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今回の大津波でなぜ私が生き延びたか。それは孫に助けられたからなのです。
震災の直前、2人いるうちの小さい方の孫が「爺(ずん)ちゃん、温泉さ行って、1週間ゆっくりつかっておいで。お母さんと一緒に12日に迎えに行くから」と言ってくれ、私は鳴子中山ラドン温泉に行き、安閑としてお湯につかってたんです。ところが11日にあの大地震があり、温泉宿も行ったり来たりになったんです。10日の晩には58人の宿泊客があったんだけれども、もうみんなちりぢり、ばらばらに帰ってしまって、残ったのは私も含めて4人だけになりました。テレビで津波の様子を見たのですが、まさか家族が亡くなっているとは思わなかった。
当時戸倉の部落には98戸の家がありましたが、今回の津波で残ったのは高いところにあった1軒だけで、52人の方が亡くなったのです。一家で5人も亡くなった家もありました。うちでも、前日の10日、小さい(ちゃっこい)方の孫が岩手県一関市の昭和病院から、母親の顔が見たいからと戻って来ていたのですが、2人とも津波で流されてしまったのです。また、姉は同じ戸倉の西戸(さいど)というところに嫁いでいましたが、今回の津波で、姪と一緒に亡くなりました。そして祖父が書き残した記録は流失してしまったのです。
私も、迂闊だったなあと今さらながら後悔していますが、「ここまではどんなことしたって津波来ないよ」ということを孫に言っていたのです。「来たらば逃げろ」ということは言わなかったのです。これは私の一番の後悔です。
亡くなった孫たちのためにも、私はこの祖父から受け継いだ慶長津波の伝承をなんとしても町役場に届けなければ、死んでも死にきれない思いなのです。
この辺りでは「契約講」が2つあるんです。昔から伝わっている契約講は、昔からいる財産持ってる人たちで、入るには何十万ですよ何百万ですよってお金が必要なのね。そんな大金を出すには、自分の生活するのさえ大変な時代だから、加入しないで過ごした人たちがいて、その人たちがあとから新契約っていうのつくって。あくまでも古い契約のほうから部落の会長をだす。そして新しい方から副会長。そして、会長になった人は部落の一切を仕切るわけだ。
志津川のほうでは、なんでも行政区長さんが代表だっていう。区長っていったって、行政のこともやるし、部落のことも一切のことやったら大変だべ、っていうから。そういう風にやってきているから。なんだか区長になる人は大変なんだろうな。町の方のことも精いっぱいなのに、部落の一切のやることまで頭にいれていたら大変。
だけど、昔の歌津町は行政区長さんの方は町の方の行政を担当して、あとのことは、契約会が仕切るんだっていう感じ。会長やっていた時分には、年に一回ずつ会長会があり、役場のほうからも人が来て、会ったんだけれども、今はどうなっているのか。私が辞めてから何十年になるから。
震災後に入った寄木仮設って9世帯で部落の人たちだけだから、たとえ魚一匹取ってきても、自分の家で食べきれないと、さらってきたから、って分けてやったり、梨送られてきた、食べきれないからって一個ずつやったり、畑もやっていればきゅうり持ってきてやったり、そういう、普段からのいたわり合う気持ちは、津波の後でも、まず変わりないんだね。仮設に住んでるのが部落の人たちだけで、ここで良かったなって。
だから、仮設でも豆送られてきたって豆分けてよこす者もあれば、リンゴ来たからやってやったり、米なんかも一杯送られてきたから、食いきれないからわけてやったりして。ここの海岸でワカメ作業しても、震災でばらばらになっているから、今は難しいけれども、自分の仕事、ワカメの切断から、メカブを切断したりの作業でも自分の家の分が終わっても、よその家が終わらないと、手伝ってね。寄木はそういうことについては、歌津町の時代から、模範部落として何回も表彰受けているんです。こっちの言葉で「結(ゆ)いっこ」って言うんだ。ここは仕事なんか遅れると、他の仕事でも畑の仕事でもみんな手伝ったから。沖に作業にでても、早く私たちなんか海に出ると、一人で出てる人の船によく乗り移って、手伝いした時もあったのね。一人でかわいそうだから、遅くなるからって。みんな、結っこをやったんだ。
