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 [キーワード]津波

避難、支援、復旧

気仙沼線が通っていたんだけど、津波でその陸橋も砕け散っちゃったし、道路も寸断されて、家も基礎だけ残して、何から何までみんな流していっちゃった。見てみるとわかると思うけれど、本当にあそこまでなっちゃうのかなと。
残ったところは、砂が20~30センチも溜まっちゃって全然使えないし、ガレキがものすごいんで、片づけて、歩けるようになるまでに2~3カ月かかったんです。だから、みんな避難所に避難していたんです。

私たちは家は津波ではやられなかったけれど、2回目の4月7日の地震の時に、揺れが少し強くて、古い家だからちょっとずれてしまった。大規模半壊ってやつ。役場の人が4人くらい見に来てくれて、罹災証明書もいただいて、色々とお世話になったんだけれどね。
そのときに、ウチの奴がこのままじゃダメになるから、おかしくなるからって避難所に行きました。支援物資も避難所には来るのだけれど、ウチみたいに家が残ったところにはなかなか来ないんです。だから、避難所にもらいに来ていたんだけれど、いい顔されないんですよ。炊き出しを食べに来るのは良いけど、物資をもらいに来ると、「避難所が優先だ」と言われて、そういったことが厳しかった。
そんなときにあるボランティア団体が、避難所では物資が行き届いたんで、今度はウチみたいに家が残っているところで困っている人がいるのではないか、ということで来てくれた。そして、水だとか支援物資を持ってきてくれて、定期的に電話をくれて、また様子を見に来てくれたりして助かったんです。
それまでは水が本当に不便で、20リットルのポリ容器を5つくらい買って、消防署やはまなす(老人養護施設「はまなすの丘」)の方にある自衛隊の給水場所に車で行って運んでいたのね。それが終わると、蕨野(わらびの。気仙沼市本吉町)に自然の山からの湧水が流れる水道管がある、とそこを紹介されて、今度はそこに汲みに行って。もう1日おきなので重労働でした。重い容器を家の中に入れるのも大変。肩、腕、腰と、おかしくしちゃってね。でも、やんなきゃいけないからね。重すぎて持てないから、ウチの奴にやれとも言えないし、大変な思いをしました。
ついこの間、やっと水が通りました。電話が一番最後で、1カ月前くらい前に通りましたが、その2週間前くらいが水だったの。

「風人の庵へ、ようこそ。」須藤寿郎さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町小泉]昭和19(1944)年生まれ

3.11被災

震災の日は、地震が2時46分にあったんだよね。そして、すぐ下の家に4軒みんな集まって「大丈夫か」と話をしていたら、「津波が来るらしいよ」と聞いて、また自分の家に帰ってから、1軒上の家に行ったんです。
そうしたら、ものすごい、「ゴォー」という音がしてね、すぐ下の家が波に押されて、みんなウチのところまで迫って来たの。そして、ウチのちょっと手前のところで止まったんです。そして、それがまた引いていったのね。それは、すごかったね。
ウチの奴は見なかったんだけど、まあ、なんていうか地獄っていうか、あんな大きな家や鉄塔や、コンクリの塊なんかが、上に向かって流れて来るんだからね。それが終わると引くんだよね。その速さが速い。上がってくるよりも下がって行くほうが怖いんですね。
ウチに年中、車で遊びに来てお茶飲みしてた、84歳になるおじいちゃんがいたんですよ。「私はモテるんだ、ここにこういう女がいるんだ」ってよく自慢してたんです。その人が「いい女ができた」って言っては、鳴子温泉に行くような人だったの。
その人が自宅に帰ってきて、津波が来るってわかっていたのに、「私は大丈夫だ、津波はこんなところまでこないんだ」って家の中へ戻っちゃったの。そうしたら、結局流されちゃった。おじいちゃんには、チビという名前のメスの犬がいて、どこに行くにも連れて可愛がっていたんだけれど、その犬がね、震災後にね、おじいちゃんを捜して、ずーっと歩いているの、何もないガレキのいっぱいあるところを。
で、クンクン鼻を鳴らして、沢の上のところで動かないでいる。だから、もしかしたらおじいちゃん、そこで埋まったのかなと思って、消防署の人に話したら、50人ぐらいの人がすぐ来てくれたの。半分の人が海のほうへ行って、25人くらいの人がそこをきれいに遺体を傷つけないようにとってくれたんだけど、結局見つからなかったのね。その後、おじいちゃんはずうっと下のほうで見つかったんですよ・・。

「風人の庵へ、ようこそ。」須藤寿郎さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町小泉]昭和19(1944)年生まれ

