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小学校は6年、中学は3年までで、高等学校には行っていません。兄貴は行ったけど。中学を卒業して家の手伝いをしても、お金は稼げませんから。漁船漁業に行きました。気仙沼です。その頃で、高校に進学するのは、全学年98名のうち20人位いたか、いないかくらいでした。あとはその頃は東京に就職してたね。
ちょうど集団就職が、金のたまごとして、もてはやされていた時代でしたから。
最初の1年はマグロ漁に行っていました。よく獲れました。釣り方は、延縄って、針と針の間、25メートルくらいあるんなぁ。針をつけて冷凍したスルメをかけたり、サバをかけたり、サンマをかけたりして釣るんです。餌は冷凍庫に入っているものを買ってくるんです。それをその冷凍のまま餌として付けるんです。マグロを獲っていたのは1年くらいだったかなぁ。マグロをやってるとお金にならなくて遊びに行けないもので・・・(笑)。
戦後の経済成長の頃、昭和34〜5年から、40年後半ですね。あの当時ですと、中学を卒業する子どもの40%ぐらいは家を離れて出ていきました。あとの40%くらいは進学し、20%は専門学校的なものへ行きました。地元には仕事が無くて、各家庭はあの頃は生活が苦しかったんですね。
それを見ている15~6歳の子どもたちが「このままでは家の人たちがかわいそうだから、俺が出てって、就職をして、働いてお金をとって、それを親に送ってやる」。そういう気持ちで40%の子どもたちは出てったんです。
そういう子どもたちは「金の卵」と呼ばれて、東北から上野に向かう蒸気機関車にいっぱいに乗せられていくんですよ。煙を吐きながら走る、夜行の汽車です。暑くなると窓開けますから、トンネルくぐると、顔見るとみんな煤だらけで、黒くなるんですよ。
私も同じ汽車に乗って子どものお世話をするのに付いて行きましたが、その時の就職列車の中は、いま思い出しても、子どもたちはよく生きて出て行ったなと思うほどでした。東北から夕方に出発して、夜明けに上野に到着するんですが、次々に駅に停まると何十人もそういう就職していく子どもたちが乗って満杯になっていくんですね。椅子は満杯で、すし詰めです。子どもたちは家から持たされた小さいボストンバッグを膝において、うたたねをしていました。
汽車が途中で何十分か停まるわけですよ。ここは駅かと思って見ると、駅じゃないんです。別の列車の通過待ちです。急行列車だのが行ってしまってから就職列車が通る。つまり暗い、駅でもないところで何十分か停まるんです。私もそうでしたけど、一睡もできないんですよね。
到着すると、汽車ん中までは仲間同士で「なあ、友だちで仲良くすっぺな」と、お話しながら来るんですよ。で、上野にでて、西郷さんのあの銅像まで行く間は、もう無言なんです。上野の西郷さんの銅像のまえに、県単位でみんな集められて、「あなたはどの会社」って分けられるんです。一緒に来た友だちは会社が違えばそこで別れるわけです。「じゃね、バイバイ」とか、そんなもんじゃないわけですよ。知らない土地に来たためか、かわいそうになってしまうような顔をしてるんです。
「誰それさん」って呼ばれて「はい」なんて出て行って、それきりで、別れてしまうだけなんですね。別れの言葉も簡単には言えないような気持ちだったろうと思うんです。そんな風に、上野に着いたとたんにもう、子どもたちはばらばらになるんです。誰がどこに行った、ということも考える余裕もないんです。「今から自分が行くのは、どこなのかな」「どういう会社に入るのかな」という不安があったんでないかなと思いますね。
その後、私は1週間くらいかけて、遠くの方に就職した子どもたちから順に会って、様子を見ながら声をかけてくるわけなんです。「がんばれよ、がんばれよ」「何か家にいい残すことは無かったか」って。「おばあちゃんがいるんだけどおばあちゃんが元気になるように言っててね」などの伝言を、帰ってきてから各家庭に行って「誰それさんはこういうふうにして、こういう会社に勤め、てこういう仕事をして、元気にやってるようですから」って報告をするんです。
