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議員になるきっかけは歌津町長をしていた叔父に「そろそろ社会で役に立ってみたらどうか?」と言われたのがきっかけです。「みんなの声があるよ。やってみたら」とも言われました。今は議員をやっていますが、当時はそんな気は毛頭なかったですね。
2世議員というのは、親が引退の時出馬する。私の場合、父が引退してからずいぶん間があいてしまって、本当にゼロからのスタートでした。自分は「先生」とか「議員さん」と呼ばれるのが嫌いです。議員の役目は町民奉公だと思います。議員で儲けようと思ってやる仕事じゃないと思います。中には「先生」と呼ばれて、自分を特別だと思っている議員もいますが、自分はそうはなりたくない。自分は「樋の口の孝樹」と呼ばれてみんなが気やすく何でも色々言ってくれる方がうれしいですね。
議員だからと堅苦しく構えるのではなく、ジョークで例えるなら、登壇の際には自分のテーマ曲を流して登壇するとか・・。もし私なら、ピンク・フロイドやキング・クリムゾンの「21世紀のスキッツォイド・マン」なんかで登壇したいですね(笑)。
議会というのは、言いなりで数の論理に流されてはだめだと思っています。評決は辛くても勇気を持ってやらないといけません。「辛口でないと・・」と思います。
今、自分は2期目(旧歌津町では合併を迎えるまで2年5か月務めました)ですが、町に対しては、偏りが一番気になっています。均衡のある街づくりをしたい。格差・差別のない社会が理想です。今、南三陸町はどうしても志津川中心で歌津が後回しになる傾向があって、2つの地域には空気の違いがあります。夫婦が相思相愛で結婚したはずなのに、やっぱりお互いが馴染むまでにはそれ相応の時間が必要なように、町も同じなのだろうと感じています。震災後志津川に物資が偏り、同じ町内なのに・・という事実がありました。「分ける」「分かち合う」「心は一つ」「絆」が、口先だけのスローガンになってしまっていてはダメです。
色々な事情があったとは思います。時間をかけて、いずれバランスの取れたところに納まるのではないかと期待しています。
昭和8(1933)年、私が4歳のとき、三陸津波にあいました。その時、今の伊里前小がある場所まで避難しました。当時は、下に学校があったけれども、上にも校舎はありました。上校舎といいました。私の家の裏が旧校舎、その並びに中校舎、坂の上が上校舎です。当時も地震のときは上校舎が避難場所になっていました。4歳だから、地震があったのも、津波が来るということも、わからなかったです。ただ、兄と上へ来て避難して、外で焚き火をしていたのを覚えています。「どこそれまで、今、波が来たぞ!」という大人の声が耳に残っています。夜は家に帰ったのかどうかも覚えていませんが、夜起こされて学校のところにおしっこをした時、学校の校庭で焚き火をしていた兵隊さんがいました。後日、もう一部隊、小隊が災害の復旧のために来たというのは、後から聞きました。
伊里前は、明治の津波のときも、割に被害が少ないところなんです。明治のときは海岸は浸かったと聞きましたが、海のほうはどうだったとか、色々聞く話しはあっても、伊里前は被害が少なかったようです。住みやすいところだったのだと思います。
「縦の糸はあなた、横の糸は私──夫婦の自分史」千葉貞雄さん・きちよさん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和4(1929)年生まれ
林業をしながら、米作り・畑仕事もしています。今朝もトラクターで耕してきました。トラクターでディープパープルやARBなどのロックを聴きながらね(笑)。今のトラクターにはエアコンもラジカセも付いています。ラジオはノイズが入るから聴こえないしね。
