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小中学校は、ケンカとかもありました。先輩のクラスの給食のパンを前日に食べたりして、逆に先輩たちにパンを踏まれたりとか・・。
遊びといえば、凧を竹ひごを使って作ったり、腰に「ふくべん」を下げて、山へ栗やアケビやキウィ類に似たコウカの実を採りに行ったりしました。弁当を持っていく時は、お箸は持っていかずに自分でナイフで削って作ったり、それも遊びでした。
「そぞめの木で作った箸は大丈夫」とか、「ここの湧き水は飲んだらダメだ」とか、先人の知恵を、遊びの中で先輩や大人から教わりました。Y字の木にゴムひもを皮に穴を開けて通したものを組み合わせて「ゴムはじき(通称パチンコ)」を作ったり、遊びの道具も自分たちで作りましたね。
高学年になると、杉の丸太で車輪を作り、板を渡して、簡単な軸を前輪の間につけて方向を変えられる車を作ったり、冬にはそりや竹スキーを自分たちで作ったりして遊びました。こういう物の作り方は、先輩から教わります。先輩には、悪い先輩もいたし、殴られたりもしたけれど、みんな、殴ったらいけないところや程度もちゃんと知っていました。けんかもして、それで力加減を知っていくんだと思います。遊び、冒険、けんか、失敗・・そういうことを全部通して、色々な痛みや加減を覚えてきたと思います。今の親は子どものけんかに口を出し過ぎです。
名前が孝樹(こうき)なので、小さい頃は「こっちゃん」って呼ばれていました。一つ年下の「いっちゃん」という友だち、それから「かんちゃん」という友だちの3人で必ず組んで、いっちゃん・かんちゃん・こっちゃんで、「三銃士!」です(笑)。
中学生の時に、ビニールハウスのビニールを、テントのように木に張って、ろうそくを立てるものを木にぶら下げて、うちの裏でキャンプをしたり、リヤカーに道具を積んで行って、2晩くらい泊まったりしたこともあります。キャンプ道具のない時代です。我ながら良くやったと思いますね。
実は、この3人で、とんでもない事をしでかしたことがあります。今の子どもたちには考えられないことですが、「鉄砲」のようなものを作ってしまったんです。
「ゴメンナサイ」と心の中で言いながら水道屋さんから2ミリくらいの厚い鉄管を失敬し、さらに狩猟の弾の使用済みの薬きょうを山で拾って穴を開け、鉄管にはめこんで、釘と木を使って引き金を製作。運動会の「ヨーイドン」のピストルに使う火薬を使い、爪ではがし、最初に少しティッシュを詰め、次に火薬を詰め、小っちゃいビー玉を入れて・・。
絶対やっちゃいけないんですけど、出来上がったものをいっちゃんと、かんちゃんと木に向けて撃ったら、木の幹にビー玉がめり込んだ! 音もすんごい!!