だから共同精神はこの辺は、この部落は一番ね。お母さんの教育がいいから。親の背中を見て育つっていう喩えがあるんだもの。親がこうやってるから、自然にみて。教えるのではなく、覚えるんだよ。それにやっぱり体惜しまず動く人と、動かない人とは全然違ってくるよ。
昔からいうんだ。津波のときに、何か忘れ物してきた、って言って戻った人に、助かった人いない。「ほら、逃げよう」って言って逃げるのに、「薬持ってきてけす」って言う人がいる。なに、薬、取りに行くっていうわけさ。「流されて死んでもいいならいいけど」って言って、行かないで、そのまま車で逃げたから、助かった。取りに戻った人で助かった人いないって。
津波来るまでに何十分も時間あっても、このように人が亡くなっている。家に戻った人はみんな亡くなった。そして海岸でいろんな海の道具やなんか、確保なんかして送り出したひとは亡くなったし。船を沖に出すなら出す、置くなら置く、っていう決断を早くしないと。
私の孫もね、「船で逃げる」って言うから「船なんかつくればあるんだから、いらないから、船は沈めてもいいから車で逃げろ」って。
船に乗って、沖に出るのが遅くなって、その辺で津波をまともにくらって、沈没したら船ごと終わりでしょう。船で逃げたって、ここから沖合まで、30分も40分もかかるし、その間に、ホタテからワカメから一杯筏(いかだ)があるから。逃げてもあの島のあたりまで行ったころに波がきて、それで終わりです。津波が来たときに、船を出して逃げるということは、今後考えない方がいいから。たまたま助かった人たちの話は自慢話にならないから。それで万が一船で出た人がみんな津波にやられたらどうするの、って。
私は、震災当日、家から逃げたの。家内のばあさんは、高野会館(志津川の集会所。当日老人会が開かれていたが、帰宅できない多数のお年寄りが屋上で津波を被りながら一夜を耐えた)にいたんだな。
家で、私と息子夫婦と、女の孫と4人で、ワカメの芯をぬく作業をしていた。そしたら、大きな地震が揺れたのね。3人は地震と同時に作業場から田んぼに飛び出ていったの。ちょうどおやつの時間がくるから、3時だから作業場にヤカンかけたの。それがひっくり返ったり。私は地震の時はいつでもね、急に飛び出したりなんかすると、屋根からなにから、いろんなものが落ちてきて、けがする可能性が大きいから、作業場に最後までいた。そのうちに今度は電気が消える。そして地震がおさまってから外にでたら、そしたらほら、3人で田んぼに立ってた。そのうちに有線で「6m以上の大津波が予想される」って始まった。からって。近所の人に、「6m以上の津波がくるとそこまでいくから、ダメだから、車で逃げた方がいいぞ」って声をかけて、向かいの人に「なに洗濯物なんか干して、有線聞かないのか、6m以上の津波がきたらやられてしまうから、じいさん車に乗せて、早く逃げろ」って。そこ、寝たっきりのおじいさんがいるのね。その一声で洗濯物なげて、それで助かったの。
だけど、また一段高いところの奥に、私より2つ先輩の人たちが住んでたのね。ここまでは来ない、大丈夫だと思って庭で見てたの。1回の波で私の家なんかものすごい音がしてバリバリっと音がして壊れたので、驚いて見たときはもう、家はこれまでだった。そのおじいさんを隣の家の息子さんと後ろの山に引っ張り上げて、なんとかその時は助かったんだけれども、常に体が弱かったから。避難先の病院にかかって、こっちの仮設に帰ってきて、とうとう亡くなった。
今回の津波では、まさか流されるとは思わなかったけっども、近所の人の中には位牌を背負って逃げたり、お米もちゃんと高いところさ上げて逃げた人もあったんだ。チリ地震津波も経験しているような人、海岸の一番、川口にある人はいつでもすぐ津波来っと流されっから、いつでも逃げるように準備したたんだ。用心して、お金でも車でも持ってね、逃げたんだ。おらたちはちょっと離れてっから、なに、ちょっと大きな地震が来たと語ったって、流されっと思わない。戸倉のほうなんか奥手(海岸から離れたところ)の人は一家みんな流されたりしてんだ。「地震おさまったから、なに、お茶でも飲みな」ってお茶飲んでて一家みんな亡くなったというところもある。