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3.11被災

震災当日の2時46分、家内は家に居ました。私は裏にいて、そこの空き地、公民館のところにいました。最初はゆるゆると、長く続いて、横揺れでした。家を見てて、倒れないかなと・・。自分は立っていられませんでした。車に寄りかかっていたけれど、ズルズルとしゃがみこんでしまって、家からは50メートルくらい離れているので、少し弱くなってから歩いて家に戻りました。とにかく長く、長く続きました。
家はつぶれずにすみましたが、家の中が、棚から物が落ちたりしていたので、それを片付け始めると、津波警報が出ました。それから直ぐに大津波警報に変わって、とにかく避難しようとなり、家内が体調を崩しているので「車で送るか?」と聞いたら、歩いていくというので、家内を先に家から出して、私はもう一度家の中を見てから、トラックでここまで(小学校)避難しました。トラックに長靴とか防寒着とか積んで、もう少しいろいろ積んでも良かったんだけど、やっぱり人気がなくなってくると気持ちの悪いもので、とりあえず気のついたものを積んで逃げました。揺れが強いから、上へ上がって、ここの上で海を見ていました。
見ていると、沖のほうから波が、白波が高くなってきて、見ているうちにここも危ないから、「もっと上へ上がれ」って、お互いに声を掛け合って、みんなで中学へ上がりました。その時は車を置いて。ここに20〜30台あったと思います。私は近くに停めてあったので車で上がりました。

きちよさん 私、とにかく避難するとなって、後ろを向かずにとにかく30分くらいかかって上ってきて、みんなと、ここもダメだからもっと上がろうって。自分は足が悪いから静かにみんなについて歩いていったら、ちょうど向かいの家のお母さんに声をかけてもらって「家に入りなさい」って。その晩はそこでお世話になったの。毛布も2枚も3枚もかけてもらえたから、助かりました。

最初に、防波堤と防波堤の間から波が入ってきました。一番先に流された家は、その波に流されたんだと思います。その最初に流された立派な家が、この直ぐ下で壊れました。その後は、家のほうが心配で、そちらを見ていました。まるで将棋倒しみたいに、海から波がどおってきて、どす黒い色でした。段々段々家が流されて、自分の家が流れるのを見て、後は見ていません。津波は何回も来たんだけれど、私は1回を見ただけです。自分の家が「わ、流れたな」って。家が、1軒の家の屋根がこの小学校の校庭まで流されて上がったと聞きました。
普通引き潮があるんだけれども、引き潮がなかった。沖のほうから壁みたいに水が来ました。2回目は大きかったと聞いていますが、段々暗くなって寒くなってきたので、みんな中に入りました。

「縦の糸はあなた、横の糸は私──夫婦の自分史」千葉貞雄さん・きちよさん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和4(1929)年生まれ

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三陸津波

昭和8(1933)年、私が4歳のとき、三陸津波にあいました。その時、今の伊里前小がある場所まで避難しました。当時は、下に学校があったけれども、上にも校舎はありました。上校舎といいました。私の家の裏が旧校舎、その並びに中校舎、坂の上が上校舎です。当時も地震のときは上校舎が避難場所になっていました。4歳だから、地震があったのも、津波が来るということも、わからなかったです。ただ、兄と上へ来て避難して、外で焚き火をしていたのを覚えています。「どこそれまで、今、波が来たぞ!」という大人の声が耳に残っています。夜は家に帰ったのかどうかも覚えていませんが、夜起こされて学校のところにおしっこをした時、学校の校庭で焚き火をしていた兵隊さんがいました。後日、もう一部隊、小隊が災害の復旧のために来たというのは、後から聞きました。
伊里前は、明治の津波のときも、割に被害が少ないところなんです。明治のときは海岸は浸かったと聞きましたが、海のほうはどうだったとか、色々聞く話しはあっても、伊里前は被害が少なかったようです。住みやすいところだったのだと思います。

「縦の糸はあなた、横の糸は私──夫婦の自分史」千葉貞雄さん・きちよさん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和4(1929)年生まれ

3.11被災

地震のときは、家にいました。(揺れが収まって)立つことができた瞬間にすぐ逃げたんです。長い時間揺れてたから、逃げてるのがやっと。速くて速くて。
ここからだと海が見えるんですが、空と津波の高さが同じくらいなんですよ。津波の高さが全然下らずに、その高さで来たの。だからここの人も結構流されてしまいました。上から見てる人が「逃げろ、逃げろ」って言ったけど、チリ地震(の経験)があったから、ここまで来ないって安心して(逃げないでいて)、それで私たちの見てる前で流されたんです。そしてあと、そっちの人も、背中が山なんです(だから、逃げようと思えば安全な場所に行けた)、でも逃げなかったから流されました。
昨日偶然助けた人に会ったんだけど、そこの人ね、心配して志津川からここに来て、鍵を開けた瞬間、流されたんだけど、覚えてないんだって。そしてうちの、竹藪のとこまで流されて来て、津波がグルグルグルグル渦巻きになったのね、「助けて」って叫んだ。何かに取りすがって流されなかったって言ってました。「何さすがった(何につかまったの)?」て言ったけど「分かんね(覚えてない)」って。みんなして、その人を助けたら、その時は分からなかったけど、後で聞いたら大怪我をしていました。
肉がベローっとそげて、血管がピクピクピクピクひきつるのが見えて、(後で聞いたら)完治するまで3カ月半かかったって言ってました。
高いところに行こうとしても、そのまま、震えて立てないので、て、男の人が3~4人で抱えてもらって山に逃げて、どこかの住宅に入って、着替えは全部、長袖の物が補助で来たそうです。家は孫がいるので、ここに逃げてきて泊ったんですが、そっちに泊まったその人は、ひと晩、震えが止まらなかったって言ってました。
私の身内でも、本家の人で、65歳くらいのお姉さんとか、この親類でも、6~7人亡くなったんです。逃げなかったんですよね。