その時の心情を新聞に投稿したものが残っています。「教え子に乾杯」っていう題で、集団就職をした子どもたちの境遇を書いたものです。中学校卒業して、すぐ集団就職をせざるを得なかった子どもたちがね、非常にけなげな気持ちを持って行ったんだ、ということを、今のほんとに贅沢な子どもたちに教えたいんですよ。今の子どもたちはなかなか理解できないですね。
ある1人の男の子は、アイロンを作る電気会社に行ったんですが、入社して間もなく、身体の調子が悪くなって会社で亡くなったんです。引率して行って送って帰ってきたころは元気だったんですよ。
私が入社後間もなく訪ねて行ったときに、とってもいい子どもでね、食堂で食べる時に出入り口にかかってる縄のれんを、脇のほうに引っ掛けてくれたんです。そうすると私は、縄のれんに邪魔されないで、行き帰りできたんです。そういう子どもがそういうことをやってね。あ、これはいい子どもだなあってね、思いました。会社の指導する人にもそのことを話して、「会社にいい力になる子どもだから、目をかけてください」って言ってきたんですが、間もなく亡くなったんですね。
その子どものお墓を見るとね、涙出るんですよねえ。家族のために、お金をもらって送るんだ、という気持ちで行った子どもなんだけども、それが果たせないまま死んでしまったっていうことで、だからかわいそうだなって思いますね。
集団就職した中に、今では兵庫県加古川市に生活をしている教え子がいるんですが、その子から手紙が来たんです。「家が貧しいから、私が中学校卒業したらすぐ静岡の方に行って、働きながら家に仕送りをする」と言って富士宮に行った女の子でした。その子は、集団就職のときに会社から評価されて、入所式の時に、何百人か、大勢の前で謝辞をやったんですよ。
しかも「私は高校や、大学にも入りたい」という希望があって、そういうルートがある会社を選んだんですね。そして短大まで出て、働きながら頑張ってやったんですね。いい旦那さんと一緒になりました。
今兵庫にいると、その子どもが手紙を書いてよこしたんですよ。「先生は、こういう方でしたよねえ。私が良い人間になったのは先生のおかげです」、というようなことを書いてくれた。手紙と一緒に、「先生これから寒くなるから風邪をひかないように」って、靴下を段ボールに入れて、これと一緒に贈ってくれたんです。
電話してみたら、私が元気だったって喜んで、電話の向こうで涙声は語ってました。彼女に津波で流された新聞記事「教え子に乾杯」のコピーを送ってあったので、その写しをもらうことができました。
その頃はみんな中学を卒業すると海へ行きました。収入がいいから、海へ出る。高校へは行かないんです。進学するのは、1人か2人でした。小学校4年生から海へ行って、ワカメを採ったりしているから、中学校終わって半年くらいしたら、もう海に行きます。4年生から海に行くってことは、もう中学校を終わるころには船酔いしない。だから、今とは全然違うんですね。
中学を卒業して私も海へ行きましたが、すぐには潜りませんでした。志津川に潜水で漁をしている人がいると聞いて興味を持って、そこで手伝いをしたこともあります。私が潜るのではなく、機械があってね、私は船でその機械から潜水して漁をする人に空気を送る役です(潜水器操業)。
17〜18歳頃に、漁協の参事さんと知り合いになりました。その彼が、「今度宮城県で、潜水の資格試験やるそうだ」って情報をくれたんです(注・職業として潜水器具を使用するには厚生労働省の国家資格「潜水士免許」が必要)。それで、行って、受けて、合格はしたんだけれど、免許の交付は20歳以上だって言われて、1年待って再受験して免許証をもらいました。
潜水士の免許を持っていないと、会社へ入っても保険が適用されなかったので、取っておいて良かったと思います。
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