ここから少し行くと大学の人が碑を建てた「波来の碑」って、ここまで波が来ましたよって、石が建ってっから。
私、いつも枕元に重要書類、土地の所有権とか、なんだかんだおいて、風呂敷に包んで準備してたんです。けど、なにも、逃げることで頭いっぱいで、それ持って、お金などは持たないで出たんです。逃げてくるとき、まさか家が流されると思わないから、また戻ってくるって思っていて、位牌も何も持って来ないで。一回サンダルで出たんだけど、これ履いてはどこにも逃げられないと思って、長靴に履き替えました。サンダルで逃げた人は大変ですよ。ああいうときは気持ちの方は急ぐから。運転できる人が3人も4人もいるのに、大きなトラックもあったのに、自分の車乗んないで、よその車1台にみんなで乗って、自分ちの車ほとんど流してしまったしね。それから小さいトラック買ったから、今は何するったって載らないからしんどいんだ。
近所の知り合いなんかは落ち着いていた。位牌なんか全部背負って来たからね。家の娘も、自分のお金はさておいても、部落の書類は流せない、って2階に駆け上がって、親父が部落の会計役でつけてる一切の書類を全部持って、来たからね。今銀行でも郵便局でも、通帳なくても、連絡すれば全部手続きできる時代だから。何千万のお金だから。部落のお金だから。保険に入って1年しか経ってなかったし。
私は「ささよ」が青少年の健全育成に貢献しているということで、旧歌津町長さんから感謝状をもらったこともあったし、旧歌津町で2番目の防犯実動隊って私たちの部落で作ったのさ。その副隊長までやって、防犯活動に尽くしたってことで、県警と山本知事さんと連名で感謝状を貰ったり、精神薄弱者関係の会長を3期やって、それを後の人さ譲って、今度は相談員になってから、車がないからバイクで町内をグルっとあるいた(出かけた)。今までいっぱいいろんなことやって、みんな感謝状あったけれども、なに、全部みな流した。そっくりね。
そういうのを並べて書いておいたら記念になるんだけど、そういう記録も残ってないからね。
今度、寄木仮設のすぐ上がり口に家を建てたんで、今度そこに入るんですよ。やっぱり、私は、このようになってみんな冗談言ったりするから、次に住むところは仮設のすぐ脇に並んでいるから、仮設のみなさんともしゃべったりすればいい。だから私もいつでも来るから、あなたたちも来てお茶のめ、って言ったの。引っ越しした人は来なくたっていいっていうことはいうなってね、今朝も語ってね、笑ってきたけれども。だけど、家を建てるのは最初孫たちも私も反対だったけれども、そのうちに寄木と韮の浜の両部落の人たちが40戸も、歩いて5分もかからない近くの高台に移転するようになったから、それならばいいんじゃないかってことで、私たちも納得して入るようになったんです。でなければ私も最後まで反対したのだけれど。
今どこでもね、坪単価が急に値上がりして、一坪70万。高いね。高台に建てる人もね、来年の年度末になれば整地始まるんだから、ちゃんと整地始まる前に大工さんを予約しないと、大工さんたちは、もう予約でいっぱいでね。ある大工さんなんて150戸も予約受けてる。だから高台だの、整地ができて家を建てるようになったから大工さんに頼むべ、というようなことでは遅くて、そういうことも頭にいれていて、誰かがどこそこに建てるとか言ってたら、「大工さんがっちり確保して、それから整地するようなことじゃないと、だめだぞ」ってね。そういう風にしないと、3年も4年も今度いつまでも狭い仮設に入っているようになるからって。
すぐに家を建ててすごいと思うかもしれないけど、私たちは海が相手の仕事だから、漁業さえ確定すれば、銀行から借りても払うくらいの金がとれるっていう自信があるからね。
子どもの数は、昔は20人くらい、昭和40(1965)年生まれの人たちが1年生か2年生の時には30人くらいはいたね。「ささよ」が歌津町の文化財に指定されるようになってから初めて、保存会っていうものを作らなくちゃならないからって言って、発足になったんです。昭和55(1970)年8月21日だ。「ささよ」を子どもたちに50年以上教えてきているけれども、保存会ができてからまだ20何年なんです。今は小中学生合わせて6人か5人か。