「はまなす咲く浜をもう一度。」及川育子さん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津]昭和23(1948)年生まれ

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3.11被災

今度の津波のときも、昭和8(1933)年のとき助かったように、柳沢の奥のほうに逃げて行けばいいと思って、手押し車持って行ったのよ。それで足も冷たいし、中に入り込んだの。
その時孫が、金曜日で、遊びさ行ってきたばかりでね、そんで地震があったから、今までの地震と違うと、地震にたまげて、訳分かんなくなって(動揺して)しまったのよ。
それで、「早く、車さ乗れ、車さ乗れ」って。そうして今語るわけさ。車こうしてあるから。あれさえあれば、どこさ行ってもいい。たたんでね、それさ積もうと思ったの。そうしたら孫が怒ってね。ラジオできょうの津波のことを詳しく言ってるんでないか、と思ったのね。そして、実家さ行ったのさ。
そこまで行けば大丈夫だと私も思ってだんけど、そこも、みんな逃げてしまって、いなくなって、うちのおばちゃん一人なの。おばちゃんも車に乗るなり、「早く! 早く行け!」って言うんだっちゃ。だから孫の言う事聞いて車に乗って、田束山(たつがねさん)ていう小泉の一番高い山の中盤の、遊び場があって、そして、トイレがあるとこ行くっていうのさ。そこなら安心だからって。そこへ連れていかれたの。だから津波は見なかったわけ。
私たちと孫はね。「とにかく早く乗れ」ってことで、そこへは、一番先に着いたんだよ。あとからどんどん他の車が来て、夕方には駐車場がいっぱいになったの。それで、そのあとは、高いところにあるから、小泉中学校の体育館に行ってきた。雪っこも降ってきた。
二十一浜の人の話、聞いたんだけど、そこは真ん中に川があって、両側は山で、川の両側に家建ってんのよ。だから逃げるっつたら、山さ上がって行くのね。山さ上がって津波の来るのを見てたんだって。見てた人、一杯いたんだって。その人たちから話を聞いただけで、私は何も見なかったの。そしたら、小泉の町が流れた、さっき通った実家も流れたっていうんだもの。ほんとに驚いた。そうしたら、陸前高田も流れた。志津川も流れたっていうからねぇ、夢にも思っていない。
こんな津波が千年前に来たんだって、そんなこと、だれも昔話だって思うね。明治の津波のことは聞いてたけども、そんな千年も昔なんて、そんなの、もう誰も聞いてないし、誰も知らない。語りおく(語り継ぐ)も何も無かったからね。それまで、こんな津波が来ると思ってなかったんだよね。そしたら、みんな無くなってね。でも、昼間だからまだ良かったんだよね。波が来たのが夜だったら、まだ亡くなった人もいっぱいいたでしょうね。
今、津波はこんな目にあうと思わなかった。夢にも思わなかったね。

「福の神」小野寺ちよしさん
[宮城県気仙沼市本吉郡]大正13(1924)年生まれ

津波の記憶

ここではね、明治29(1897)年にも、津波があったんです(明治29年津波)。みんな家を海の近くに建てたんだって。海さ行くのに便利だからね。堤防も何もなくて、ポンと行けば、磯まですぐ出られるところなの。言い換えると、すぐに砂原のところで、波が来るとこなんですよ。
昭和8(1933)年の津波とき、私は数えの10歳で、そのことをしっかり覚えてんです。そんとき、堤防がなくて、沿岸に住んでいた人はみんな流されたの。そのとき私が住んでた柳沢の家は、ずーっと奥の方に建ってたの。だから、津波が来ても流されなかったんです。そのあと、農閑期の人が土方やって堤防を拵(こしら)えてたんです。
昭和8(1933)年に流されたところに、その後も住んだ人もいます。戸数はそんなに多くなかったけれども、戸数のわりには住んだ人が大勢いたのよ。