こういう家の仕事は、若い頃に手伝いで一通りやりました。田んぼの畦のクロ塗り(水田の水漏れを防ぐための作業)を、当時は機械なしで「よつこ」でやりましたよ。
今は96アールの田んぼで米を作っています。種籾は農協に注文して、ハウスで苗を約200箱作ります。種籾は、昔は塩水選(えんすいせん)で・・。比重計もあるんだけど、以前は、生卵を使い浮き沈みで比重を見ました。悪い種は浮くから、先人の知恵ですね。今は温湯(おんとう)消毒したものを持ってきてくれます。10アールに箱で約20枚分。しろかきや土入れは自分と家族でやっていますが、田植え時のような農繁期は、今も手伝いの人を頼んでいます。採りいれ後、収穫の60アール分は農協へ供出します。供出分は機械乾燥してもらいます。これが、翌年の農薬代や種籾代に充てられます。自宅で食べる保有米は自然乾燥しています。
学生の頃は他所でアルバイトをしたかったものですが、父が認めてくれないので、家の仕事をバイトとして小遣いをもらいました。自分が働いてもらったお金は、なかなか簡単に使えないもので思い入れのある品を買ったと思います。あこがれのブランドの洋服を買ったかなぁ・・。アルバイトといえば、昭和46・7年頃「クリスマス雪害」の時、雪の重みで木が全部曲がってしまったので、ジャッキを買い、ビニール紐で1本1本木を起こすのを手伝いました。
今も木を切ると、その当時のところが若干曲がっているのがわかるんですよ。
契約会では、今回の震災で住む場所を失った方々に、所有している山の一部を譲渡することを考えています。RQ市民災害救援センターの歌津センターも、契約会が貸した土地です。その、ちょうど向かいの平らな山の、10町歩ほどの土地の譲渡も準備が進んでいます。来年の秋ごろには整備が始まるのではないでしょうか。
じつは震災翌日、契約会現会長の千葉正海さんに会いに避難所から出かけていったんです。朝5時ごろでしたが、いませんでした。7時ごろになって、ようやく歌津中学校で会うことができました。
大将(千葉さん)は震災直後、動力船で海へ逃げたんです。津波が来ると分かっていたから。大将は震災の前から、「もし大地震が来たら、俺は船で沖へ逃げる、お前たちはどこそこへ逃げろ」と、家族でマニュアルのようなものを用意していたんです。だから、千葉さんは沖へ出て、そこで一晩泊まって次の朝に陸に戻ってきたんです。
私は千葉さんに、「会長、もうだめだ。伊里前の町は住めない。契約山は全部ただで、みんなにやっぺ」と言いました。千葉さんも、「77世帯分、整地して、もし土地が100でも150でも余ったなら、それは、みんなにやっぺや」と言いました。そこで初めて、契約会の土地譲渡の話が浮上したんです。
大きな事業は町が主体になるだろうからと、その1週間くらい後には会長や副会長が役場に行って、土地の譲渡の提案を行いました。役場に話を通しておけば、あとで勝手にやったと文句を言われることもないと思ったのです。「契約会に入っていない人にも土地ができるわけだから、よろしくお願いしますよ」と、きちんと仁義を切ってきた。
ちなみに、千葉さんは息子が結婚したので、本来なら、もう引退の時期なんです。だけど、今回の震災で大きな事業が動き出したので、来年まで引退はできないと言っていました。
千葉さんは、高台に移転したら、この伊里前の町をちゃんと引き継ごうと言っていたんです。上町切とか下町切とか横橋といった屋号も残して、昔はこういう町だったんだと分かるようにしたいと。そのあと、どうしていくかは分かりませんが、何しろ320年も続いてきた町ですから。私も、最初に町割りをした家の子孫だからとか、そんな意識はないけれど、やはりそうしたいと思います。写真だって、昔のものは全部とってありますから。
結婚後、長期林業の功労で農林水産大臣賞をいただいたことがあります。
