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昭和17(1942)年ごろ東京を引き払い、こちらに戻ってきました。
1年間漁業協同組合に行って、そして小学校国民学校の今でいえば、代用教員の「助教(じょきょう)」に任命されて、月俸28円を頂くことになりました。
教員生活は、戦時中の昭和18(1943)年4月1日、地元伊里前の国民学校から始まりました。昭和31(1956)年まで勤めたんですから。13年間いました。それから同じ町内の、家内の出身学校の名足小学校、そこに11年いて、昭和42(1967)年に、去年廃校になった荒砥小学校に赴任し、そこに4年間いて、最後は志津川小学校に8年間いまして、昭和54(1979)年の3月に辞めました。
教職時代で一番嬉しかったのは、代用教員の「助教」から正規の「教諭」になったことでしたね。それまで数年かかりました。また、その後昭和34(1959)年ごろ「小学校教諭一級普通免許状」というのを貰いました。短大を出ても2級免許状しかもらえないのです。もちろん、長い期間かけて、大学の講座とか公開講座とか、あるいは宮城県教育委員会主催する講座とか受けて、単位を取ったのです。その時の2つは嬉しかったですね。
養殖といえば、牡蠣の養殖で志津川は有名ですが、あれは大きな処理場が必要なので、私たち細浦ではできません。その地域、地域で、向き不向きがあるので、南三陸町だからとか、志津川だからと言って、皆が同じことをしているのではありません。
志津川というところは、日本で最初に銀鮭の養殖をやったところなんです。銀鮭養殖発祥の地です。その時に、一番最初に養殖に成功したのが、もう亡くなりましたが遠藤昭吾という方です。私たちも銀鮭の養殖はやりました。それに、私は62歳から18年間6期、漁業組合の理事を務めたので一切合切がわかります。80歳まで理事をやりました。銀鮭の養殖が始まったのは、昭和52年だと思います。
銀鮭が良い時は、漁協も黒字だったんです。最初は、1キログラムあたり千円台で取り引きされたんです。値段が良かったの。養殖をする人が少なかったから珍しかったんだね。北洋で獲れる銀鮭が志津川で獲れるんだもの。最初は稚魚も一定の価格でした。
銀鮭というのは、最初は山で、海で育てるんじゃないんです。100グラム前後になった時、10月頃持ってきて淡水で育ったものを海水に慣らします。大体3日くらいかかります。そうして、今度は海の生簀に入れて、餌を与えます。その頃は、餌も安かったんです。
皆が養殖をやるようになって、稚魚も高くなり、餌もバカにならない・・・、そのうち鮭の値段が下がってきて、割が合わなくなってきて、結局は事業として成り立たなくなってきた。成り立たないだけなら良いんだけど、大きな負債を抱える人が出てきたの。経営は個人だから、あくまでもね。結局は何千万円も負債を抱える人が出てきたの。施設にも、稚魚にも、餌にも、経費がかかるでしょう? それで、保険制度というのができたわけです。漁協ではなくて、もっと大きな保険会社が募集する水産関係の保険に入るようになったんです。
協同組合は中学卒業の前からずっと父が入っていました。親父の代に協同組合法ができてから、組合が3回名前が変わったんですね、最初が『歌津全町漁業協同組合』合併してから『歌津漁業協同組合』今度が、『宮城漁業組合歌津支所』とね。組合組織作るのに、頭数が100人なら100人集まらないと組合が成立しない。そんで最初の歌津全町漁業協同組合の時は、120~30人集まって作ったのかなぁ。その時におやじが組合に入ったんです。
私が組合に入ったのは親父が亡くなってから。昭和53年です。相続をして。それから父親のあとを継いで海の仕事をやりました。そのあと農家はスパっと辞めました。海の方に専念しました。農業でなく、海の仕事を継いだのは、自分の努力でなんとか食べて行くのに良いと思ったからです。どこに行っても仕事がない時代でしたから。そして、自分でワカメ採りを始めたんです。畑はそのまま荒らしておきました。もったいなくもないです。
海苔とワカメは朝採りに行くんです。自分の代からは養殖をやってて。海には自分の領分でやります。
海苔はこのへんだと塩釜に委託して、種を網につけるんです。冷凍網って言ってそいつを冷凍しておいて、11月に海に流すんです。そうすると海の中で育つんです。そのころ結構このへんに海苔を作ってる人がいました。漁協組合ができたときに作った、何千トンっていう大きな共同の冷凍庫がありましたから、みんなその冷凍庫に置くようになりました。冷凍網が3000箱~4000箱入るような冷凍庫でした。
海苔の方は、塩釜で種をつけて直接もってきて、あと冷凍庫に入れるんです。冷凍海苔ってその頃は主流なんです。いま、宮城県の海苔も半分は冷凍の海苔です。 秋、芽をだして、そのままほかしてやるのと、 その収穫が終わると、今度は冷凍したものを出して網の張替えするんです。1年中、ヒマないんです。松島のへんでやってますね。松島の海苔や明石、千葉だって今はどこでも冷凍網じゃないですか。
私も自動乾燥機を買ってみたり様々なことやってみたけど、今は海苔を一切やっていません。