「福の神」小野寺ちよしさん
[宮城県気仙沼市本吉郡]大正13(1924)年生まれ

3.11被災

震災の時は、自宅から25kmくらい離れた登米市中田町の卸で花の仕入れをしていました。私は農家をやりながら、花屋もやってるのでね。精算が終わって出ようとしたときに1回目の地震があったんです。2回目の地震がものすごく強かったのね。あれだけの地震があれば津波がくるという予感がしました。
車で避難し始めましたが、米谷(まいや)大橋まで来たときに通行止めに会い、三陸道も通行止め、そこから4~5km下流にある登米(とよま)大橋は幸い通れたので、戻るようにして米谷大橋まで来て、国道398号線を志津川に向かっていきましたが、今度は合同庁舎から300mから500mも行かないうちに交通規制がかかっていました。
ふと川のほうを見たら、そこは右カーブで、私の車がハイエースだったのでよく見えたのですが、瓦礫が流れていたのです。私の後ろに30台ぐらいの車がつながっていたから窓を開けながら「津波だから逃げろ」と叫びました。
本当はそこから200mぐらいを左折して、旭ヶ丘団地に上りたかったのですが、そっちから1台向かってくる車があって、私がその車をやり過ごして高台に上がろうとすれば、後ろの人たちが波に追いつかれる。だから、そこに入らないで、そこから1キロメートルぐらい上流に来て、山道を迂回して八幡川の上流に入って地元に帰ろうと考えたわけです。
けれども、頂上近くで1台の乗用車とすれ違ったの。30代ぐらいの女性がそこから、「波来てるから行っちゃダメ」って言う。自分としては、この辺りの地形はすべて承知していて、無茶はしないからそのまま行けると思ったけれども、次の津波が押し寄せてきていたので、そこでUターンして頂上あたりの土建屋さんの資材置き場に車を停め、山道を歩いて自分の地域に帰ってきたんです。その光景はきっちりと覚えていますね。認識はしているのですが、現実味が乏しい心持(こころもち)がしました。

「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ

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菊の栽培

菊を作り始めたのは平成元年(1989)年からです。私より6歳下の及川隆君(JAの元組合長。志津川農協に大学卒業後に就職、花の栽培研修で訪欧後、その成果は「JA南三陸」の主力商品「黄金郷」のブランド菊として開花した)に「菊儲かっから一緒に作んない?」って言われたのがきっかけです。彼は頭の回転も速く、きっちりと物事を考える人で、農協の組合長をやって、42歳の若さで亡くなるまで、私とは兄弟のように接していました。

本格的に菊一本にしたのは平成3~4(1991~2)年のことです。それまではトマトと掛け持ちで栽培していました。菊専用にしてからまだ15~6年しかたってないんです。ホウレンソウは一時やめたこともありますが、菊の単価が下がってきたので、また作るようになりました。
ビニールハウスは3か所あって、12百坪の広さがありました。平成13(2001)年に息子が短大を卒業して農家をやるって言って建てたハウスでした。
これが10年足らずで、あの津波によって、2千万の土地がパーですからね。家を流されてもいいですが、仕事場を失うというのは辛い。確かに生まれ育った家だから未練がないと言えばうそになるけど、建て替える気持ちを持っていたので、勿体なさは無い。しかし昭和47(1972)年からコツコツと投資してきた40年間のハウスの蓄積ってやっぱり大きいんですよ。試行錯誤してやってきたから。ここで本格的に野菜から菊に切り替えたのは私が最初だから、なおさらです。

「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ

本吉町国際交流協会

私は、本吉町の国際交流事業にも関わっているんです。「本吉町国際交流協会」は、平成3(1991)年に組織されて、今も続いているんですけどね、国際交流ですから、特定の国だけでなく、どこの国でも交流していきます。
私の考えでは、「子どもたちに道徳教育を」と同じように、「子どもたちの視野を広くさせ、大きな目で日本と地球を考える大人に」そういう思いで、幼稚園、小学校、中学校の子どもたちと、外国人とを交流させているんですよ。この辺りには外国人は住んでいません。ですので、学校から仙台の国際交流協会に頼んで、そこに登録している外国人留学生のかた中心に、子どもをかけてもらって、年に1~2回、6人くらい小泉に招いています。小学校だと6年生まであるので、外国の方6人呼んで来ると、ちょうど1学年ずつ交流できるんです。
津波の後は県の国際交流との連絡も途絶えてしまったんですが、9月半ばごろ、所用で仙台に行った折、国際交流協会に寄ることができたんです。そしたら職員の方に「ああ、会長さん、生きてましたか」って言われんですよ。その時はすでに会長ではなかったのですが、かつて国際交流協会の会長を勤めていたので、そう呼ばれるんですね。
「いや、会長さんが連絡がぜんぜんとれなかったので、仙台の協会のほうに外国からどんどん電話やメールで問い合わせが来たんですよ」と言う。本吉の小学生中学生と交流してた留学生あたりから来てたんですよね。たった1日、2時間くらいしか交流する時間はなかったのに、母国に帰ってって子どもと交流をしたことを覚えていて、津波があったと聞くと、「本吉の子どもたちだいじょうぶですか?」とか「会長の山内さん、お元気でしょうか」と言ってくれる。
外国の方々も日本を、しかも2時間だけの交流をした子どもたちもですね、心配してるってことを身にしみて感じたんです。そのことでも、国際交流って事業はこれからも続けていかなくちゃならないなと、思ったんですね。