林業研修で福島県の阿武隈へ行き、とても熱心に林業を研究し取り組まれているムトウさんという方(当時60歳位)が「19歳や20歳で木に魅力がありますよ、などと言う奴は頭がおかしい」と。この時、家業の「林業」に対して、「わからなくていいんだ」と気持ちが楽になれました。その方のことは、受賞記念の際の文章に書かせていただきました。
林業は、バブルがはじける前から低迷していました。ただ、あの頃はまだ低迷しているといっても古木1本が300万円で売れたり、まだまだ売れて、お金もあったと思います。以来、木価が下落しています。売れなくなった背景には、外材が入ってきたこと、集製材や合板、プレス材の開発が大きく影響しています。祖父の時代は「売ってください」「売ってあげます」の時代だった。祖父は幼い頃に両親を亡くして苦労したせいか、財産に対する執着が強かったと聞いています。父の時代は、それほどでもなかったとはいえ、仕事の目安がたちました。だいたい、今年は何本位植えて、切って、売って・・というような。もともと、樋の口大家(ひのくちおおえ)の木は良いと言われていて、映画「黒部の太陽」のモデルになった建設業界の笹島ヨネ作さんが岩手の仕事の関係でご自分の家を建てるという時に、紹介されてうちの木を使ってもらいました。
登米の旧校舎の腰板、外の部分にうちの材木が使われています。
ただ、材木というのは、仕入れた人間が儲けているんです。うちの木を「秋田杉」として秋田の材木市で売られたこともありますよ。
まだ、「山師」がいた時代に、実際の「山師」とのやり取り、優しさの裏にある危ない手口も見てきました。輪尺(木の直径を計る道具)を使って目通りする時も、必ず我々に見えない方向から計り、少しずつさばを読む。できるだけ安く買って、できるだけ高く売って、さばを読んだ分だけでも、ずいぶん儲けたと思います。
うちの山は木が育つのに適しているんです。実は木というのは、その土地で育てれば、そこの木になるもの。「秋田杉」だって、苗木をここへ持ってきて育てれば、この地の杉になる。「裏杉・表杉」という呼び名もあるが、製材してしまえば実はわからないものです。肌が少し違う程度で、普通はわからない。
横山に「津山杉」という有名な杉がありますが、あそこは盆地なので寒暖差が激しくて、30年で太くなりますが、実は目が粗い。うちの木は年輪が狭くて目がつんでいます。無節は好きずきです。節を無くそうとすると、無理に手足を切り落としてしまうような感じで、実は節があったほうが強い。木は自然が一番だと思います。
ワカメの養殖は被災したけれど、この19日にね、面接があって、本当に養殖を再開したい人は、場所与えてくれるみたいです。一応はワカメの種付けてて、来年はみな共同でやりたいけど、1回にはできないですよね。全部用意すると、何千万もかかるので。それでも旦那はやる気でいるね。
収穫量の見込みは、海が汚れてるけど、状況はいいみたい。畑でもそうだけど、海が底からかき回されて栄養が海の中に出ているらしいです。だから、今まで養殖を10台やってたところが、5台ぐらいで、今までの量ができるって、大学の教授が来て言っていたらしいです。
問題は、現金なのね。今まで漁協に貸しがあったんだけど、現金だから、どの程度やるかが問題です。養殖をやったら何百万もかかるからです。漁業組合では、物を売るのは現金取引ですが、そのお金が後から戻って来るけど、何年先に戻ってくるかは分からない。そうなってくると生活もあるし。
資金は漁協にいちおう当てがありますが、この後、来年か再来年からは、個人で養殖するのは個人がお金を出すことになります。補助は出るけど、国でいつ補助を出すか、2年先か3年先かは分かんないんですね。だから、先に自分でお金を払っておかないと、仕事ができないんです。ここは漁協じゃなくて、個人で払うんです。会社組織にすると、やっぱりあまり良くないって言う人もいます。
早くみんなに家を建ててもらいたいですね。そして漁業に復興してもらいたい。
