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震災直後、私は、(避難所になっていた)鱒淵小学校の夜のミーティングに毎日出ていました。向こうから「来て下さい」と言われたわけではありませんでしたが、地域の情報をどうしても交換したくて、毎日7時からの夜ミーティングに行ってお邪魔していました。そこにRQも出席していました。
RQに対しては、ここを拠点としていくならば、救援側対被災者・対避難者の関係だけに目が向いて、拠点とする地域の人たちとの関わりを大事にしないというのは間違いだと思っていました。事実、最初は地域の中には「RQって何だ? 早く出ていって欲しい」と思っている人もいたのです。だからこそ、私はRQの様子や避難民の様子が知りたくて、ミーティングに参加し、その様子を正しい情報として地域に伝えたかったのです。
震災後、4月3日に鱒淵に被災者が避難して来ました。鱒淵の住民は、「私たちは何をしてあげればいいのか」と浮足立ちました。この地域は行政頼みで、「言われれば動く」という慣習がありました。なので、被災者が避難して来た時も、私を含む近隣の4人の区長で話し合いをした時には、区長同志でも支援に対する姿勢に温度差がありました。私は「他の行政区に働きかけてみんなで協力して支援しよう」と言ったのですが、他の区長の中には「私は行政に従う。任せましょう。」という方や、「役場からお願いされたことをやればいいのでは」と言われる方もいました。そこで、私は自分でできる範囲でできることをやろうと決めました。先ほどお話した鱒淵小の夜7時のミーティングにも、そういった思いから通ったのです。
たとえば、私は「被災された方々が、ずっと何もしないで手持無沙汰でいるのはもったいないし、もともと農家の人たちが多いから、この鱒淵で共同でできる作業をしたほうがいいのでは」と思って、一緒に農作業をする提案をしました。トラクターで畑を耕す、肥料や種、ネギなどの苗木を一部もらったり、買ったりして、被災者のかたに農作業をしていただきました。
我が家では、長屋を片付けてミーティングルームを作り、そこには、私のささやかな小遣いで買い求めたジュースやビール焼酎、などを置いて「ご自由にいらして、お飲み下さい」としました。鱒淵小学校からミーティングルームまでは、いい散歩コースになっていて、ミーティングルームで一休みして帰っていただくのです。その中には避難民の方々の姿もありました。こんなふうに、今までやったことは私のできる範囲でやったことです。
RQとは時間が経つにつれ、「もらい湯」などのRQに対する支援活動が始まって、関わりが徐々に増えていきました。
地域のキーワード:RQ市民災害救援センター, もらい湯, 登米, 鱒淵, 鱒淵小学校
入谷で23日間お世話になりました。3月26日に役場から、「電気も水道もない状況では生活が大変なので、登米市、栗原市、大崎市に2次避難をしてもらえないか」という話がありました。コミュニティ単位でまとまったところから優先的に移動するということだったんです。世帯主の人に入谷小学校まで来てもらって話をしました。登米の鱒淵小学校を指定していたが、そこが当たるかどうか確信は持てなかったから、平行して独自に、登米市津山町にある旧老人ホームの跡地を借りるという話を理事長ともしていたのですが、結果的には登米市東和町の鱒渕(ますぶち)小学校(廃校になった校舎)に決まり、4月3日に移りました。
それから4か月間鱒渕小学校にお世話になりました。23日目に初めて白い茶碗で白いご飯を食べましたが、あの時の御飯の味は忘れられないですよね。町の人たちに対しては「感謝」の2文字しかありません。いずれ恩返しをしたいと思っています。助かった命は大事にしないといけないし、お世話になった人たちに対する気持ちも大事にしていかないと、人間としての価値はないと思います。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
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