歌津町の文化財登録のことで役場に行った折に、「寄木さん、なにか「ささよ」の保存について考えていることはないですか」って言うから、「祭に使う太鼓のような物でもあって、他町村の伝統行事との交流を深めて子どもたちの健全育成につながればいいかと考えてる」と私なりに語ったわけだったのさ。「ささよ太鼓」と名付けて、残していこうと思ったんです。そして、役場の生涯学習課から、県の方に補助の書類を出したんだが、いっぱいでその年はダメだった。
次の年、ダメもとでもう一回出してみたら、採択になったのが、日本生命財団(現ニッセイ財団)。その当時の助成金額で私たち一番多くもらったんです。あくまでも太鼓の購入にあてるということで、1個買って20万円でした。けれど、「貧乏家で馬を一頭持っても、どうにもならない」っていう喩(たと)えがある通り、太鼓一個もらったってどうにもなんないから、部落でなんとか、その太鼓作ってくれないかって、話し合いが賛否を呼んで、「大金かけて、太鼓を作るもんじゃない」とか、いろいろ文句は出たけれども、最後は私に押し切られて大きな太鼓2個を買ってもらって、私が法被15着とのぼり旗なんか寄贈して、基を作っておいたんです。それから、長く伝えていたおかげで、気仙沼でも地域文化賞っていうのを頂いて、私が頂きに行ったり、地域貢献賞っていうのもらいました。
ところが、今回の津波で、部落のセンター(集会所)が海岸にあって、そこに表彰されたものも、法被やら何百万もする太鼓やら、全部置いていたから、津波で全部流してしまった。バック幕って、この辺のどの文化財の人たちでも演じる後ろさ幕入れてっから、「おらほでもこれ作っか。俺とあんだで寄付して作ったらええか」って寄付したのもあったけど、こいつだけ津波のあと、見つかったのさ。
付近の人たちね、「大きくなったら学校さ入って太鼓を教えてもらえると思ったのに、流されてしまって」って嘆いてる。もともと、70%の確率で津波来るよ、って言われていたから、センターを海岸に置くのは反対だったんだけども、宝くじの支援金だったから、期限があることで、急いだんだね。高台に山を崩して平らにすれば、いくらでもあったのに、時間がなくて、現状のところに、ということでつくってしまった。「あくまでも集会所なんだから、いいだろう」ということで。その頃私たちも、部落から引退してるから、「年よりがなに、余計なこと」って言われるから強くは言えなかったね。
それでも、震災後、JR(東日本鉄道文化財団の「歌津寄木ささよ整備事業」支援)から100万円寄贈されたんです。
法被は太鼓と歌とどうやら20着ずつ作ったし、今度の保存会の会長さんも、いろんなところ回ってなんとか寄贈されて、太鼓を準備できたようだし。
だから私のところにまた、「子どもにささよ太鼓を教えてほしい」って、1週間だか10日ばりしか期間がなかったから、津波前は楽譜みたいなの作ってたけど、それも流したから、3分の1の時間で何とか終わるように全体を切り詰めて、変わらかして(変更して)、なんとか恰好だけつけたんだね。ささよ太鼓の譜は、最初は「かわらや(屋号)」さんの息子さんに作ってもらったんだけっども、叩きよう(叩き方)が3種類しかないんだ。それをいかに組み合わせて格好よく、またみんながその音を聴いて「あっ!」と思うようにやるのが譜面の作り方なんだ。あとは、叩く格好をいかにも「太鼓叩いてるんだよ」っていうような格好に見せるにはある程度の練習がいるんだな。けどもとは真ん中さ「ささよの歌」を入れて30分以上かかったのが、今年は15分ぐらいに短い。練習時間も短くてやむを得ないから、それでもいいんでないかと。
私たちは、その後、「つつじ苑」っていう養護院に避難したの。狭いところにこうやって寝たけれども、畳の上に寝たから、まずはよかったのね。畳1枚か2枚に3人か4人くらいで寝たんです。おしっこで夜起きても、足の踏み場がないけど、暖だけはとれたからね。