歌津はここはアワビ漁が有名なんです。だから1日も早く、いくらか後で払ってもいいから、早くアワビ放流して、アワビ養殖でまた盛り上げていきたいですね。ワカメ、牡蠣、ホヤ、ホタテ、あとウニ、ここはほとんどそれで食べているので。それから、大きな船も要りますね。今みんな焼いて無くしてしまっているから、そういう人たちも働きに出るようになればね、良いと思います。国だって、私たちが税金払えるようになればいい思うんですよね。私らの考えはこうです。
とにかくここは、漁業が復興しないと、収入は上がんない。働くことが大切だね。第一に漁業の復興。あとはいいんです。
歌津に戻って、時にはデザイナーの夢を捨てて後悔したこともありましたが、ひと冬を越えればそれなりに仕事には慣れるものです。当時は林業が全盛期で、これにバブル時代が続き、1本売れたら左団扇、10本、20本売ったら1年間の暮らしは十分! というような時代でした。
孫は背負って逃げました。雪が降って寒いから、毛布だけ被って。まさかこんなに(大きな津波が)来るとは思わないから、軽い装備で出てきてしまったもんだから、避難先で何にもなくて。雪が降って、マイナス5度か6度とかしかなくて寒かったので、そっちに行ったけどひと晩食べるものがあって、1週間あっちにいました。旦那と自分はあんまり食べないで、孫たちに食べさせていました。食べる物食べないでいたら、痩せた。15キロ。みんなスマートになりました。ダイエット(笑)。
孫が2歳ちょっとで、その上、3月16日に孫が生れたんです。お産も大変でしたが、孫のことで困ったのは靴でした。「靴がない、靴がない」って。下を歩くにも、自分たちは何も無くても平気ですが、寒い中孫たちにはかせる靴がないのが辛かったです。
午前中は天候はまだ良かったのですが、午後になって、雪が土砂降りのように降ってきました。着の身着のままの人は、もう寒さでブルブル震えていました。そこの老人センターに行ってもな、みんな寒さでブルブルブルブル震えていたんです。20日間お風呂に入れないで、みんなして、着の身着のまま。どうしようもなかったですね。
一番しんどかったのは、トイレです。「パンツに漏らしてしまったから、汚いのでもいいからパンツちょうだい」って人がいました。
掃除のこともつらかった。どこに行っても、誰もトイレ掃除をやらない。しょうがないから、私がトイレ掃除を引き受けました。こっちにいたときもずーっとトイレ掃除してたんです。やっぱりトイレ汚いとね。水くんで流してもらうようにしてましたが、自分でやってもそのままにする人が多かったから、大変でした。
避難所では、そこではとても強い態度で、物資も何も、全部自分たちだけで仕切ってしまう人がいました。あれだけは辛かったですね。年取った人なんか、物資をもらい行くのもやっとなのに、若い人と同じように並ばせられて、「ボランティアって、何のためにあるんだ」って、そう思いました。
あるとき、大判焼きを配っていて、足の悪い年寄りのために、その人の分まで貰おうとしたんです。そしたら「なんで1人で何個ももっていくんだ」と怒鳴るんです。ご飯があるんだったら、みんなで分ければいいのに。大判焼き1個ぐらいのことで騒いで、威張っていました。私は自分の分を返して、泣きながら抗議しました。食ってかかって喧嘩をしたんです。
あの時、みんな、この人たちには早く出て行ってほしいと願っていました。いいものは全部集めて取ってしまって。そういうのは泥棒と同じですから。みんな口には出さないけど、陰では言ってますから。来た物資のトラックも勝手に返してしまって、みんなで追いかけたこともあったんです。最後には誰もその人たちの言うことなんか聞かなくなっていました。
別のボランティアさんのおかげで、ここの物資が心配しなくてよくなったんです。初めのうちは、ここにいても、何ももらえませんでした。
