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私は昭和32(1957)年10月28日、伊里前に生まれました。姉と妹が2人います。
実家は農家でした。父は農業の傍ら、海産物の行商をしていました。自分で獲るのでなく、仕入れて売るんです。農業の手伝いをさせられたこともあったけど、興味がなかったし、自分から進んではやらなかったな。
海が目の前にあるから、小さい時から海にはよく入っていて、ウニやアワビを獲ってました。
子どもの頃の遊びは、田んぼで野球やったり、昔はこの辺も寒かったから、田んぼに氷が張ったところでスケートしたり。
中学では体育の時間が2時間あると、冬は田んぼでスケート、春になれば山菜採りです。秋だってキノコ採りとかね。それだけのんびりしてたんだよね、うん。その頃の同級生とは、同窓会は40歳の時に1回やったくらいだけど、仮設住宅に結構いるみたいで、逆に今のほうがよく会うね。
中学では野球部に入ってました。震災後、息子がグローブとボール持ってきたんだけれども、息子はバシッとくるボールを投げるけど、私はゆるいボールしか投げられなかったですね。
私たちの頃はみんな男子は坊主が当たり前だったんですよ。野球部だろうが何部だろうが、関係なしで、全員坊主ですよ。
私が中学校に入った頃が、ジャージが出回り始めたときだったと思います。それまでは白いトレーニングズボンだったもの。今はジャージがポピュラーだけども、昔は町に行っても売ってなかったから、わざわざ遠くまで出かけて買ったんです。でもデザインが今みたいに華やかじゃなかった。草緑の上下1色で何もラインの入ってない、ファスナーもついてない、農作業するおばちゃんが着るような服だなと思いましたね。
11月から2月の頃、夜になると大人たちが拍子木もって『火の用心』やるんです。そうやって火まわりしだんだね。そこに行って遊ぶんです。一緒に回ったり。焚き火を一番する頃だしね。その時代は火をおこしていたのは薪しかないからね。私も大きくなって家にいた時は拍子木持ってやりました。今はそういうことしないけど。
また冬場の遊びで思い出すのは、ケンケンで戦ったりするのがあったな。
何人かで組んで「殴り込みだ!」ってケンケンをして(相手を)転ばせたら、自分の陣地の中に戻ってきて、最後に何人残ったから勝ちだというような遊びをしました。ジャンケンするような余裕はないんです。殴り込みといっても、本当に殴ったりはしません。
また、そのころはサッカーもやりました。5、6年になってくるとね。野球をやりたくてもバットもない、杉の木だの栗の木だのの枝をバットにするような時代でしたから。最近です。バットだのグローブだのあるのは。サッカーのボールは、今みたいなサッカーボールじゃなくて、ただの赤いゴムのボールです。その空気がなくなると自転車屋の空気入れで入れたんです。今みたいなサッカーボールなんてないですから。
野球だってグローブもバットもない時代です。お金持ちの家にはありましたよ。
スケートだって下駄スケートです。下駄の歯をとって鎹(かすがい)をやすりで研いて、それを下駄に打ちつけて下駄を履いてスケートしたんです。同級生で靴のスケートを持っている人は2~3人しかいず、金持ちしか買えない時代だったんです。スケート場は田んぼ。昔は寒くって30センチぐらいの厚さの氷が張ったんです。12月から2月ぐらいまではスケートできました。アイスホッケーもやりましたね。
後は竹スキーです。スキーなんて売っていないから、自分で作ったんです。ほかの家の竹やぶで竹伐って、竹の節に長靴を合わせて割って、後ろのほうに裂け目を入れて、雪に刺さんないように前をちょっと上げて。それだけでは飽き足らなくて、竹を長い状態で自分の背丈に合わせて竹を切って節を落として、そこだけくりぬいて長靴が入るように工夫したんです。開くよりも丸い分、スピードが出ました。中学校辺りは丸い竹スキー。わざわざ斜面があるとこに行くわけ。アイスバーンだからすごく滑って、怒られましたよ。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
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