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馬の手入れはね、蹄(ひづめ)を守るのに、蹄鉄(ていてつ)ってやつ掛けんのさ。蹄鉄やってる「金靴(かなぐつ)屋」は米川(よねかわ)か津谷(つや:気仙沼市)にあんのさ。こいつだけは自分たちではできないから、米川の「三浦」っていう金靴屋まで行ったのね。そこに行って馬の爪を削る、そして鉄を赤く焼いてて、こいつを馬の蹄さ、おっつけるわけだ。すると形ができっから。固定するのに、端の部分さ長い釘3本ずつ打つわけ。だいたいそれで半日かかんだね。行って、1時間ぐらいかかって。そういう時は山越したんだね。
金靴屋は馬専門だよ。それくらい馬がいたってことだね。地駄引きだけでなく、薪(まき)だ、炭だと馬が背負って、駅まで、どこまでって馬車で行ったんだ。
木挽(こび)きって山で木を切る人は別にいる。木を切るときは、のこぎりを手で引くんだ。例えば、1つの会社の製材所があって、4~5人の木挽きがいる。それから山から切った材木を出す人。あとは車に積んで工場に持ってく人。だから当時は1つの会社に何組もの仕事がこの地域にできたわけだね。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
米作りでは自分のところだけでなく、他人から田を借りて5~6ヘクタールもの請負耕作をしました。その当時トラクターはなく、テーラーという耕運機で畑を耕したものです。牛も5頭飼って乳搾りをしたり、「上台ファーム」の自動車を買って、木を伐って炭を作り、それを車に乗せて仙台へ売りに行ったり、タバコの栽培もしましたし、養蚕もしました。ドジョウの養殖がいいと言ってやっていた時期もあります。いろいろ挑戦して、ほとんど失敗ですよ(笑)。
昔は石油なんか無かったでしょ。あっちの町場の人なんかは、ご飯炊くんだって、燃料にするのに毎日薪拾いに来たんですよ。だから、みんなが山にはいるから、山は昔わりと綺麗だったの。この辺では広葉樹で冬場の仕事の木炭を作ったというのがあったんですが、杉は1回植えてしまうと、炭を作るには向いてないので、でっかくなるまでその山には入らないんです。たまに間伐で入るくらいなもんでね。みんな山に行かないから山は荒れ放題なんです。
実家は農林業でした。炭を作るんです。山の木を切り出して、窯に木を仕込んで焼いて、できた炭をちゃんと梱包して製品にして、ここらへんに出荷してました。当時はいっぱい炭が売れたから、それが我が家の収入源でした。
夏になれば、刈り払い、下刈りと言って、植林後の山に雑草が伸びてくるから、それを刈る手入れが必要だった。冬は冬で炭焼きの仕事があり、年中働いてましたね。
その日、私は志津川で議員の仕事をしていました。地震の大きな揺れがおさまって、時間を計算しながら、あそことあそこが越えられれば大丈夫と・・。車で家に戻りました。
震災後は、電気が止まってしまいましたが、薪ストーブと炭炬燵が役に立ちました。元はかんちゃんのお父さんが炭窯をやっていたんですが、震災でできなくなってしまったので、今は志津川の入谷地区で焼いたものを買っています。1袋2000円くらいかな。温かいんです、炭は。遠赤外線ですからね。暖をとることができて、助かりました。友だちが冷凍庫を持っていて、停電で溶けてしまうから、魚とか加工したものを「食べてくれ」と持ってきてくれたりもしましたね。
あと水は、全く汚れの無い川の水、それをポリ容器に入れて、従兄弟と交代で汲みました。まず、「水を汲ませてください」っていう多くの方が来たので、水槽をきれいにして、そこからバケツで汲めるようにしました。燃料が手に入ってからはポンプアップで汲み上げ出来るようになりました。
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