(語り継ぐ)も何も無かったからね。それまで、こんな津波が来ると思ってなかったんだよね。そしたら、みんな無くなってね。でも、昼間だからまだ良かったんだよね。波が来たのが夜だったら、まだ亡くなった人もいっぱいいたでしょうね。
今、津波はこんな目にあうと思わなかった。夢にも思わなかったね。
田束山に経塚遺跡というのがあってね、それを見つけてほっくり返したら、無断でやってしまったので、県からしこたま怒られてしまいました。多賀城の歴史資料館の館長が来て、掘ったものを、ガーゼに包んで持ちかえったあと、「お前たちは、無断発掘したけれど、重要なものを見つけた。功罪相半ばするから、不問に付す」というわけで告発されませんでした。
この田束山経塚の発見者は伊藤教授となっており、今でも経塚は、仙台の多賀城の歴史資料館に展示されています。
それからそこで見つけたガラクタを、うちにもって来ることができたので、家内と二人でセメダインでくっつけてみたんです。そしたらこんな壺になりました。
ある日新聞記者が来てね、自宅に保管してあった壺を見て、拾ったもの無断で持っていると「ネコババ、犯罪だよ」というので、急いで警察に届けました。警察では、「これは文化財に認定する」ということになり、戻されてきました。それで、魚竜館に津波で流されるまで飾ってあったんですよ。
ごはんはね、麦を一杯食べました。そこに米を混ぜて、それでも量が足んなくて大根を足したのね。なんていうの、カテ(いわゆる「かてめし」のこと)っていったのかな。とにかく鍋に麦も、大根も入れて、そこに米も入れる。だから、米だけ炊くんならば簡単だけども、そういうのも入れっからね。あの頃と今は、本当に変わったね。麦なんか見あたらないよね。なんであんなに麦食べたんだろうねぇ。米と麦、どっちが美味しいって、米が美味しい! 米はお正月だけ。米のごはんはお正月だけで、その他は、お盆におこわなんかするからね。今の人たちは、おこわなんか珍しくも何も無いのにねえ。
「お正月はいいもんだ 雪のようなご飯食べて 油のような酒飲んで お正月はいいもんだ」 だっけか。そういう歌があったんだよな~あ。
(お正月の歌は口伝えで伝承されており、いろいろな歌詞があるようです)
ずっと昔は、酒っこもお正月しか飲まないんだよ。普通には飲まない。それはずっと昔の事だよ。今は、子どもたちも私も弟たちも、よそにてんでに(ばらばらに)暮らしてるから、寄る(集まる)というと、みんな酒っこが好きなの。だから私もおすばて作りに来い来い、っていうけどもね、話の相手はさっぱり。飲むことばっかり(笑)。
あっ、餅が一番ごちそう。餅が一番のごちそうなの。なんか喜びごとなんかがあると餅つくのね。それが一番のごちそうなの。あとはお正月は、粟餅だの、小豆餅だの、いっぱい作るんだな。餅もちつくとき米だけでなく、そういうのを入れたんだね。お正月じゅうお昼には餅焼いて食べたんだな。
お米食べるようになったのは、この頃でねえっぺかなあ? いつ頃か忘れたよう。ずっと昔のことは覚えてんけどね、今のことは忘れるの。あらあらあら。
だけんども、子どもが田束山さんの遠足だの、お祭りだの、どっかさ行くといえば、みんながするように、おにぎりさ梅干いれて白いごはんを食べさせたけど、ふつうは麦が入ったの食べたね。
小泉から見える海抜512メートルの田束山(たつがねさん)という山は、藤原氏の住んだ平泉の衣川、源義経の家来の弁慶が立ち往生した、あの衣川ですけど、その向かいにある山と非常に似ている山だそうですね。それで、藤原氏が伽藍(注:僧侶が集まり修行する清浄な場所。転じて寺院または寺院の主要建物群)を作っていろんなものをお祀りして拝む場所にしたんですね。その当時は40伽藍など、いろいろな建物があって盛んになったそうです。
田束山には3つの大きなお寺があるんですよ。(羽黒山)清水寺、(田束山)寂光寺(じゃっこうじ)、(幌羽山)金峰寺(きんぽうじ)とね。藤原家が滅亡した時に、ここも廃れて、その3つの大きなお寺が持っていた観音像を敵に取られないように、家宝と一緒に持って出て、ひとつは入谷、南三陸町の方に、もう一つは清水浜(しずはま)のほうへ、下って行ったんですね。
そのうちの一体と言われるものが山内家にあったんです。津波で流されましたが。私が小さい頃、よく兄貴なんかとイタズラしたんですが、重いんですよね。こんな小さくてしたの方が空洞なんですけどね、すごく重いんですよね。「これ金でねえか、切ってみるか?」なんてね。