もう一丁ショットガンも作りましたが、これは、やっぱりあんまり短すぎてドンと撃ったら(弾が)すぐ下に落ちてしまいました。
ある時、告げ口されて、担任が(もう亡くなられましたが)「お前ら来い」と。
「おい、よく作ったな。見せろ」と言われ、「よーくここまで作ったけども、後はこれ、ちょっと俺がもらっておくから。2度とやっちゃいかん」と取り上げられました。叩かれるかと覚悟していたんですが・・。
ほめられたんだか、なんだか(笑)。
今の子どもたちはやらないが、遊びがドンドン、ドンドンと発展していって何かを作り出していたと思います。だからこそ、今の子どもたちに、「それは、やってはいけない」と言えます。
そんなふうに遊んだ友だちとは、けんかもしたけれど、今でも大切な友だちです。
子供のころの遊び道具? 花だね。
この辺りは、実がなるんですよ。んーと、何て言う名前だったかな。そいつをちょっとこう折って、カランカランって鳴らしたり。
あとね、山に行って、何かわかんないんだけど、こんぐらいの花なんだけど、採って、口に入れて、甘くもなんないのに、それを何か、なめてたような気する。
他は、梅ッコ(梅干し)を盗んで、春にできる筍の皮の中に入れて、「スーッスーッスーッ」って吸うんです。昔は梅っコって貴重品だったの。それを筍の皮の中に入れて、そして皮を折って、折ったところの両方に、少し穴ッコが空いてるから、そこから「スーッ」って梅ッコの汁だけ、少しずつ吸うの。筍の皮に入れて隠すとわかんないんです。子供の知恵だね。梅ッコの数、数えてるかも知れないから、食べてしまうと(バレてしまって怒られるから)ね。でも、吸ってるだけでもやっぱりある程度は(バレて)怒られますよ。
あとはね、「なり物」食べましたね。ぐみなんか、今でもそこの畑の上にあるんだけど。それから、桑の実(マルベリー)。これはたくさん食べたなぁ。
何て言ったっけな? 十五夜にする時の、ススキの小っちゃいの、黒くて、猫じゃらしとは違うんだけど、覚えてないんだなあ、何ていう名前だか。黒っぽい灰色のような色で、小っちゃい棒をとって、そして「ツーッ」と吸って食べました。黒い汁だから口が真っ黒くなるんです。味がするんだかしないんだか分かんないけど、子供はみんなそういうものを食べました。食べるもの無いからね。今の子供は食べないですね。昔っからそうやって、勉強しないでそういうことばっかりしてました(笑)。こういうものは、まだまだいっぱいあったんです。
野球だってグローブもバットもない時代です。お金持ちの家にはありましたよ。
スケートだって下駄スケートです。下駄の歯をとって鎹(かすがい)をやすりで研いて、それを下駄に打ちつけて下駄を履いてスケートしたんです。同級生で靴のスケートを持っている人は2~3人しかいず、金持ちしか買えない時代だったんです。スケート場は田んぼ。昔は寒くって30センチぐらいの厚さの氷が張ったんです。12月から2月ぐらいまではスケートできました。アイスホッケーもやりましたね。
後は竹スキーです。スキーなんて売っていないから、自分で作ったんです。ほかの家の竹やぶで竹伐って、竹の節に長靴を合わせて割って、後ろのほうに裂け目を入れて、雪に刺さんないように前をちょっと上げて。それだけでは飽き足らなくて、竹を長い状態で自分の背丈に合わせて竹を切って節を落として、そこだけくりぬいて長靴が入るように工夫したんです。開くよりも丸い分、スピードが出ました。中学校辺りは丸い竹スキー。わざわざ斜面があるとこに行くわけ。アイスバーンだからすごく滑って、怒られましたよ。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
テレビは部落に2~3台という時代です。親戚の家にテレビを週に1回か2回見に行って、覚えているのは、藤田まこと、白木みのるの出ていた「てなもんや三度傘」、山城新伍の出ていた「白馬童子」とかでしたね。自分の家でテレビを買ったのは、昭和39(1964)年の東京オリンピックのあった年、小学校6年の時でした。1月の売り出しで買ったんです。