女の人たちはかまどを作って、カマとかを拾い集めて、米は応援してもらってきて、そこでご飯を炊いたり、おつゆを作ったり、畑に行って、白菜とか野菜とってきて食べたりしたから、あそこでは良かったんだ。大きいカマがあるからそれにお湯をくんで、顔を洗うとか、なんかほら、寒い時だから、水じゃ大変だからお湯を沸かしたり。いろんなことをやったね。湯飲み茶わんとか探せばいっぱいあるから。洗えば、済むものだから。つつじ苑で助かったのさ。
でもやっぱりあそこに避難しても様々ね。朝ご飯つくらないで、自分の家に何かないかと思って、探しに行ったり、避難先ではろくな手伝いもしないで、ご飯出ればご飯食べて、また自分のものを探しに行って。そういう自分のことしか考えない人たちが何組もあったの。「かばねやみ(※宮城の方言で、本当はできるにもかかわらず、なんのかんのと理由をこじつけてなにもしないこと、またそういう人)」だね。私たちは箸(はし)もなにもないから、竹を切って、竹で箸つくって、そういう応援ばかりしてました。韮(にら)の浜の人たちにも何十本も箸を作ったら、「記念だから、しまっておく」って語った人もいたね。米だって隠しておいたの、すぐには背負ってこれないからって置いといたら、3日もたてば横から穴開けてかっぱらって食べた人もあったし。でもだいたい盗んだ人わかるのね。500円玉入れておいた貯金箱も4個流されて、1個あった~!と思ったら中身抜かれてね、他は拾われて見つかんない。
支援は医療関係の人たちは早かったね。そして3日目か、4日目か、長野からトラックで第1便来て、炊き出しやってもらった。その人たちが今度、炊き出しをしているうちに話し合って、話がすすんで、材料全部長野からもってきて、山に小屋を作ってもらった。
3月16日気仙沼入港予定だったんですが、3月11日に震災が発生したでしょ。その3日前ぐらいに大きな地震があったんですが、そん時は県の担当者から「津波もないし、みなさんの家庭は大丈夫ですから」って連絡が来たんです。だから、最初は「どうせ大したことないんだべ」って思ってた。でも、「横須賀にいる自衛隊の船が全部、東北に振り向けたみたいだよ」って周りの人が言っているのを聞いて、「これは大きそうだな」と思って・・。通信長が「メールが24時間使えるし、電話をかける人は電話かけてもいいし、とりあえず家庭とすぐ連絡とってくれ」って言うんです。
地震発生時は、船が震源地の後ろの方にあったから、震源地のそばにいた海上保安庁の船が津波に乗ったようなことはなかったです。津波に遭ってたら、海面が、どーんと上がったでしょうからね。日本の太平洋側だけじゃないんだよね、津波が来たのは。ハワイ島の方にも来て、小さい小舟がひっくり返ってたそうです。ホノルルなんかも1晩中津波の危険を呼びかけるサイレンが鳴ってたっていうもの。その後1か月ぐらいは、ホノルルの方も観光客は日本からもどこからも、まるきり来ないって言ってました。
3月11日、実習船は、日本に近づいていました。あと3日か4日で入れる位置まで来てたからね。でも、気仙沼には入れないし、行く場所ないし、連絡つかないし。電話をかけても通じない。船は3月の18日にあの神奈川県の三浦市の三崎港に入ったの。そこでとりあえず漁の水揚げをしました。
その後も、家にも連絡がつかないから、私は東京の妹んとこに電話して、次の日に、妹の旦那さんの方が三崎まで来てくれたんです。そのときに、彼に「現実を見てください」ってこう言われて、持ってきた衛星写真を見せられたの。「南三陸町は現在このような状況ですから」って、グーグルのやつさ。もう何もないんだもんね。あらーっと思ったのね。津波で流されて、町が無いにしろ、家族と連絡がつかないことが、やっぱり精神的に打撃が大きかったですね。ようやく連絡がついたのは、4月のはじめ頃だったと思います。自分の兄弟やいとこが「試しにかかるかな」と思って電話をかけたときに自分が出て、「こっちもガソリンも手に入んないし、道路も通行止めで動くに動けない。あと、避難所まわってみるから」とだけ伝えました。電話はそれきり来ないんです。バッテリーが切れちゃうと充電できないですからね。