「こどもの国に生きて」山内義夫さん
[宮城県気仙沼市本吉町小泉]昭和2(1927)年生まれ

3.11被災

3月11日2時46分、あのときから、津波のことは、ずっと脳裏に刻まれてるんですよ。
私の家はちょっと高いところにあったんで、「津波が来たって家までは来ないから大丈夫だ」ってことで、安心してたんですよ。
地震が起きて、妻は車で外出して家に戻ってきましたが、その途中、ゴオーっと言う音や、ビシビシビシっていう雑音が聞こえてきたんだそうです。それで「これはただごとじゃねえ」ってことで、私たちがサンダル履いて外へ出てみたらですね、すぐとなり50mくらいの距離にある公民館や民家の屋根の方が盛り上がって来たんですよ。津波が来ていたんだね。
「あれ、津波だ、こりゃ大変だ」すぐそこまで来てるってことで、座布団1枚頭に被って、着のみ着のまま、そこの崖を上がっていったんですよ。ちょうど雪が降ってまして、足元が滑るんですよ。ベロベロ、ベロベロ。妻が先に上の方まで逃げて行ったんですが、私はサンダルがずるずるずるずる滑って、しまいに無くなってしまって、探そうとしているところに水が来たんです。
「ややや、こりゃ大変だ」ってことで妻が、上の方から「掴まれ」と手を伸ばしてくれて、私掴まったんですよ。瀬戸際で力が出たんですね。上に上がったところに水がわんわん、わんわん来た。命拾いしたんです。もしあの時一緒にふたりでズルズル滑っていたら、2人とも津波にのまれてさよならだったなって、笑い話にしてるんです。
その後、最初はここの「はまなす」っていうところに1カ月ぐらい避難しました。それからここは事業所で公的な建物ではないということで、あと、ここから車で15分くらいの距離の岩手県津谷川の、閉校した学校の建物に集団で移りました。避難した時には、電話もなにも、通信手段がなく、自分の携帯も津波で流してしまっていました。
また、小泉八幡神社や、私自身の歴史についての記録が自宅にあったのですが、着のみ着のままで逃げたものですから、流されてしまって無いんです。そのことがいつも頭にあるんです。多賀城の資料館にいくらか神社の資料があるんではないかと思っているんですが・・。流された資料は誰が書いたかわかりませんが、漢文で、小泉八幡神社の神職を務める山内家と言うのは、明治5~6年より前は藤原姓を名乗っていた、それで明治何年かに山内姓を名乗ったって、と書かれていたんです。私もそれを見つけて何枚もコピーはしてたんです。それをそっくり一緒にしてたもんですから、全部流してしまいました。

震災の日は、長女は仙台におりましたけども、次女の方が気仙沼の、南郷って、一番水が来る場所に家があって、そこにいる孫は当時小学校の6年生だったんです。小学校の校長が偉かったんですね。子どもは全部校舎に入れろと指示を出して、校庭を出てった小さい学年の子どもも全部校舎の中に入れて、3階に上がらせたんですね。学校は3階建てて、その上は屋上でした。
その近くが、すぐ気仙沼湾。火出た、その近くなんですよ。子どもたちは暗くはなるし、火は出てくるし、真っ暗になるし、泣き喚いたんでしょうね。次女は、娘が小学校にいるってわかってるわけです。自分は高台の高校にいて、娘は狭くて、低い危険な場所にいるので、連れていきたい、呼びに行きたいと思っても、津波が来てるから行けないんです。夕方から朝まで泣きどおしだったそうです。
娘の方も、母親のいる場所はわかっているけれど、行きたくっても行けないんだね。次の日の朝は水が引けていたので、自衛隊が来て、孫は自衛隊におんぶしてもらって母親のいる高校に連れて行ってもらい、再会できたんです。