病気で死んだ2番目の兄貴が、裏にして台のほうからちょっと削って見てたのを覚えています。それが何十年経っても錆びないで、ピカピカ光ってるんですよ。いろんな古文書を見てみたら、その頃、金鉱があって、金が沢山出たんですね。当時の金は精錬の技術が低く、粗金(あらがね)と言って、不純物がはいっていて、それであの像を作ったらしい。よく見ても表面はピカピカになってないんです。
田束山は何回も火災にあったことがあり、そのときの煤(すす)で黒くなっているそうです。そこを兄貴たちが切ったらそこだけまだピカピカしていました。大事にして神棚に置いていたんですけど、そういうものまで津波で流されました。
田束山には時の権力者が平泉と同じように金を運び込んだらしいんです。そして、金粉で書いた経文を、鉄で作った筒の中に納めて、敵が来ても持って行かれないように、土の中に埋めてしまったという言い伝えがありました。それが経塚です。
昭和何年か、気仙沼市の教育委員会が、東北歴史資料館の方をお呼びして、本当に経文があるか、ほっくりかえしてみようということになったんです。経塚を一つ掘ってみたんですよ。そしたら鉄の筒は錆で、ふたを外したら中に水が入っていました。経文を出してみたら、金で書かれた経文の文字がいくらか読めるものが出てきました。これは貴重なものだというので、東北歴史資料館に陳列されるようになりました。
山内家由来のお墓は大きく2つあるんですよ。ひとつは、古いほうで、藤原家のお墓。これは小泉中学校に行く途中にあるんです。山内家の先祖は、藤原姓を名乗って、田束山のお寺の学問の親分格、「学頭」をやっていたといいます。もうひとつはもっと高い山のところ、そっちは山内家なんです。
おそらく藤原から山内に姓を変えたのは、石に彫ってあるのをみると「山内盛」ってあるんです。彫が浅いので、よく見えないんですが。それが、観音像を抱いて山の下に降りてきて、寺子屋のように地域の方々に学問を教えてたんだということです。どんな人なのかもわかりませんが。
私の祖先の墓はあるんですが、位牌などは津波で全部流されました。あまり大きなものだと、何代も昔のものは置いておけない。ですから、薄い板をですね、一定の大きさに切って、法名と言うか、何年何月だれそれだれ、どこで亡くなったということを書いたんですね。妻が津波のあとに探して何枚か見つけてきたんですが、何枚もありません。
3月11日は志津川の高野会館の3階で、老人クラブの演芸会があったんで、それを見に行ったんですよ。ちょうどもう終わる頃に地震が来たんで、会館の職員がね、「津波来るから、どこさも逃げてはダメ、出てはダメだ」っていうわけです。だけどね、やっぱり逃げた人もいるわけです。
残った30人は、3階にいたから4階、屋上に上がりました。上がった瞬間にそこまで波が来ました。そして、屋上のさらにその上に機械室があったので、細い階段を上って、そこにみんなで入って行ったんです。
狭いからね、座ることもできないで立ちどおしなの。機械室に水が来て、電気が切れてしまったから、冷たくてもう大変。ずぶぬれだからね。足踏みしたりして、それでも、自分の足に全然、感覚がなかったんですよね、もう、自分の足だか、何だか・・・。頭が痛くなってくる、体は・・もう、どうにもしようがなかったんです。
もう波は一度で終わりではないんですよ、行ったり来たり何回も来たんです。7回ぐらいは来た感じがしましたね。一晩中いて、朝になって、昼も過ぎて、食べ物もお水も何もないまま、そこで過ごしたんです。どこも逃げるところなんてないんです。瓦礫で一杯で、歩くところもなかったんです。
祭りの前には、必ず田束山に登ります。神様をお迎えに行くんですね。祭り前日の午後には神社に行って、神輿の担ぎ手は神官に祈祷をしてもらい、神輿に魂を入れてもらう。そして、翌日、祭りの1日目の午後には神輿を出して、45号線をずーっと魚竜館まで行って、神輿をきれいな海の水と塩で清めるんです。昔は違う場所で清めていたと言います。担ぎ手は、口に白い紙を挟み、白装束と地下足袋を履きます。地下足袋も昔は草鞋です。奥さんが妊娠をしている人は担ぎ手にはなれません。
また、祭りの前は、松の枝や竹を切って神輿の歩くところを全部、清めて、各家の前に縄を張る。神輿行列が通る魚竜館から45号線に向かう沿道もず〜っとです。これが、ひと仕事なんですが、伝統だからやらないわけにはいきません。担ぎ手も疲れますから、神輿の休憩所を作り、そこでも軽くお神酒を飲めるようにしておきます。こうした準備が本当に大変なんです。でも、伝統ですからやらざるを得ないんですよ。
