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震災当日は作業小屋にいました。朝から、よそのお母さんたちと4人でワカメの作業をしていました。
あの時は、お昼食べて2時だから、ちょうど練炭とストーブの一番燃えいいときですから(笑)。2時46分だったかにありました。地震がきたときは、一番先に自分が外に飛び出たんです。ドア2枚ありますから。足でけったら壊れるんだけど、まさかそういうこともできないんで、一番に開けて。それでお母さん方に一番先に言ったのは、「火を消して帰ってください」と。すぐ帰りましたよ、みんな、無事です。あの、気仙沼市の大谷に帰ったのも、間に合いました。あと、子供を学校に迎えに行って車で避難した人もいたんです。
歌津町でいたときは、年に2回、契約長会議をやっていました。歌津町から町の三役のうち1人が出席するかして、各契約会の代表が出席しました。
今の保健センターのところにあった役場に契約会の誰が行っても、町長がいると、「おーい、こっちへ来てお茶飲めや」と声がかかる。お茶飲むってことは話を聞いてくれるってことです。こういうことだから頼むと、わざわざ陳情に行くんです、そんなふうに、各部落の契約会が気軽に役所を訪れて、街の三役が常に話し合いをしていました。暮れには、各契約会がお金を出し合って忘年会をやっていました。だから、町にまとまりがあったんです。契約会長が先頭に立って部落をまとめて、部落の区長がその下にいるんです。だから浜に行ったら部落の契約会長は強かったんですよ。6500~7000人規模の町だったから、まとまりが早かったですよ。
南三陸町に合併してからはそういうのがなくなってしまったんです。区長にはなにも権限がないし、契約会長の話も町で聞いてくれない。このごろは誰も陳情に行かないし。前は契約会が音頭をとって行くのが普通だったんです。町議会と契約会が顔を合わせる機会はもうないです。今は他の契約会との交流はありません。
私が契約会をやめて息子の結婚式をしたときには、家の前がお祭りみたいだったよ。ホテル観洋で結婚式挙げたんだけど、230人くらい集まりました。観洋がいっぱいになりました。獅子舞が2頭出て、伊里前契約会にある魚竜太鼓のメンバーも20人くらい集まって。
魚竜太鼓は和太鼓だけど大きな太鼓です。100何号くらいあるのかな、こんな大きな太鼓です。叩くのは男と女。若い連中。震災に遭ってからは、魚龍太鼓は1回もやってません。メンバーになるのは、今この地区にいる若い連中なら誰でもいい。契約会に入っていなくても。そういう制限してたら叩く人がいなくなります。お祭りとか契約会会員の結婚式なんかあると、しょっちゅう出て行く。頼まれれば行くけどね。若い連中もどんどん外に出さないとだめなんです。
今から、伊里前の契約会の歴史をぐるっとお話します。伊里前の歴史の中に定置網の漁業権があったんです。昔のこと、私が会長になる何代も前のことで、その漁業権を当時県に150万円で売却したんです。そのお金は、その金額のまま、漁業権の補償基金として今も定期預金にして残っているんです。
当時は伊里前契約会には村を動かすほどの金があったそうです。漁業権を売ったのは何代も前の方々です。
伊里前契約会と、他の契約会との違い
契約会はここの辺の浜ごとにあります。
契約会によってルールはみんな違うんです。しかし『規約』がちゃんと生きてるところは伊里前契約会だけなんです。また伊里前契約会だけが土地や山を持っています。他の会は持ってません。
伊里前契約会の・構成・規約による役割
私が、伊里前契約会の会長になったのは、55才くらいの時かな。1期が2年で、4年間やりました。
会長は、総会でみんなの推薦でなるんです。契約会には16人の役員がいます。会長、副会長2名、会計、幹事2人、山係、芸能部等です。
伊里前契約会の規約による役割は
① 伊里前契約会が代々受け継いでいる50町歩(普通は、1町歩=1ha)位の山を1年に山を2回見に行くんです。契約会全員で。海を見に行ってから、山を見に行ったり、雑木が生えているから切ろうとか、刈り払いをしようとか考えて里山を維持しているんです。それを会長が計画をして、春と秋にある総会にかけるんです。その段取りが大変で。私も会長はやりたくなかったのさ、ほんっとに(笑)。仕事ができないですから。なんだかんだって。
今の契約会はここ3年くらい全然やってないんです。やっぱり代が変わるとこうなるのかなぁ?って、年とった人たちは言ってるんです。なんもしないで、山がどうなるのかなと。今のように3年ほったらかしてあるのは気になります。今は私は顧問だけど、何の権限もない立場です。会員の方に、たまに「あそこ、こうやったらいいのに。」くらいは言います。そうでなくても3月11日の前はみんな海の方で忙しかったから。自分たちの職業ですからね。