「こどもの国に生きて」山内義夫さん
[宮城県気仙沼市本吉町小泉]昭和2(1927)年生まれ

山内家のルーツ

小泉から見える海抜512メートルの田束山(たつがねさん)という山は、藤原氏の住んだ平泉の衣川、源義経の家来の弁慶が立ち往生した、あの衣川ですけど、その向かいにある山と非常に似ている山だそうですね。それで、藤原氏が伽藍(注:僧侶が集まり修行する清浄な場所。転じて寺院または寺院の主要建物群)を作っていろんなものをお祀りして拝む場所にしたんですね。その当時は40伽藍など、いろいろな建物があって盛んになったそうです。
田束山には3つの大きなお寺があるんですよ。(羽黒山)清水寺、(田束山)寂光寺(じゃっこうじ)、(幌羽山)金峰寺(きんぽうじ)とね。藤原家が滅亡した時に、ここも廃れて、その3つの大きなお寺が持っていた観音像を敵に取られないように、家宝と一緒に持って出て、ひとつは入谷、南三陸町の方に、もう一つは清水浜(しずはま)のほうへ、下って行ったんですね。
そのうちの一体と言われるものが山内家にあったんです。津波で流されましたが。私が小さい頃、よく兄貴なんかとイタズラしたんですが、重いんですよね。こんな小さくてしたの方が空洞なんですけどね、すごく重いんですよね。「これ金でねえか、切ってみるか?」なんてね。
病気で死んだ2番目の兄貴が、裏にして台のほうからちょっと削って見てたのを覚えています。それが何十年経っても錆びないで、ピカピカ光ってるんですよ。いろんな古文書を見てみたら、その頃、金鉱があって、金が沢山出たんですね。当時の金は精錬の技術が低く、粗金(あらがね)と言って、不純物がはいっていて、それであの像を作ったらしい。よく見ても表面はピカピカになってないんです。
田束山は何回も火災にあったことがあり、そのときの煤(すす)で黒くなっているそうです。そこを兄貴たちが切ったらそこだけまだピカピカしていました。大事にして神棚に置いていたんですけど、そういうものまで津波で流されました。
田束山には時の権力者が平泉と同じように金を運び込んだらしいんです。そして、金粉で書いた経文を、鉄で作った筒の中に納めて、敵が来ても持って行かれないように、土の中に埋めてしまったという言い伝えがありました。それが経塚です。
昭和何年か、気仙沼市の教育委員会が、東北歴史資料館の方をお呼びして、本当に経文があるか、ほっくりかえしてみようということになったんです。経塚を一つ掘ってみたんですよ。そしたら鉄の筒は錆で、ふたを外したら中に水が入っていました。経文を出してみたら、金で書かれた経文の文字がいくらか読めるものが出てきました。これは貴重なものだというので、東北歴史資料館に陳列されるようになりました。
山内家由来のお墓は大きく2つあるんですよ。ひとつは、古いほうで、藤原家のお墓。これは小泉中学校に行く途中にあるんです。山内家の先祖は、藤原姓を名乗って、田束山のお寺の学問の親分格、「学頭」をやっていたといいます。もうひとつはもっと高い山のところ、そっちは山内家なんです。
おそらく藤原から山内に姓を変えたのは、石に彫ってあるのをみると「山内盛」ってあるんです。彫が浅いので、よく見えないんですが。それが、観音像を抱いて山の下に降りてきて、寺子屋のように地域の方々に学問を教えてたんだということです。どんな人なのかもわかりませんが。
私の祖先の墓はあるんですが、位牌などは津波で全部流されました。あまり大きなものだと、何代も昔のものは置いておけない。ですから、薄い板をですね、一定の大きさに切って、法名と言うか、何年何月だれそれだれ、どこで亡くなったということを書いたんですね。妻が津波のあとに探して何枚か見つけてきたんですが、何枚もありません。