祭りの2日目は、朝の10時に、神社から暴れ神輿が降りてきます。私も担いだことがあるけれど、誰も止められないほどの勢いなんですよ。神社の階段の下では、お囃子が流れて獅子が舞うんです。
これは京都からの流れを汲むもので、5つのお囃子を繰り返し演奏する。勇壮な“通り囃子”は、聴くと心がうきうきしますよ。自分も祭りに出たような気になるね。そこに、神社の階段からロープで吊るされた神輿が、だーっと揺れながら降りてくる。これがクライマックスで、最高なんですよ。そして、神輿の列は夕方には三嶋神社の神館に向かいます。神館に近づいたらお囃子と獅子舞が入れ替わり、屋台を先頭にして神輿も神館に入ります。ただね、今回の津波で、この神輿も神館も、みんな流されてしまいました。
地域の祭りは芸能部の役割です。昔は契約会だけで行っていました。太鼓も契約会の子どもしか叩けなかったんですが、だんだん子どもも少なくなったので、いまは伊里前の子どもなら誰でも叩けるようになりました。最近は祭りの運営も子ども会と共同で行うようになっています。
契約会主催の伊里前の祭りは、どちらかというと伝統芸能みたいなものですね。必ず、毎年やるというわけではないんです。原則として4年に1回は開催しますが、今年の祭りをやるかどうかは、春に町のみんなで決めます。たとえば、契約会の会員に不幸があったら、来年に先送りします。逆に、バイパスの開通や、田束山(たつがねさん)のダム橋の完成のような町の大きな事業があれば、その記念も兼ねて開催します。
お祭りは、三嶋神社が中心になって行われ、御神輿も神社にあります。
ただ、神社には神社の祭典がきちんとあって、それは太鼓を叩いて拝むんです。そして、祭りとなったら神輿を出して、村の若者が担ぎます。この神輿は、120年くらい前からの山伏の山岳信仰に由来するもので、田束山の神輿でもあるのです。山形の羽黒山とも関係があり、樋ノ口という地名も羽黒山と縁のある地名だそうです。田束山は奥州藤原氏が信仰したといわれる霊峰で、田束山を尾根続きに1キロほど南に行った満海山は、出羽三山の修行僧がミイラとなるために入定したといわれています。
私の住んでる地区は、昔は年に2回、春と秋、今は旧暦の10月19日に地域の祭典日があったんです。しかし、今回のこの震災で、地域の神社の宮司さんが不在になっています。歌津には宮司さんが2人いらっしゃったんです。田束山(たつがねさん)を信仰する宮司さんと、うちの方の八幡様の宮司さんが。私たちは八幡様の氏子なんだけど、そこの宮司さんがいなくなってしまったんですね。
お正月には、神棚に飾る幣束や「きりこ」を、宮司さんがみんな切って氏子に渡すわけです。だから、宮司さんが見つからなかったら今年のお正月はどうすんだろうなって思ったんです。
神職と教職を兼ねている人は多いですよ。お寺のお坊さんは、檀家が多ければそれ専属で生活できるわけです。宮司さんなんて氏子がいてもそれで生活できないでしょ。宮司さんの仕事なんて地鎮祭とお祭りとか、年に何回しかないんだから。これから宮司さんをどうするか、氏子は今悩んでるところなのです。今は他の地区の宮司さんにお願いする方法しかありません。宮司さんになるのは、お寺の和尚さんになるより難しいということでした。
「いや、誰でもできんだ、テープレコーダで音を流して、ダンダン、ダンダンって。烏帽子をかぶってやればいい」と冗談でそんな話もしていますが、本当に宮司を務める人がいなければ、ただあの、お正月のお飾りができないんです。都会と違ってわれわれは海と神様と深いかかわりを持って生活してきたんですから。
氏子も、昔は神社に何度も奉納する機会があったわけですが、今は単なる神社を回っての打ち鳴らし、要するに、神楽です。宮司さんの鳴らす太鼓は神楽の太鼓なんです。私自身、神社ではありませんが、青年団で神楽をやったので、ある程度の知識はあるんです。当時ある地区の郷土芸能を伝承しようということで、若い連中5〜6人を集めて、神楽を習いに行ったんです。そして、青年団で芸能部門で県の文化祭に参加して神楽を披露し、優秀な成績を収めたこともあります。
うちの部落で神社は3つあるんです。八幡神社(はちまんさん)ていうのは、各部落にあるもので、そのほかに白山神社、愛宕神社。祭りの時はお神楽で、その3箇所を回ることになっています。神社は、建てる位置も「田束山から見て南南西になんぼ」とか、角度が決まってるんですね。詳しいことは分かりませんが星回りなどが関係しているのかもしれません。
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