文字サイズ |
日露戦争が終わった明治38年、田舎は過疎化して農村は疲弊しており、この地域一帯は貧しかったのです。というのも、戦争中に国益を上げることを重視し、都市化が進行して子供も戦争にとられたからでした。
ここでリーダーとして立ち上がったのが及川甚三郎なのです。及川姓を名乗っていますが、実は小野寺家から養子にいった人(小野寺重郎治の三男として米川字軽米に生誕)でした。小野寺家は当時、北上川を船で渡って、石巻、仙台、東京へと生糸や薪を売りさばいていた豪商でした。つまり、及川甚三郎もその商人の血を色濃く受け継いでいたのです。
甚三郎は、カナダのバンクーバーを流れるフレーザー川へ、大量のサケが遡ぼる、しかし白人は卵を食べないからそれが捨てられる、ということを噂で聞きつけました。彼はこれを塩漬けに加工して商売できないかと思い、実際に明治31年にカナダに噂を確かめに行きました。それは本当のことだったのです。
甚三郎は、サケの卵の塩漬けの加工をカナダで行い、成功しました。成功した要因のひとつは、東北地方からカナダへの、大規模な日本人移民が来てくれたことでした。当時は、移民法により大人数で移民することが許されませんでした。そこで、彼は石巻から密航させて人々をカナダに移動させたということです。このことは、新田次郎の著書「密航船水安丸」にも書いてありますが、私もその取材の協力をしました。
太平洋戦争が起こると、カナダにいた当時の移民の人たちは強制送還されるか、あるいはカナダの山奥の仮設住宅みたいなところに強制収容されるかのどちらかになりました。今いる移民の人たちは強制収容された(辛い時代を耐えて)残った人たちで、今はその子孫がカナダで生活しているのです。
それで今度は、サケマス漁に行ったんです。当時この辺のでは、家族から3人位漁へ行くと、家が1軒建ったんです。サケ・マスに4月から行って7月の中頃帰ってくるんです。3カ月くらいです。漁に1回行くだけで結構大金が貰えるんです。この辺は漁船漁業で偉くなったとこですから。歌津海岸地区は。
それこそ御殿みたいな家が建っていました。みんな津波で流されてしまったけれどね。
1年のうちに4月から7月にサケマス漁、そのあとサンマ漁に8月から11月まで行くとその年の漁船漁業は終わりですから、そのあと家に帰ってきて、海苔やらワカメやらを自分で採って、ふたたび漁船に乗る4月までやります。それを昭和53年頃までやってたんです。その間に家を建てました。
主人は父親と同じ、船乗りでした。獲ってたものも、おんなじです。マグロとサンマ、サケ、マス。サケ、マスは儲かった人は儲かったんだろうねぇ。一度出てって長い時で(帰ってくるまで)6カ月くらいでしたかね。家に居ても何日でしたね。それが普通の生活でしたから。帰って一緒にいると喧嘩するから(笑)。デートなんか、なかなかそれはできません。旅行もできない。
秋はサケ、夏はヒラメですか。冬だったらアワビを獲ります。ここのアワビは、養殖したのを放して、それが大きくなるまで待って獲るんですよ。
ウニは自然にあるものを獲ります。ここのはムラサキウニといって、北海道なんかのバフンウニとはまた違って、ちょっと甘いんですね。ウニ丼なんかおいしいですよ。ご飯よりウニの方が多いですからね。
Please use the navigation to move within this section.