「こどもの国に生きて」山内義夫さん
[宮城県気仙沼市本吉町小泉]昭和2(1927)年生まれ

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シカ シベリア抑留 シラス シルバー人材センター シーサイドパレス ジャージ ジョンストン島 スケート スズキ本社 スズメ ストレス スマトラ セリフ神楽 ソバ ソリ ソ連抑留 タカ タコ タタカイ沢 タテゴトアザラシ タヌキ タバコ タバコ(おやつ) タバサミ タピオ タラ チキンレース チフス チャグチャグ馬コ チリ地震 チリ地震津波 ツェッペリン号 ツトコ納豆 テレビ テーラー トウバ トウモロコシ ドジョウ ドジョウの養殖 ドンコ ドンモウ ナマズ ナメコ ナラ ニナガイ ニューギニア ニワトリ ニンジン ハクビシン ハタケシメジ ハノイ ハマ ハヤ ハワイ バコ バス バタンキュー バッタ打ち バフンウニ バブル時代 バンジョ パルプ船 パンスケ ヒエ ヒジキ ヒラタケ ヒラメ ビルマ ビンチョウマグロ ビートルズ フカヒレ フゴ フナ フランス領インドシナ ブランコ ヘリポート ベザーノ ペチカ ホウレンソウ ホウレンソウ部会 ホタテ ホタテのタネ ホタテ養殖 ホタルサミット ホヤ ホルツマーデン ボランティア ボーリング場 マグロ マグロ延縄漁業 マグロ漁 マグロ漁船 マグロ船 マス マツモ マツモの開口日 マラリア マンガ(馬鍬) ミカン狩り ミシンかけ ミヤギシロメ ミュージカル ムラサキウニ メカ メカジキ メカブ削ぎ メバチマグロ メンコ打ち ヤクザ ヤマガカシ ヤマドリ ヤマ学校 ヨシ ヨダワケノミコト ライスカレー ラジオ体操 ランソン ロック ワカメ ワカメのタネ ワカメの芯抜き ワカメ刈り ワカメ拾い ワカメ漁 ワカメ養殖 一の矢・二の矢・三の矢 一反歩 一夜飾り 一歩 一町歩 一畝 一礼 七福神踊り 三井、三菱、峠畜産 三井物産 三公社五現業 三十三観音像 三崎港 三嶋神社 三嶋神社の裏参道 三徳無尽 三本縄 三条小太夫近春 三浦毅 三浦英夫 三陸ホウレンソウ 三陸津波 三陸鉄道 上台ファーム 上品の郷 上山八幡宮 上棟式 上沢分校 上町切 下刈り 下町切 下駄 下駄スケート 不動明王像 中井小学校 中国 中国からのお嫁さん 中国残留婦人 中国残留孤児 中学校 中学校教員 中標津町 中瀬 中瀬町 中舘 中舘平五郎信常 丸太出し 丸目 乾燥ワカメ 予備士官学校 予科練 予科練隊 二十一浜 二本縄 互助会 五日町 井上康生 交通 人間関係 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指物大工 振興会 振興無尽会社 振興相互銀行 振袖 挺身隊 捕虜 捕鯨船 揚縄 支倉常長 支援物資 支那事変 放射能 救援物資 敗戦 教員 教科書 教育勅語 文化財 斗組 料理 新井田館跡 新井田館跡発掘作業 新制中学校 新田次郎 日中戦争 日掛け金 日本よい国、東の空に 日本人学校 日本武道館元館長 日本語講座 日本陸軍 日本青年団連絡協議会 日給 日銭 日門 日露戦争 旧仙台藩 早生八幡 昆布 昆布の開口 明治29年三陸津波 春の大祭 昭和8年三陸津波 暖飯器 暴れ神輿 曲尺 月俸 月夜 月給 望小山 朝塩釜神社 朝日館 木の実 木価 木地蔵 木挽き 木材 木炭 木炭組合 木馬 末期の水 本吉 本吉地区冷害基金 本吉町 本吉町国際交流協会 本吉町連絡協議会 本吉響高校 本吉響高等学校 材木 村葬 条桑育 東京・四谷区 東京人絹 東京第一陸軍造兵廠仙台製造所 東北の長崎 東北博覧会 東北大学災害科学国際研究所 東北大学災害科学研究所 東北最大のフリーマーケット 東北本線 東北歴史資料館 東和林業組合 東和町 東和鱒渕 東日本鉄道文化財団 東稜高校 松原 松原そうじ 松圃 松島 松林 松根油 松笠 松茸 林業 柳州 栄養失調 栗原郡 桂林 桃山時代 桃生 桑の実 桑畑 梅ッコ 梅干 梅干し 梶賀千鶴子 棒受け網 森口多里 森林組合 検閲 樋の口大家 横座(上座) 横須賀 横須賀海軍 横須賀海軍カレー 機関員 機関士 檀家 歌津 歌津・志津川合併 歌津中学校 歌津会 歌津十二人衆 歌津寄木ささよ整備事業 歌津敵討 歌津村葬 歌津町 歌津町史 歌津町小学生ミュージカル 歌津町議会 歌津町長 歌津町青年団 歌津駅 歌津魚竜化石 歌生 正月 正月料理 正月飾り 歩兵第四連隊 死に装束 死人もの 母屋づくり 氏子 氏子総代 氏神 民族歌舞団ほうねん座 民話 気仙パン 気仙大工 気仙沼 気仙沼ジャスコ 気仙沼市 気仙沼市教育委員会 気仙沼市立病院 気仙沼湾 気仙沼線 気仙沼西高校 気仙沼高等学校 水夫 水害 水戸辺川 水戸辺川上流 水戸辺川上流津波最終到達点 水産業 水産特区 水産高校 水産高校実習船 水田 水眼 水遁の術 水道 決死隊 沢庵 河童 沼エビ 沼深 沿岸漁業 