動けない期間、ずっと沿岸に停泊させた実習船にいたんです。ご飯も食べられるし。いろんな人が船に来ましたよ。小泉進次郎、井上康生。横須賀海軍カレーとか、色々支援物資持って来てくれたけど、物資の代わりに、故郷に帰してくれという気持ちでした。
妹や親戚は、被災地と離れた名古屋などにいましたし、現地との連絡を取るにしても名古屋にかけてもしょうがないんだけど、情報を探ってもらうには頼むしかない。そうやって連絡を取り合ってるうちに、3月は電話代5万円も取られました。
三浦三崎港には、震災直後の3月15日以降、母港に帰着できなくなった水産高校実習船が次々と入港し、漁獲したマグロを岸壁で水揚しました。宮城県所属の『宮城丸』、福島県所属の『福島丸』、青森県所属の『青森丸』、秋田県所属の『船川丸』の計4隻でした。今年の1月下旬に宮城丸は石巻港を、福島丸は小名浜港を出港して、ハワイ沖合にてマグロ延縄漁業の実習操業と海洋観測に従事、帰港する途上でした。
津波のときは、伊里前から隣町の志津川に買い物にいくつもりで、歌津駅の待合室におりました。志津川は電車賃で200円の区間です。家内が3年間くらい寝たり起きたりしていた頃に、僕が炊事をしましたから、自分で調理ができるんです。なので、買い物のために志津川町まで行くのに、14時43分の気仙沼ゆきの列車に乗ろうと思って待っていました。すると「列車が始発から、点検のため15分遅れになっている」という案内があって、そのときあの地震がありました。
で、僕はチリ地震津波(1960年)、昭和8年津波(1933年)の体験がありますから、ホームというものは石を積んであって、プラットホームあって、屋根あって、高いもんですから、待合室からそこへ逃げようと思ったんです。そしたら女の駅員さんが2人来て、「山内さん、危ないから、ホームさ行ったらダメだ」って。僕は1週間に1回、多い時は2回くらい駅に来ていて、回数券を買うから、名前ぐらいわかるんですね。リュックサックを背負ったまま、両腕を女の駅員2人に挟まれて、屋外に出されてね、「早く外さ避難しなさい」と。そのうちにまたも震度7の大物の揺れが来て、電信柱がいかにも倒れそうになり、遠くで雷みたいな音が鳴っていました。この87歳が、もうタイルと舗装の上、地べたに這おうと思うくらいにすごかったんです。
そうして、みんな車を避難させる目的で、運転手ひとりの車が、数十台列をなして、次々に志津川高等学校の高台目指していくわけです。その中で、1台止めて乗せてもらおうと思うんだけど、車間距離が接近してるから、急に停めたら衝突してしまいそうでした。運転している人の中に知ってる人もちろんいないから、停められないでいたんです。そしたらね、お隣の人が「山内さん、早く乗らい(乗りなさい)」って。
お隣の菅原整骨院のお姉ちゃんが、自分の軽乗用車を避難させようと思って、自分だけ乗ってたの。隙をねらって乗せてもらいました。志津川高校まで歩いたらやっぱり4〜5百メートルの距離があったから、荷物を捨てたとしても、心臓も弱っていますし、体が持たなかったと思いますね。幸運にも乗っけてもらって、高台の志津川高校の屋内体育館に避難することができました。
津波が到達するまでは時間少しあったから、その高台から南の方向をみんなが見てるので行ってみると、津波が押し寄せてくるのが見えました。川を上る波が溢れて、こっちの方の道路とか、田んぼの方に流れて来ていました。もし列車がちゃんと来ていたら、少々の遅れくらいで発車していても、途中で脱線したりひっくり返ったりで、僕はおそらく死んでたでしょうね。
私は、満州引き揚げの前に日本へ戻り、そして東京大空襲の前に東京から田舎に引き上げてきていましたし、強運だと思いますね。
だから、大津波で死ななくて、肺炎なんかで死んではだめだと自分でも思ってるんです。