お袋は次の日の(野菜売りの)準備をやって時代劇を見ていたな。子どもたちも引きずられて一緒に見てました。
当時は「巨人、大鵬、卵焼き」といわれた時代で、野球は巨人、相撲は大鵬、おかずのいいのは卵焼きってね。
学校での遊びは小学校4年生ぐらいまでは相撲しかありませんでした。当時は柏鳳(はくほう)時代で大鵬(たいほう)、柏戸(かしわど)など自分の好きな人の名前を勝手に名乗ったんです。私は大関の北葉山。うっちゃりが得意な力士でね(笑)。幼馴染の佐藤仁町長は初代豊山だったんですよ。昔の話をすると、今でもその話が出てきますね。
学校の先生も「怪我すると危ないから」って砂場を作ってくれ、家から藁を持ってきて土俵を作って、そこで相撲を取りました。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
小学校に入るころ、親父が栗原の隣の瀬峰(せみね)の小学校に転勤しまして、そのとき私もその小学校に入学しました。その後、小学校3年生の頃、親父は仙台に転勤し、私も仙台の長町小学校に転校しましたが、ちょうどそのころに父親が病気になって、夏休みには小泉に帰って来たんですね。
そのころ、前から夏休みになると、母親に連れられてこの小泉で遊んで行ったものです。そのころの小泉のイメージは、自分で画用紙にクレヨンで描いた海水浴場のものなんです。夏休みなるとしょっちゅう遊びに来た、思い出の多い赤崎海岸の絵です。
たぶん、小学校1年生頃に描いたと思うんですが。その海水浴場は水平線があって、下の方に松があって、すぐ近くに矢倉みたいな飛び込み台があって、そこに人が1人立ってて、1人が中間で逆さになって飛び込んでる姿、もうひとりは飛び込み台の真下に居て万歳している。子どもの絵ですから遠近法って言うのはないんですね、物理的に不可能な絵です。
津波の前ですが、その絵を子どもたちに見せたんですよ。「何でこんな絵描いてるの?」って言われました。この絵は、小泉の家の蔵の2階の方に包んでしまってあったんです。
思い出の海岸は、綺麗な海水浴場があったんだけども、今はもう、津波で松林もありませんし。白砂青松ってことばがあるんですけどね、その海岸もいまなくなってだいぶ海が深くなってきてますよね。小泉の人間として非常に情けない、そういう気持ちですね。
もう一つ、画用紙にお祭りの絵を描いたものがあったんです。地面を描いて、神社を描いて、そこに打ち上げ花火が描いてあるんですね。ああ、これは神社のところに花火があったんだ、小さい頃は八幡神社のお祭りのときには花火が上がったんだなあと思いだしましたね。子どもにも「お父さんが小さい頃にはこう言う風な花火があったんだよ」ということを教えてやったりしたんです。
幼少期はどんなって、家は商売してたから、食べるものも不自由しなかったし、山から、海から、毎日遊んでばかりおったんです。竹馬で山駆け回ったり、海駆け回ったりしてね。今でもね、運動会なんかで、竹馬に乗って駆けて見せたりすると、みんな、ビックリしますよ。(年取って)みんなヨタヨタってなるんだけどね。
昔から、ここは漁業です。世界で1番2番のクジラを獲ったこともあるそうです。その時のクジラのあごの骨で神社の鳥居を作ったそうです。私が小学校の頃です。
当時は、小学校4年生になると海に行かなければならなかったんです。なんとなくそういうことに決まっていました。だから、子どもたちは今みたいに遊び場もないし、夏は子どもたちで船を漕いで磯場に行って、子どもは何を獲っても食べても良かったから、1日中自由奔放に漁をして船で帰ってくる、それが遊びでした。冬、11月~12月は、家族全員で船に乗って手釣りでイカ釣りです。私が子どもの頃は、農繁期は学校が休みになりました。それで、学校が休みだと、海へ行ってね。
小学校は8年通いました。昭和8(1933)年、津波の年に小学校に入ったの。子どもの頃は、いつでも「陣取り」したの。
「陣取り」ってわかる? 隣の家と隣の家で、じゃんけんして、隣の家さ、相手よりも早く「陣取って」攻めていくんです。「陣取る」っつうのは、柱でもなんでも良いから、とんとんって跳ねて行ってね、相手よりも早く行って、端にすがりついた人が勝ち。