泊崎荘 泊浜 法印神楽 波来の碑 泣く子も黙る原兵団 注連縄 津山杉 津波 津波をかぶった杉 津波伝承 津谷中学校 津谷川 津谷高校 浄瑠璃 浅縄 浜の神楽 浜・町・在 浜松の織物工場 浦賀 海上保安庁 海南島 海員学校 海水浴場 海洋実習 海洋観測 海苔 海苔漁 海苔簀 海苔網 海苔養殖 海藻 海鵜 消防団 深縄 清水寺 清水浜 渋柿 温泉 満州 満州の花嫁募集 満洲の温泉 満海山 満蒙開拓団 満鉄 満鉄工務区 源氏 源義家 源義経 源頼光 源頼朝 漁労長 漁協 漁師 漁業 漁業協同組合 漁業権 漁業者 漁民 漁船 演芸会 漬物 潜り漁 潜水器操業 潜水士 潜水漁 瀋陽 瀬峰小学校 火の用心 火まわり 火事 火災 火葬 灰干しワカメ 炭炬燵 炭焼き 炭窯 無尽 焼津 煮もの 煮物 熊ヶ根橋 熊岳城 熊岳城ホテル 熊谷流の踊り 燻製 爆弾 牛殺し沢 牛肉 牡蠣 牡蠣剥き 牡蠣殻処理場 牧之内城 牧野駿 物々交換 特区 狩猟 献膳 献膳係 献膳長 獅子舞 獅子頭 玉の井 玉子柿 玉音放送 理容師法改正 瓦屋 瓦工場 瓦礫 生態系 生活相談員 生涯教育課 生糸 田の字造り 田の浦 田んぼ 田中則和 田束の夜明け 田束山 田植え 田老町 町切 畜産 畜産農家 疎開 疎開工場 登米 登米市 登米郡南方町 登米高女 白山様 白山神社 白無垢 白砂青松 白菜 白装束 白馬童子 百貨店 皿貝化石 皿貝化石群 直売所 相互銀行 真言宗 矢車 石巻 石巻北高校 石巻港 石浜 石浜神楽 砂湯 砂糖 硫黄島 磯漁 社寺建築 祇園神社 祝い事 祝儀 神棚 神楽 神様参り 神社 神社本庁 神輿 神飾り 祭り 祭典 祭典日 福島丸 福島原発 秋の大祭 種はさみ 稲作 稲八幡 稲刈り 稲荷寿司 空襲 空襲警報 立川町 立棺 竹スキー 竹川原 竹槍 竹馬 竹駒神社 第三次補正 第二地方銀行 第二次世界大戦 筍の皮 算盤 管の浜 築館 米作り 米俵 米川 米川の教会 米川小学校 米川村 米川狼河原綱木の沢 米広 米穀通帳 米谷工業高校 米軍 粟餅 精米 納豆 納豆餅 紙のランドセル 素干しワカメ 素戔鳴尊 素潜り 紡績工場 細浦 細浦生活センター 終戦 終戦の日 終戦後 経塚 経塚遺跡 結いっこ 結する 結婚 結婚式 結納 給食 綏化 総代 総本 総本宮 総本山 編み物 縁起物 縄とび 縄跳び 縫製工場 缶詰工場 缶蹴り 羽織袴 羽黒山 老人会 老人保健施設 老人養護施設 肥料 脱脂粉乳 腸チフス 自動乾燥機 自給自足 自衛隊 興業銀行 舘崎の浜 舞根 舟沢 船名旗 船員 船大工 船子 船川丸 船舶免許 船酔い 船頭 艤装 艦砲射撃 色彩選別機 芯抜き 花火 芸能部 苗代半作 茄子 茱萸(ぐみ) 草もち 草履 草餅 荒島 荷鞍 菊の御紋 華南高校 華足寺 華足寺参道整備事業 華足寺大祭 華足寺大祭のお供え 華足寺大祭の演芸会 華足寺馬頭観音堂 落ち武者 葉タバコ 葛西四百年 葛西家 葫蘆島 葬儀 葬式 蒸気機関車 蕎麦 蕎麦粉 蕨野 薪ストーブ 藁穂沢 藁草履 藤の蔓 藤原征伐 藤原氏 藤原秀衡 虎舞 蛸の渦巻 蝦夷地 蝦夷狩 行商 行政区長 行方不明 衡陽 衣川 衣料切符 被災地 被災後 裁縫 裏杉・表杉 裏目 裏観音様 補充兵 補助金 製材所 製糸工場 製鉄 西戸 西條實 西條實短歌集 要谷 観世流 観音像 角田市 解体ショー 許家屯 誉田別命 語り部さん 請負耕作 豆もち 豆餅 豊前宇佐八幡宮 豊漁祈願 貞任山 買い物 赤崎 赤痢 赤紙 足湯 踏み絵 蹄鉄 軍人勅諭 軍人恩給 軍国の母 軍用犬 軍需工場 軍需物資 輪尺 輸出 農作業 農協 農地解放 農家 農家預金 農林業 農林水産大臣賞 農業 農業共済制度 農業共済組合 農業委員 農業改良試験場 農業災害補償法 農業研修 農民講道館 農閑期 迫川 追い馬 這坂 通り囃子 造兵廠 造幣局 造船 造船所 連絡協議会 進学 進駐軍 遊園地 運送事業 道中囃子 遠の木沢 遠洋漁業 遠藤美希 遺体 避難 避難所 避難生活 避難訓練 郵便局 郷土探検 郷土芸能 郷黒 配給 配給制度 酒井農寮 酒井馨 酒屋 酪農 野戦病院 野球 野菜 野菜研究会 金の卵 金峰寺 金華山 金鉱 金靴屋 釜神様 針葉樹 釣り 鉄嶺 鉄砲 鉄砲風呂 銀鮭 銀鮭養殖 鍋焼き 鍬頭 長の森寺 長沙 長沼 開口 開戦の詔 間伐 関東軍咸陽 防波堤 防潮堤 防災庁舎 防災無線 防犯実動隊 防空壕 阿部井組 陣取り 除草機 陸中海岸 陸前原町駅 階上 隠れキリシタン 雁月 雄飛小学校 集団就職 集団移転 雑煮 電報 電話 震源地 霞ヶ浦 青大将 青年の家 青年の船 青年会 青年体育大会 青年団 青年団長 青年学校 青年文化祭 青年部 青森丸 青空工場 青色申告会 鞍薦 響高校 須賀神社 頼光寺 頼母子講 風呂 食べ物 食事 食糧難 飯土井 飯綱神社 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