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孫は背負って逃げました。雪が降って寒いから、毛布だけ被って。まさかこんなに(大きな津波が)来るとは思わないから、軽い装備で出てきてしまったもんだから、避難先で何にもなくて。雪が降って、マイナス5度か6度とかしかなくて寒かったので、そっちに行ったけどひと晩食べるものがあって、1週間あっちにいました。旦那と自分はあんまり食べないで、孫たちに食べさせていました。食べる物食べないでいたら、痩せた。15キロ。みんなスマートになりました。ダイエット(笑)。
孫が2歳ちょっとで、その上、3月16日に孫が生れたんです。お産も大変でしたが、孫のことで困ったのは靴でした。「靴がない、靴がない」って。下を歩くにも、自分たちは何も無くても平気ですが、寒い中孫たちにはかせる靴がないのが辛かったです。
午前中は天候はまだ良かったのですが、午後になって、雪が土砂降りのように降ってきました。着の身着のままの人は、もう寒さでブルブル震えていました。そこの老人センターに行ってもな、みんな寒さでブルブルブルブル震えていたんです。20日間お風呂に入れないで、みんなして、着の身着のまま。どうしようもなかったですね。
一番しんどかったのは、トイレです。「パンツに漏らしてしまったから、汚いのでもいいからパンツちょうだい」って人がいました。
掃除のこともつらかった。どこに行っても、誰もトイレ掃除をやらない。しょうがないから、私がトイレ掃除を引き受けました。こっちにいたときもずーっとトイレ掃除してたんです。やっぱりトイレ汚いとね。水くんで流してもらうようにしてましたが、自分でやってもそのままにする人が多かったから、大変でした。
避難所では、そこではとても強い態度で、物資も何も、全部自分たちだけで仕切ってしまう人がいました。あれだけは辛かったですね。年取った人なんか、物資をもらい行くのもやっとなのに、若い人と同じように並ばせられて、「ボランティアって、何のためにあるんだ」って、そう思いました。
あるとき、大判焼きを配っていて、足の悪い年寄りのために、その人の分まで貰おうとしたんです。そしたら「なんで1人で何個ももっていくんだ」と怒鳴るんです。ご飯があるんだったら、みんなで分ければいいのに。大判焼き1個ぐらいのことで騒いで、威張っていました。私は自分の分を返して、泣きながら抗議しました。食ってかかって喧嘩をしたんです。
あの時、みんな、この人たちには早く出て行ってほしいと願っていました。いいものは全部集めて取ってしまって。そういうのは泥棒と同じですから。みんな口には出さないけど、陰では言ってますから。来た物資のトラックも勝手に返してしまって、みんなで追いかけたこともあったんです。最後には誰もその人たちの言うことなんか聞かなくなっていました。
別のボランティアさんのおかげで、ここの物資が心配しなくてよくなったんです。初めのうちは、ここにいても、何ももらえませんでした。
仮設住宅にみんな移ってきたとき、私は家で一番最初に仮設に入ったんですが、米も無いし味噌も無いし、食べるものは一切もらえないんですよ。だから、身内のところを走り回って、食べ物をもらいに走りました。だけど、本当は物資はないわけじゃない、来てたんですよ。
この避難所となっている家は、平成22(2010)年の8月に建設したものです。その年の2月28日に起きたチリ津波のときに、歌津でも初めて大津波警報が出ました。そのとき、また大きな津波が来ると直感的に思ったんです。大津波警報が出るなんて72年の人生で初めてのことでした。町長の任期の間も、注意報の経験しかありません。あのときに、この家を建設しておいて本当によかったと、今になって思います。
私は平成の森の仮設が当たって、そこに入るまで、気仙沼の長男のところ避難してたんです。息子とお嫁さん、それと孫3人と暮らしていたんですが、6月1日にここに当選して、入ったわけです。だから体育館のような避難所暮らしはしてないんです。この仮設に住んでる人は、だうたいもう、ほとんど部落の近くの、はなしの通じる人達ですね。よその部落から来た人もいるけれど、だいたい部落ごとにまとまって入ってように思います。
私たちがいた避難所には小学生、保育所の方々、中学生高校生、地域の方々と幅広い年齢層の方が集まっていました。幸い、子どもたちは校長先生の的確な判断ですぐに避難して、1人も流されなかったのです。
その日、PTAの役員会があったことも幸いしました。避難所では、大人どうしが集まると、津波についてやっぱりしゃべるわけです、ああだった、こうだったと。そうすると、小学校低学年くらいの子どもが怒って「言うな」って言うんです。彼等も津波というものを自分たちの目の前で見たんですね。だから、大人がその話をすると耳を塞いで、「言うな言うな」って。