仮設住宅にみんな移ってきたとき、私は家で一番最初に仮設に入ったんですが、米も無いし味噌も無いし、食べるものは一切もらえないんですよ。だから、身内のところを走り回って、食べ物をもらいに走りました。だけど、本当は物資はないわけじゃない、来てたんですよ。
地震のときは、家にいました。(揺れが収まって)立つことができた瞬間にすぐ逃げたんです。長い時間揺れてたから、逃げてるのがやっと。速くて速くて。
ここからだと海が見えるんですが、空と津波の高さが同じくらいなんですよ。津波の高さが全然下らずに、その高さで来たの。だからここの人も結構流されてしまいました。上から見てる人が「逃げろ、逃げろ」って言ったけど、チリ地震(の経験)があったから、ここまで来ないって安心して(逃げないでいて)、それで私たちの見てる前で流されたんです。そしてあと、そっちの人も、背中が山なんです(だから、逃げようと思えば安全な場所に行けた)、でも逃げなかったから流されました。
昨日偶然助けた人に会ったんだけど、そこの人ね、心配して志津川からここに来て、鍵を開けた瞬間、流されたんだけど、覚えてないんだって。そしてうちの、竹藪のとこまで流されて来て、津波がグルグルグルグル渦巻きになったのね、「助けて」って叫んだ。何かに取りすがって流されなかったって言ってました。「何さすがった(何につかまったの)?」て言ったけど「分かんね(覚えてない)」って。みんなして、その人を助けたら、その時は分からなかったけど、後で聞いたら大怪我をしていました。
肉がベローっとそげて、血管がピクピクピクピクひきつるのが見えて、(後で聞いたら)完治するまで3カ月半かかったって言ってました。
高いところに行こうとしても、そのまま、震えて立てないので、て、男の人が3~4人で抱えてもらって山に逃げて、どこかの住宅に入って、着替えは全部、長袖の物が補助で来たそうです。家は孫がいるので、ここに逃げてきて泊ったんですが、そっちに泊まったその人は、ひと晩、震えが止まらなかったって言ってました。
私の身内でも、本家の人で、65歳くらいのお姉さんとか、この親類でも、6~7人亡くなったんです。逃げなかったんですよね。
結婚式はね、2回やりました。私の時代までは自分の実家と、嫁ぎ先と、別々にやるの。今はみんな実家も嫁ぎ先も一緒にしますけどね。
自分が1回実家でこじんまり結婚式を挙げます。嫁ぎ先でも、ふた座敷、宴会をします。お嫁さんが来る前に近所の人を招いて1回宴会です。その後、嫁ぎ先から嫁の実家に迎えが来ます。車でした。お婿さんと一緒に座って、そして、「はい、家の娘を嫁にあげます」ということで、もらわれていきます。
その頃は気仙沼から歌津まで、道路が舗装されてないから、ガタガタガタガタ揺られて、1時間半かけて、乗せられて来ました。そのまま嫁ぎ先で今度は結婚式を親類、ほんとに近い人だけで3日くらい盛大にやるんです。朝から晩までです。嫁に来るほうはそんなにお金はかかんないんだけど、もらうほうではすごくかかったんですよね。
結婚式の食べ物けっこういいものでしたよ。歌津のだんなの家では、100何キロのマグロ1本買って準備してました。本人だけは食べられないんだけどね(笑)。3月だからまだかなり寒くって、周りに大ぜい知らないひとが沢山いるし、お小水に立ちたくなったら困るからって、あまり食べないようにしてました。大変なんですよ。
女の子って損だよね。全然勝手の分からないとこにお嫁に来るし、相手の家族になんてその日まで会ったこともないんです。あんまり構ってはもらえませんでしたね。私なりに世の中歩いてきたから、いろんな人を見てますからね。こう最初は、人をよく見て、喋らないようにして、(相手の人となりが)分かるようになってから喋るようにしてました。全然、ひとつも、本当に分かんないから、よく観察はしましたね。だから、最初バカになってね、バカって言われてもいいと思ってました。