3月11日当日は、お昼食べて、家内と2人でいたんですよ。3月の中旬ですから、寒かったですね。揺れもでかかったし、長かったですが、家のなかは何も倒れなかったですね。玄関に出ると、孫が大事に飼ってた金魚鉢が倒れそうになってました。「これは津波が来るぞ、絶対来るから、逃げろよ」と家内に言い置いて、自分は車を流されてはだめだと思い、すぐ出して、歌津中学校まで持っていきました。一回車を置きに行って、「まだ津波は来ねえな。もうちょっと時間があるべ」と思って、自宅に戻って、寒いなと思ったから、ジャンバーだけ着て戻ったんです。何か持ちだそうと思えば、いっぱい持ちだせる余裕があったのよ。もう、だから、自分自身も甘く見ていましたね。こんな大きい津波が来ると思ったら、いろんなもの持ちだして、車に積んで逃げたと思うんですよ。いやあ、あとの祭りだ。
それでも、一番最初の町の防災無線の放送で、津波の高さが6mと聞いてたから「6mだったら1階の高さくらいまで来るんだろうな」と思って、ただ車のことだけ考えて、他に何も持たないで逃げたんです。「また帰ってくればいい、ここまで来ないだろう」って思ったの。家内も「まあ、また帰るわ」と家の中はそのままで伊里前小学校まで逃げたんです。だから2人でお互いに小学校に逃げたことは校庭で確認できました。だけど、そこも埋立地だから、前のほうが、地割れしていたんです。「地割れしたから前の方に行くと危険だよ」と言われたけれど、かなり裂けていましたね。
公民館のほうに家があったもんで、気になってね。
その校庭まで津波が上がったんですからね。ここまで水が上がったの。すごかったですよ。あっと思ったら一発でドシャーン。家は波がグワーーンと来て、瓦礫がバシャーンと来て、自宅の前までちょっと止まって、それからブワーッと一気に流されていきました。それはもう、水の量がどんどん、どんどん増えて行ってね。小学校の後ろにまた道路がありますが、みんなそこに避難した車を停めてたんですよね。最後の方は渋滞して、大変だったと思うんですが、それがみんな流されちゃったんです。それを見ながら、さらに高い所、小学校の上の中学校に逃げたんです。大変でした。ずっと見てたら私も流されているところでした。
伊里前小学校は、地域の避難所になっていたので、常に避難する訓練していたんですよ。私が思うのにはね、志津川もそうなんだけども、「避難所ですよ」と指定して、しかも訓練までさせて、そこに逃げたのに亡くなった人もずいぶんいるんですよね。この伊里前小学校だって、夜暗くて道がわかんなければ、ここに避難して来られなかった人もあったとおもうんですよ。だから、避難所の指定の仕方も甘かったのかな、想定外ですむのかな、と考えてしまいますよね。
津波のあと、3日も息子に会えなくて、私は死んだと思ってたよ。息子は志津川湾に船を見に行っていたときに津波が来たの。うちの船は3艘あったんだけど、ひとりで全部を見るわけにも行かないから、2艘はすっかり流されました。志津川湾の道路のところから見ていたら津波が来たから、上へ上へと上がって行ったの。
波が引いて、落ち着いてから、家があったところに私も行ってみた。地図も何も無いから、「おばあさん、全部流されたから行ってもダメだよ」と言われても、「まさか、そんなことねえべ」と思って本気にしないで行ったの。そうしたら、本当にトラックの底は抜けているし、乗用車はポコンとへこんでるし。家の中には、鍋2つに、まな板と包丁まではみんな見つかったけど、あとは何もかもなくなってた。近所の養殖ワカメの加工場があったところは、釜から、タンクから、スッポリと抜いたように流されて無くなってた。周囲には、顔にマスクをした人が大勢お金を探して歩いていたね。そんな風に探している人が大勢いるものだから、私たちもその場を動けずにいたの。
辺りは人も通れないくらい、滅茶苦茶になっていて、志津川からここまでたどり着くのに、普通なら30分もかからずに行けるところを、ぐるっと遠回りして、何時間もかけてようやくたどり着いたの。だから、息子も来られなくて当然だったんだ。そして、3日目にようやく歩いて来たの。車もなければ、着るものもなし、来る途中には、少し高台の細浦の交番に泊めてもらって、そこが一軒家だったから2階から布団を持ってきて、周囲の部落の人と一緒に雑魚寝して過ごしたって言うの。そこにしても、水も無ければ電気もつかず、食べるものも無かったんだね。