②お祭りは、4年に1回三嶋神社の大祭を執り行います。但し何か大きな行事があったりすると、その間でも、お祭りを行います。田束大橋ができた時にもやりました。
私が会長のときには、お祭りに使う紙花を、知的障害者の方とボランティアの方に作ってもらいました。
保健センターで集まって、作り方を手取り足取り教え、時には手伝って。1週間から10日かかったかなぁ。
自分の仕事そっちのけでやらないとできなかったですから。大変な仕事です。
③契約会は、自分が会員になっていても、息子が結婚するとその場で代が交替なんです。私の息子は私が2期やってるうちに結婚しましたから、私も契約会をやめて息子を入れたんです。息子が結婚しなければいつまででも会員です。今81歳の方もいらっしゃいます。跡継ぎいなくて。
④契約会では、特別収入があったりすると旅行に行ったりします。
契約会には代参っていって、もともと契約会のなかで八組に分かれていて、そのうちの2組ずつ神社にお参りに行くんです。春と秋と。総勢約20名で、塩釜神社と、岩沼の竹駒神社とに、お札を貰いに行くんですね。行った約20名で一晩お酒飲んでくるんです。遊びに行ってくるんです(笑)。つまり、朝7時に出発し、朝塩釜神社に着き、9時ごろに御祈祷して、その後竹駒神社に行って、御祈祷して、竹駒神社の近辺でお昼を食べて、そのあとは行き先を決めて遊びに行くんです。北に行く組もいるし、鳴子に行く組もいるし、福島に行く組もいるし。その組で違うんです。代参は、ぐるぐる回りでいくので、遊びに行く組がうらやましいとかはないでね。代参行くときは2組だから、話し合いはあります。お金かかりますし、会計報告も2組だけで開かれます。
総会の時には自分たちで料理するんですよ。前に代参に行った2組でみんなで料理するんです。
どんなものかって? 高級な料理ですよ(笑)。季節のものです。秋には地元で採れる白菜、牡蠣、タコ、さしみ、煮魚などを料理し、春にはメカブだの、ワカメだの、ホヤだの、春マスの塩焼きにして食べさせるんです。行ってきた男連中でやるんです。経費は会から半分出て、個人で2000円ずつ出すんです。いつかなぁ。こういうことしねえで、民宿でやるか!?って話になって。けど、今まで続けてきたもんだから、ずっと継続していったほうがいいんでねぇかと、そのまま継続してるんです。民宿でやるのは楽なんだけど、自分たちでやったときの味が出ないんでないんかなぁ。作るのが楽しいんでねぇ。家では何もしないような人が、出てくると やってるんですからね(笑)。準備は組長(班長)が取り仕切るんです。
協同組合は中学卒業の前からずっと父が入っていました。親父の代に協同組合法ができてから、組合が3回名前が変わったんですね、最初が『歌津全町漁業協同組合』合併してから『歌津漁業協同組合』今度が、『宮城漁業組合歌津支所』とね。組合組織作るのに、頭数が100人なら100人集まらないと組合が成立しない。そんで最初の歌津全町漁業協同組合の時は、120~30人集まって作ったのかなぁ。その時におやじが組合に入ったんです。
私が組合に入ったのは親父が亡くなってから。昭和53年です。相続をして。それから父親のあとを継いで海の仕事をやりました。そのあと農家はスパっと辞めました。海の方に専念しました。農業でなく、海の仕事を継いだのは、自分の努力でなんとか食べて行くのに良いと思ったからです。どこに行っても仕事がない時代でしたから。そして、自分でワカメ採りを始めたんです。畑はそのまま荒らしておきました。もったいなくもないです。
海苔とワカメは朝採りに行くんです。自分の代からは養殖をやってて。海には自分の領分でやります。
海苔はこのへんだと塩釜に委託して、種を網につけるんです。冷凍網って言ってそいつを冷凍しておいて、11月に海に流すんです。そうすると海の中で育つんです。そのころ結構このへんに海苔を作ってる人がいました。漁協組合ができたときに作った、何千トンっていう大きな共同の冷凍庫がありましたから、みんなその冷凍庫に置くようになりました。冷凍網が3000箱~4000箱入るような冷凍庫でした。
海苔の方は、塩釜で種をつけて直接もってきて、あと冷凍庫に入れるんです。冷凍海苔ってその頃は主流なんです。いま、宮城県の海苔も半分は冷凍の海苔です。 秋、芽をだして、そのままほかしてやるのと、 その収穫が終わると、今度は冷凍したものを出して網の張替えするんです。1年中、ヒマないんです。松島のへんでやってますね。松島の海苔や明石、千葉だって今はどこでも冷凍網じゃないですか。
