文字サイズ |
結婚式の日は、祖父が商人をしていて、石越に宿をとったところが、たまたま髪結いをしてくれる家の人だったから、そのご縁で髪を結ってもらいました。その宿は、昔は子どもを教育する学校だったそうから、教養のある良家だったと思う。髪結いをしていれたおばあちゃんは、私の家に1週間泊まって髪を結ってくれたので、他の人より見た目が良かったかもしれない。美人ではなかったけれど、まだ若かったから、いくらか綺麗に見えたと思うよ(笑)。
そして白無垢も着たし、お色直しは仙台で借りた振袖だった。写真があればお見せしたいけど、津波で流されてしまったからね。
そのときは衣料切符(戦中と戦後、衣服を買うときには、現金に加え、衣料切符が必要だった)で買う時代だったから、決まった点数以上はもらえなくて、あまり買うことができなかったんだ。それで、わざわざ仙台まで行って、うちで獲れたタコを持って長町まで送ったの。呉服屋さんに行って3,000円出して、縞のつぎはぎした、袖は袖でまた別になっている着物を買ってきたよ。
写真の衣料切符は、衣料品を購入する際になくてはならないもの。当時は、衣料品の種類ごとに点数が定められていたので、品物を買う場合には必要な点数の切符を店で切り取り、代金と一緒に渡すことになっていた。
原則として1人に1枚が1年分として交付されたが、点数に制限があったので、お金をたくさん持っていたとしても好きな品物を好きなだけ手に入れるということはできなかった。(一関博物館所蔵)
私たちの当時の結婚式は、公民館結婚式というのが流行しました。
公民館で人前結婚式をして、そのまま披露宴をするんです、結構広いので。披露宴の料理は仕出し屋さんが来て用意するのがセットになっていたと思います。高島田でお色直しは1回ぐらいしたかな。
後は各家にほんとに近い人とか、親しい人がそこ終わってから家に読んでドンチャン騒ぎ(笑)。今と同じですよ。
結婚式はね、2回やりました。私の時代までは自分の実家と、嫁ぎ先と、別々にやるの。今はみんな実家も嫁ぎ先も一緒にしますけどね。
自分が1回実家でこじんまり結婚式を挙げます。嫁ぎ先でも、ふた座敷、宴会をします。お嫁さんが来る前に近所の人を招いて1回宴会です。その後、嫁ぎ先から嫁の実家に迎えが来ます。車でした。お婿さんと一緒に座って、そして、「はい、家の娘を嫁にあげます」ということで、もらわれていきます。
その頃は気仙沼から歌津まで、道路が舗装されてないから、ガタガタガタガタ揺られて、1時間半かけて、乗せられて来ました。そのまま嫁ぎ先で今度は結婚式を親類、ほんとに近い人だけで3日くらい盛大にやるんです。朝から晩までです。嫁に来るほうはそんなにお金はかかんないんだけど、もらうほうではすごくかかったんですよね。
結婚式の食べ物けっこういいものでしたよ。歌津のだんなの家では、100何キロのマグロ1本買って準備してました。本人だけは食べられないんだけどね(笑)。3月だからまだかなり寒くって、周りに大ぜい知らないひとが沢山いるし、お小水に立ちたくなったら困るからって、あまり食べないようにしてました。大変なんですよ。
女の子って損だよね。全然勝手の分からないとこにお嫁に来るし、相手の家族になんてその日まで会ったこともないんです。あんまり構ってはもらえませんでしたね。私なりに世の中歩いてきたから、いろんな人を見てますからね。こう最初は、人をよく見て、喋らないようにして、(相手の人となりが)分かるようになってから喋るようにしてました。全然、ひとつも、本当に分かんないから、よく観察はしましたね。だから、最初バカになってね、バカって言われてもいいと思ってました。
この辺は田舎だから、結婚式や葬儀もいろんな取り決めがあるんです。まさか急に親父がそんなことになると思っていないから、親父にもどうするかなんてあまり聞いてもいないし、年配の人にしたってきっちり覚えている人は少ないし。外野席は一杯いるけど、きっちりと葬儀を仕切れる人はいなかったんですよ。やり方がわからなくて、批判されました。その時自分で苦労したからそれ以降、従兄弟たちに恥をかかせないようにいろいろ教えておきました。
私のような3代目になると、かなり親戚が増えるから大変なんです。冠婚葬祭も3代分の付き合いに渡ってやるようになります。1代目の関係する人たちは、全国に出ているわけです。八王子にも親戚が3軒あるんですよ。普段は連絡をとらないけれど、そういう時の連絡は間違いなく来ます。全部、礼を欠かさず、冠婚葬祭の誘いには行きましたよ。
親父の病気が見つかってからの10年間は、女房もそうだったと思いますが、ものすごくハードでした。よく乗り切れたと思います。それもね、兄弟が多いから支えられたんだと思う。私の兄弟6人に親父の兄弟は10人いましたし、一人仙台空襲で昭和20(1945)年に亡くなっていますが、その他はみんな所帯を持ってるんです。2~3人の家族で、あの状況を乗り切れるかっていったら、無理だったと思います。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
結婚した人は漁師だね。支那事変(日中戦争の勃発)があって、昭和12(1937)年から戦争が始まったの。その頃は召集令状なんて、そんなに来なかったのね。昭和18~19(1943~4)年の頃は、男の人はみな召集令で戦争に行ったんだよね。私が昭和18(1943)年の春に嫁に行ってからすぐだけど、おじいさん(ご主人)も招集されて中国に渡りました。
おじいさん(ご主人)とはお見合いも、どうもこうもないの。結婚が決まった時には、どんな人だかもわかんないの。この人は船に乗って沖に行って、いなかったんたんだな。結婚が決まってから、結婚式まで、相手に会ったことなかったの。本当だよ、あんたたち笑うけど。親が決めんだもの。そんで、「いらね(いやだ)」って言ったらば怒られるしさ(笑)。親は怖いし、「どこさ出やれ(どこかへ出て行け)」と言われても行くとこもないし(笑)。
結婚式で会った時にはどうもこうも思わないね。前から顔だけは知ってたの。家が遠くでないからね。その前にちょっとは見かけたことはあったけど。話はしたことないよ。話は全然しないよ(爆笑)。好きも嫌いもなんとも思わない。仕方ないからねぇ。年が10も違ったのよ。だからさ、時代だのなんだのも違うしさ、合わないの。そんなに違うのを知らないで、嫁に行ったのよ。結婚前は相手が若く見えたんだ。あれ、そんなに違うなんてわかんねかったんだね。
結婚式は、着物で、つのかくしもして、支度はみんな家でやったの。黒い紋つきの着物でね、その頃は記念写真も何もないの。
結婚式の時は、かつらではなくて、自分の髪で高島田を結いました。今は年をとって髪が薄くなったけれど、元は髪もあったから、髪結いさんに来てもらって、自分の髪で結って振袖を着ました。旦那さんは羽織袴です。ご親戚だとか兄弟だとか皆集まって寄って、うちうちでお餅をついて、それが一番のごちそうでした。昔はホテルでないからね。
Please use the navigation to move within this section.