あとは、野球。野(の)野球(草野球)だけどね。今のような活発な服装でやったんでねえげっと。私は、ピッチャーでなくキャッチャーのほうでした。
近所に三姉妹の方があって、その家へ毎日遊びにいったのよ。上のお姉さんは私と1個違いだったし、あと妹2人とは、3個ぐらいずつ年下だった。今でも懐かしいです。遊んだ笹浜の方、歩ってみたいと思うね。その三姉妹以外にも、ほかにも子どもが来るの。そうね、6人・・7人くらいかね。みんな寄ってきてね。みんなで仲良く遊ぶ。喧嘩しないでね。毎日遊んだもんです。陣取りとか、縄とびとか、もう、汗流して遊んだものね。今みたいにゲームなんてない頃ですし、そんなもの、夢にも思わないもんね。お手玉とかね。おはじきですね。
三姉妹の家には、みんな寄るのね。別の家に行くと、きれい好きなお爺さんがいて、箒を手から離さないで、遊びに行くと追われるわけだ。「散らかす」って(笑)。だからその三姉妹の家に毎日のようにいって遊んだわけ。
今の「イジメ」なんて、なかったですよね。なんでいま「イジメ」なんてやるんだかね。ほんと仲良くね。虐められたこともないし、もちろん虐めたこともないし。仲良く遊んだもんだがね。陣取りなんてね、男性軍はそっち、女性軍はこっちでね。そして遊んだもんです。汗流してね。
仲良しだった三姉妹は、上のお姉ちゃんだけ青年学校まで一緒で、後の2人は体が弱くてね、早く亡くなったんです。遊び相手が減ってしまってさびしかったですね。
あと、夏休みはラジオ体操あったのね。宿(しゅく)の唐桑小学校に行ってラジオ体操するのに、30分くらいかけて行ったのね。学校に行く時は、大体、みんなで一緒に行きましたね。終わったらハンコ押してもらってね。ラジオ体操、好きでしたし、運動会でも徒競争だけはいつも1等で、あとはもう、後ろの方から1等かな(笑)。
兄とは、半造(はんぞう)に行って、ナメコやなんかのキノコ採りとか、「かけす」って言ってたアヤメ、あとは、オキナソウが沢山あったんですよ、それを掘りに行ったりとかね。よく兄に連れられて歩ったの。掘ってきて育てたりとかね。あとはほら、栗取りとか、あけび取りとか、兄を追っ掛けて、そして歩いたの。
私が子どもの頃は、今より雪が多かったので、ちょっとした坂なんかは、ソリを使って滑っていましたね。それから、もっと面白い遊びはこうです。田んぼに水が張っていると、寒さも厳しかったから、氷が張るわけです。そこをスケートするんです。今のようなスケートじゃないんですよ。走るの(笑)。
スケートって言っても、昔はね、スケート靴を持ってる人なんてよほどの財閥ですよ。それでね、私たちは長靴に足駄(下駄に似ているが下駄より歯の高さが高く、鼻緒が前寄りにつけられ、
引きずるように履くのではねが上がらなかった)を組み合わせてやったんです。
まず、足駄(あしだ)っていうのはね、底が下駄と違って丸くなってるんです。この丸くなったところに、スケートの刃が入るわけです。鎹(かすがい)ってあるでしょ。「子は鎹」の。それをここにブツ(打つ)わけです。長靴に下駄の緒を結わえてくっつけます。下が鎹だから、溝もなにもないんです(笑)。
だから足で踏ん張るわけにはいかないわけで、スキーみたいに、杖もつくんです。杖は竹に古釘の細い釘を刺して作りました。
子どもは作り方は自然と覚えるもんです。みな自分で考えて自分で作り出すんですよ。簡単だから。そんな風にちびた足駄の歯を抜いては作り、凍った田んぼや池に行ってはスケートするんです。面白い遊びでしたよ。
中には排水されて水のない田もあったんですよ、そこをスケートしたさに、「凍らすべ」って、自分たちでわざと掘をせき止めて水を入れて。怒られるわね(笑)。
スキーなんかも、竹を割って、火であぶって曲げた竹スキーってやつを、子どもたちはみな、自分で作りました。竹馬だって全部自分で作る。なにせ売ってないから! 竹馬はね、誰でも作れるんです。