私も自動乾燥機を買ってみたり様々なことやってみたけど、今は海苔を一切やっていません。
銀鮭をやったこともあります。みんなこの辺の人は銀鮭でおっきな穴(赤字)をあけたんです。財産売った方もおるし。私は、なんとか努力して、財産に手をつけないでやめて良かったです(笑)。
サンマを獲るのはあっちまで行くんです。千島列島。四国の香川の漁船会社に11年くらいいたのかなぁ。
23、4歳のときかな。どうだったか、証拠も何も流されてわからないんです(笑)。
香川に行くのは年に2回ぐらいです。4月に港から船に乗って香川に行って1回行って帰ってきて、あと、行っても行かなくてもよかったんです。そういう契約ですから。そのころはお金に困るということはなかったからね。高松から鳴門のあたりまで、ずいぶん、漁船仲間と遊びに行きました。おいしいものを食べに行ったり、見に行ったりさまざまなところに遊びに行きました。女の人と遊ぶ、ですか? そういうことも(笑)。今電話よこしたのはそんな(遊び仲間の)メンバーです(笑)。
それで今度は、サケマス漁に行ったんです。当時この辺のでは、家族から3人位漁へ行くと、家が1軒建ったんです。サケ・マスに4月から行って7月の中頃帰ってくるんです。3カ月くらいです。漁に1回行くだけで結構大金が貰えるんです。この辺は漁船漁業で偉くなったとこですから。歌津海岸地区は。
それこそ御殿みたいな家が建っていました。みんな津波で流されてしまったけれどね。
1年のうちに4月から7月にサケマス漁、そのあとサンマ漁に8月から11月まで行くとその年の漁船漁業は終わりですから、そのあと家に帰ってきて、海苔やらワカメやらを自分で採って、ふたたび漁船に乗る4月までやります。それを昭和53年頃までやってたんです。その間に家を建てました。
小学校は6年、中学は3年までで、高等学校には行っていません。兄貴は行ったけど。中学を卒業して家の手伝いをしても、お金は稼げませんから。漁船漁業に行きました。気仙沼です。その頃で、高校に進学するのは、全学年98名のうち20人位いたか、いないかくらいでした。あとはその頃は東京に就職してたね。
ちょうど集団就職が、金のたまごとして、もてはやされていた時代でしたから。
最初の1年はマグロ漁に行っていました。よく獲れました。釣り方は、延縄って、針と針の間、25メートルくらいあるんなぁ。針をつけて冷凍したスルメをかけたり、サバをかけたり、サンマをかけたりして釣るんです。餌は冷凍庫に入っているものを買ってくるんです。それをその冷凍のまま餌として付けるんです。マグロを獲っていたのは1年くらいだったかなぁ。マグロをやってるとお金にならなくて遊びに行けないもので・・・(笑)。
私も海に獲りに行ったんですよ。小学3年生ぐらいのときには素潜りをして、冬場には、夕方潮が下がりますから、みんなで焚き火して。焚き火の大きなかまどを作った上に石をドンと置いてあっためて、そこにマツモを乗っけて食べたんです。マツモの黄色い色が青々として。物が少なくて、煮て食べる鍋なんかないものですからね。それが鍋代わりだったんだね。
海に行かない時は、山に行って。藤の蔓を割って、つないで、長くして。それを大きな木に結わえつけて、ブランコにしたり、そうして遊んだんです。小学3年生ぐらいから中学ころまでやってたのかな。
小さい頃から、昼でも夜でも子供同士が集まる場所があったんです。今の子はそういう場所がなくて
ホントかわいそうです。
私が子供の頃、うちでは米、大麦、大根、白菜を作ってました。家で食べる分を採って、残りを農協に売って。私が生まれたこの辺の人たちは、食べる分は自分とこで採ってたんじゃないかと思います。
海のものも豊富でしたからね。自給自足できる感じですね。海藻、アワビ、ウニ、あとはタコ。そういうのがいっぱい、獲れたんですよ。ええ、ごちそうです。
昭和8年の津波のときは、小学校の1年か2年だったかな。現在の歌津中のすぐ下あたりに住んでいたんだけど、3月3日の夜でした。揺れが長くて、5分ぐらい続きました。もう収まったから寝ようと思った時に、隣のおじいさんが「津波だ~!」って声を出したものだから、一目散に下の伊里前小学校のほうに逃げだしたんです。その津波では、歌津全体ではで4~500人の方が亡くなったんです。だけどこの伊里前ってとこはひとりも死んだ人がいないのね、1軒は船が突っ込んだけども。というのは、うちの前がちょうど道路で、水がちょこっと乗っただけで済んだほどで、伊里前では水がほとんど上がらなかったからなのです。