中学校終ってすぐ、洋裁の学校へ入ったんだけど、却ってお金がかかるし、兄弟多いから、これではダメだなと思って、1年半でやめて、浜松に働きに行ったんです。浜松では6年間働きました。
職場は、浜松の可美村といって、スズキの本社の近くにある紡績工場でした。そこは税金が安いのね(笑)。ガッチャンガッチャンと本当に手作業で織っていくんです。間違ったりなんかすると、手で全部それを取って、ある程度修正する。キズって出るんですよね。そのままずーっと長く織っていきます。
その可美村に学校がありましたね。何ていうんだろうね。もう40年も前の話だから名前は忘れちゃったね。一応、高校の家政科みたいになってるんです。会社が休みの土日に行っていました。スズキの本社の向かいにあってね、その当時はスズキも小さかったから、社長にだって普段から会えてしまうんです。ホンダもその近くでした。
いろんなこと、お花(華道)から、織物から、和裁洋裁、全部教えてくれるんです。そのほか、国語だとか、社会だとかそういう普通の学校の教科のようなものはないけど、社会に出て必要な道徳教育を受けました。女工さん、女の人ばっかりですよ。
今も思い出に残っている人と言えば、そこの学園長で、太田先生ですね。道徳の先生でした。ちょっと前に脳梗塞で亡くなりました。ホンダの創業者の本田宗一郎さんの苦労した話もよく聞かされました。トヨタが困った時にホンダが助けたというような話も聞きましたね。
伊里前は元禄6年に新しい町割りをしてできた町なんです。伊達政宗が領地を62万石もらって、新しく領地になった街道、道路を通して、馬で年貢を運ぶんです。
ところが、仙台の小野から陸前高田までの東浜街道にある、陸前高田、気仙沼、津谷、本吉(志津川)、その間があんまり長すぎて、息が持たないんです。駅があれば、馬に荷物を積んで行って、駅で降ろして、次の荷物を馬に積んで帰ってくることができる。
それで、元禄六年に許可をされて、新しく伊里前に駅ができました。だからここは自然にできた町じゃないんですよ。駅は、浜街道からちょっと離れた海岸に作られました。
駅を作る最低条件って言うのがあるそうで、たとえば品川宿だったら、馬が25頭、それを扱う者が25人、それにお客さんを泊める宿屋が3軒とか。ここには宿屋が何十軒作られて、津波前までは町外れに上町切、下町切(ちょうぎり=町の切れ目)っていうのを示す石碑が立ってました。
帆船時代は、駅のほとんどの人間が宿を営んだりする商人だったと思います。津谷から馬で来て伊里前で荷を積み替えて、という馬中心の伊里前駅ができたというわけです。仙台の殿様が泊まったり、伊能忠敬が泊まって調査やったり、そういう記録があるんですがね。
伊里前を守る人たちが、「ケエヤグ」っていうんだけど、「契約講(けいやくこう)」と言う相互補助の今で言う隣組を作りました。伊里前契約会は隣組の単位を「合」と呼び、8合まであります。それが今まで続いているわけ。「契約講」が明治前に「契約会」になって、今でも77戸が会員です。伊里前には全部で400戸以上ありますが、それ以上入会させないわけです。
というのは、膨大な山があって、何千万という財産があるけれど、会員が増えれば増えるほど、配当金を分けると分け前が少なくなりますからね。それで今までは、お祭りなど行事は全て、契約会主導でやってきたんですが、契約に入ってない人が増えてきたので、町民全部でお祭りをやろうと言うことになりました。
昔は全戸で相互補助ができていたんだけど、どんどん人が増えて行ったからね。伊里前以外の地区では契約会に全員入っているらしいです。例えば、ある自治会では会費など一切取らない。アワビやウニなど、保護地域では開口日以外採ってはいけないのですが、特別に漁をして、収穫物の売り上げで自治会の運営費を賄っているところもあるんですよ。伊里前は特別で、古い契約を保持しています。山もあるし、海もあるし、半農半漁の人が多いんですよ。