昔はコマも作りましたが、わりあい簡単なんですよ、あれは。材料は「いなご」というクリの木で、稲を乾かすときにかける「ほんにょ」に使う木ですが、それを切って作ります。ただ器用でないとね。学校でも本当は作らせればいいと思うんですが、怪我させるのを怖がって作らせませんね。私たちは、小刀やノコギリやナタでもなんでも、平気で使っていました。
夏の遊びもいろいろですよ。旧迫川(はさまがわ)で水遊びです。今みたいに綺麗な川ではありませんでしたし、学校の生徒1クラスの30人も40人もの生徒がいると、砂だらけ、泥だらけになってるのね(笑)。今は汚染物質だなんだって言って泳げないけど、当時は各浜にみな海水浴場があったんです。志津川あたりでは、荒島(ありしま)だの、防波堤の外で泳いだものです。昔の人たちは、少々のごみなんか、なんとも思わないんです。川だって泥水でもいいんだから。そのぶん、みんな丈夫でした。
今はなんでも売ってるから、買ってくれば用が足せるけれど、昔は遊びの道具は、こんな風に自分たちで作ったんです。
戦争当時は、男の人手が足らないっていうんで、子どもたちから女の人たちまで、「なければないで、なんとかする」、みんなこういう自給自足を日常的にやってきたわけです。だから私たちはいろいろ災害があっても強いんです。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
冬といえば、田んぼに水を張って凍らせて、スケートをしました。田んぼに水を張るのは自分たちでします。当時の子どもは生活に慣れていますから、そういうことも自分たちでしましたね。氷は一晩で全部は無理だけど、しっかり凍ると丁度良いスケートリンクになるんです。今のようにスケート靴なんて無いから、下駄のようにして、歯をつけて、そういう風なのを作って遊びました。
もちろん自分で作るんです。金具がなかったりすれば、釘、太い柱なんかを留める柱と柱を打ちつけるような鎹(かすがい)、そういう金具を利用して作って、自分で磨いてね。転ぶと危ないから、戦時中の防空頭巾を被ったりしました。
子どもの頃の楽しみといえば、やっぱり食べることなんですね。お腹がいつも空いていましたからね。山へ行って、くわご(桑の実の方言)とか、後は、茱萸(ぐみ)を採って食べるのが楽しみでした。
自然の恵みが多いとかそういうことではなくて、子どもの人数が多くて、皆が採るから競争みたいなもんですよ。当時は1クラスが40~50人。3組あって1学年150人くらいでした。
海にも、行きましたよ。潜って、タコを獲ったり・・。
そういうふうに遊んでいると、お腹が空いたり、喉が乾いたりするから、途中の畑に入って大根があれば、ちょっと無断で大根を頂いて食べたりしました。大根はね、土から顔を出している青い部分が甘いんだよ。お天道さまが当たっているところが青くなるでしょう? そこが甘いんです。で、そこを食べると美味しいの。下は辛いから・・。そういう時、犯罪意識とかそんな大げさなことは考えませんでしたね。今とは感覚が違いますね。とにかく、背に腹は代えられないと・・。
品種改良が進んでいないから、野菜なんかも今とは違います。美味しいというのが少し違うと思います。この辺は、梨とかリンゴもあまり無かったね。今は、ドンドン品種改良が進んで、種なしブドウとか出ていますけれど、当時喜んで食べていた物って、今ではあんまり売れないんじゃないかな?
柿は、当時からありました。甘柿と渋柿とありますね? 甘柿というのは、まだ木になっている青いうちから甘いんですよ。だから、そういうのは見逃しません(笑)。1つ無くなり、2つ無くなりしてね・・。その柿の木のある家の人たちの口には、ほとんど入らなかったと思いますよ。
「お正月は、お餅!」って思うだろうけど、お米がある人たちばかりじゃないから、もち米ばっかりじゃなくて、色々なものを混ぜて、豆を入れて豆餅とか、よもぎを混ぜて草餅とか。今は、わざわざそういう物を入れたほうが美味しいなんて言うけどさ。
で、もち米にうるち米(普段食べているご飯のお米)も混ぜるから、粘りのない餅になるんです。焼いても、食べると「ぼっきらぼっきら」って。ウチの弟は、「うる米餅はいらない」なんて言いました。ウチの弟だけじゃないけどね。