このあたりの人たちは、本当に夫婦で語るヒマも何もないくらい忙しいんだ。ヒマあれば働かねばならないし、あんたたちにはちょっとわからないでしょう。だけどそのくらい、農家というもの、漁師というものは、ヒマがないの。だからここいらの人は働き者だから、お金はいっぱい。心もいいし。だけども、この津波が何ほどだって、誰にもかなわないなあ。それが涙流れるほど悔しい。
昭和8(1933)年と、昭和35(1960)年のチリ津波と、今度の津波は3回目。昭和8年の津波でも、私は家も小屋もみんな流されたんだ。やっぱり今度のように雪が降ってね。
津波の前には志津川(南三陸町)に住んでいました。今回の津波のとき、息子は船に乗っていたんだって。地震が起きてすぐは息子も一緒で、今家が1軒残ってる、山の方の隅っこのほうに車を2台とも運んで避難しました。もう時間が無くて、たくさん蓄えておいた食糧も少ししか持っていけないまま、車に積み込んだの。まさかそこまで津波が来るなんて思いも寄らなかったよ。車を置いてから、息子は船を見にいくって行ってしまいました。長女も一緒に逃げて来てたけど、私には分からなかったけど、そのとき伊里前(いさとまえ)(南三陸町歌津)のほうから波がこっちに来てたの。そこから車で波に追いかけられるようにして逃げたよ。
途中で娘に「そこの農協のところでいいんじゃないか」って言ったんだけど、娘は「ダメだ、ダメだ」って言って、もっと高いところに逃げたの。船を持っている人の土地があってそこが平らになってたから、そこに車を入れさせてもらって。後ろを振り返ったら、田の浦(南三陸町歌津)の方から来る波と、伊里前の魚竜館のほうから来る波がぶつかって、まるでもう噴水! たった今通ってきた農協のところも、清水浜は一気に、すべてが流されてしまった。もう、すごい、すごい! 一緒に見ていた人のなかに「私(おらい)の家が流される!」って言っている人もいました。
一度波が引いたときに、うちの孫が波の様子を見てたら、誰かが走ってきて、周りをぜんぜん見ないで自分の車の方に行くので、「そっちに行ってはダメだから、いいから、行きましょう」って言って引っ張ったんです。危なかったんですよ。車はようやくそのへんに引っかかっていて、そこから通帳がぶら下がっていたのを取ろうとして落ちかかっていたんだね。孫が「助けて、助けて」と叫んだので、それを聞いた娘がそこに行ってその人を引っ張り上げたんだ。
自分の住んでいたところでは130戸も家が流されて45人もの人が亡くなったの。だから、流されてしまった部落のところを通ると情けなくて涙が流れに流れてしまうよ。この仮設住宅の上のほうに1カ月いて、鳴子温泉に行っていくらか体を休めてに1カ月行って来たの。そのときも息子は働かなくちゃならなくて。「漁協の方で今働かねぇと、クビになってどこさも行くところが無くなる」って言って、鳴子から志津川の瓦礫の中へ通っていたよ。2日ぐらい、志津川のどこかの家に泊まって、また鳴子に行って、行ったり来たり大変だったねえ。
地震の時は、私は家にいました。ワカメの季節だったので作業をしていたんですが、年寄りだからということで若い人たちが「休みな!」と言ってくれたので、家でテレビを観ていたんです。海は私たちの家から100メートル位のところです。地震が起きて、女房が・・・と思っても、立っていられないんだから。そのうちに、放送なんかでも6メートルの津波が来るという予報だったから、それじゃあとにかく避難するのが第一と、うちは4人家族だからね、まず貴重品を持って、車で避難所へ行きました。ウチのほうでは避難所というのがあるんです(細浦生活センター志津川字細浦23-11該当地域:細浦、西田)。部落の集会所に使っていたところです。
で、避難してみたら、第一波が来たら、この避難所も危ないよというので、また高台へ避難したわけです。だから、助かった。避難所は流されました。避難所は海が見えないところだったから、波が正面から来るところは見ていません。2回目あたりが一番大きかったのかな。水かさが上がるのはわかりました。私の家は、後から避難した高台からは見えるところだったので、流されたことはわかりました。片付けるもなにも、何もないんです。すっかり流されてしまいました。うちの方の部落は、ちょうど半分流れました。スパっと切ったように80戸ばかりある部落で37戸が流れました。