日本人として生まれて良かったと思ったのは自衛隊の人の来た時ですね。同じ日本人が助けに来て良かったと思いました。あとはアメリカ空軍の方々、あれには助かりましたね。ただ、言葉が通じないのが非常に残念で、英語も少し勉強すれば良かったと。食べ物は身振りで通じますが、避難所で「女性の下着がないから、なんとかして」と言われた時は困りました。アメリカ兵に「ブラジャー」と言っても通じなかったんです。それで、サイズを表すBのなんぼとか、Fのなんぼとか行ってみたら、「OK、OK」と言って理解してくれました。
米軍のヘリが救援物資を持ってくるのに、名足小学校の校庭にヘリポートを作って、そこに来た救援物資を、われわれの地区だけでなく、周りの地区にも分配していました。隣の地区の人が、自分たちの地区にヘリポートのHの字を描いたら、今度は米軍のヘリがこっちにまったく来なくなり、「隣に見に行って見っぺさ」と行ってみたら、隣の地区にばかり降りていました。物資がそちらに行ってしまったんです。そういうことがありましたね。
その救援物資は、食べ物も生ハムとかジャムとかパンとか、アメリカの人が食べるものだからさ、食べ慣れないものでした。それを半分ずつに切って。
うまかったなぁ。でも、来る日も来る日も、一生分くらいパンを食べました。それからカップヌードル。もう沢山という位で、あれから私はパンを食べていません。後になると野菜などの生ものも支援物資が来て、ありがたかったですね。
山に逃げて助かると今度は、地区の施設に行く途中に木の間に挟まっている人がいるというので、チェーンソー持って来て、切って助け出したんです。途中で2、3人の人を助け出したんですが、怪我をされていて、今でも助かったどうかは分かりません。まさに地獄でした。夜は、雪で寒かったですし。
自宅に戻ったのは翌日でした。
山を降りて道路に出ると、向こうからアメリカ製のジープのような車が来たんです。運転していたのはガタイの良い男の人で、「乗っけてくんねえか?」といったら「いいですよ」と言って乗せてくれました。
その人が「私たちも歌津地区に行こうと思ってたんです」というので、よくよく話を聞いてみたら、「坊主ですから」って。その方は和尚さんだったんです。ぱっと見ただけではそんな風には思えない人だったんですよ(笑)。歌津のお寺が流されたという連絡を受けて来たということでした。タイミングがちょうど良かったんです。
それで乗せていただいて自宅に戻ることができました。自宅は流されませんでしたが、浸水して、またいつ何時津波が来るか分からない状況だったので、家族は名足保育園の避難所にいました。私は津波が来る前の最後の電話で、女房に「慈恵園にいる」って連絡して、それから家族と音信不通になっていました。だから、慈恵園が流されたと知り、家族はもうダメだって思ってたんでしょう。避難所に私が現れて「おい」って言ったらびっくりして、「ああ、生きてたのか!」なんて(笑)。
そこから、避難所の方々も食べていかなければならなかったので、家が残った方がたのところに米があったから米を持ってって、食べてもらいました。白米は少なく、玄米の状態でしたので、昔の家庭用の脱穀機を引っ張り出してきて、それで白米にして持っていって食いつなぐ、という状況でした。
私は毎日のように朝早く避難所に行って、夜遅く自宅に戻って、という生活をしていました。みなさんの要望聞いて昼間は避難所に行って物資を運ぶなど、いろんな用件を受けていました。要望はいろいろありますから。ところがガソリンが無いですから、車を使うような要望には困りました。
一番困ったのは津波に流された方のご遺体が見つかっても、それを火葬場まで運ぶガソリンが無かったことなんですよ。自衛隊から、ガソリンがないから、ディーゼル車を借りようということになって、2トン車のディーゼル車があったわけです。乗用車のバンだと、1体ずつしか運べないけれど2トン車だと複数運べるのです。燃料は軽油です。
次はこの軽油をみんなでなんとかしようと。それで、トラクターなどの農機具から抜いて、車に入れて、ご遺体を運んで火葬することができたんです。それはほんとうに情けなかったね。花一輪ないんですから。何にもない。可哀想でしたね・・。
昔からの井戸が自宅の下の方にあったんですが、4月7日ごろの2回目の地震で、水質が変わってしまって塩っぱくなって、飲めなくなったんです。海のそばだから管に亀裂か何かが入って、そこから海水が入ったんではないでしょうかね。今はもう塩気も薄くなりましたが、当時は洗濯に使うと乾くと塩が出るほどでしたね。
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