銀鮭をやったこともあります。みんなこの辺の人は銀鮭でおっきな穴(赤字)をあけたんです。財産売った方もおるし。私は、なんとか努力して、財産に手をつけないでやめて良かったです(笑)。
海の仕事は農作業の合間にするんです。8月今頃はちょうど、ワカメの開口も終わるころ。5月6月から8月にかけては天然ワカメの開口、ウニの開口で忙しくなってくるんですよ。
開口は、漁業組合が決めるんですよ。採るものの育ち方もみて、海が平らな日を選んでから、「あしたは天候がいいから、ワカメの開口」って、毎年のように連絡をするんです。そうすると、地元のみんな、朝早く、3時ごろから起き出して、船に乗ってワカメ刈りに行くんです。採る場所が家によって決まってるとかはありません。「あのへんはいいワカメいるんじゃないか」と狙いをつける場所は、その人によって違うんです。
私はおじいちゃんにつれて行ってもらってやったんですよ。上手でした。ワカメは草刈りガマでなくて、竹の先にカギをつけたものです。
海面下3メートルか、深いとこで5メートルぐらいのところでワカメを刈るんです。学校は開口になればお休みします。「明日は開口だから休みます」って届けて。学校の方でもそのことをわかってるからね。小学校6年生くらいから開口の日には手伝いに行きましたね。開口のためにしょっちゅう学校を休んでるじゃないかって?戦争当時はね、食料もなく、食べるのが大変だから(問題にならない)。開口の前の日に、明日はアワビの開口だからということで、名前を書いてくるんですよ。開口に行かない人は休めないですよ。開口に行く人だけです。行かない人は学校に行くんです。
ワカメの養殖は被災したけれど、この19日にね、面接があって、本当に養殖を再開したい人は、場所与えてくれるみたいです。一応はワカメの種付けてて、来年はみな共同でやりたいけど、1回にはできないですよね。全部用意すると、何千万もかかるので。それでも旦那はやる気でいるね。
収穫量の見込みは、海が汚れてるけど、状況はいいみたい。畑でもそうだけど、海が底からかき回されて栄養が海の中に出ているらしいです。だから、今まで養殖を10台やってたところが、5台ぐらいで、今までの量ができるって、大学の教授が来て言っていたらしいです。
問題は、現金なのね。今まで漁協に貸しがあったんだけど、現金だから、どの程度やるかが問題です。養殖をやったら何百万もかかるからです。漁業組合では、物を売るのは現金取引ですが、そのお金が後から戻って来るけど、何年先に戻ってくるかは分からない。そうなってくると生活もあるし。
資金は漁協にいちおう当てがありますが、この後、来年か再来年からは、個人で養殖するのは個人がお金を出すことになります。補助は出るけど、国でいつ補助を出すか、2年先か3年先かは分かんないんですね。だから、先に自分でお金を払っておかないと、仕事ができないんです。ここは漁協じゃなくて、個人で払うんです。会社組織にすると、やっぱりあまり良くないって言う人もいます。
早くみんなに家を建ててもらいたいですね。そして漁業に復興してもらいたい。
歌津はここはアワビ漁が有名なんです。だから1日も早く、いくらか後で払ってもいいから、早くアワビ放流して、アワビ養殖でまた盛り上げていきたいですね。ワカメ、牡蠣、ホヤ、ホタテ、あとウニ、ここはほとんどそれで食べているので。それから、大きな船も要りますね。今みんな焼いて無くしてしまっているから、そういう人たちも働きに出るようになればね、良いと思います。国だって、私たちが税金払えるようになればいい思うんですよね。私らの考えはこうです。
とにかくここは、漁業が復興しないと、収入は上がんない。働くことが大切だね。第一に漁業の復興。あとはいいんです。
父は専門の漁業をしていたわけではありませんが、漁業権は持っていたから、開口とか、ハモ釣りとかには行っていましたね。漁業権もいつのころからかわかりませんが、漁業協同組合を立ち上げて、農家の人たちを漁師さんのようにして、漁業権を与えたんです。漁業権がなければ、開口の日にアワビなんかを獲りに行けないですからね。たいていは、半農半漁ですね。海あり、山ありだから。
その頃はみんな中学を卒業すると海へ行きました。収入がいいから、海へ出る。高校へは行かないんです。進学するのは、1人か2人でした。小学校4年生から海へ行って、ワカメを採ったりしているから、中学校終わって半年くらいしたら、もう海に行きます。4年生から海に行くってことは、もう中学校を終わるころには船酔いしない。だから、今とは全然違うんですね。
中学を卒業して私も海へ行きましたが、すぐには潜りませんでした。志津川に潜水で漁をしている人がいると聞いて興味を持って、そこで手伝いをしたこともあります。私が潜るのではなく、機械があってね、私は船でその機械から潜水して漁をする人に空気を送る役です(潜水器操業)。
17〜18歳頃に、漁協の参事さんと知り合いになりました。その彼が、「今度宮城県で、潜水の資格試験やるそうだ」って情報をくれたんです(注・職業として潜水器具を使用するには厚生労働省の国家資格「潜水士免許」が必要)。それで、行って、受けて、合格はしたんだけれど、免許の交付は20歳以上だって言われて、1年待って再受験して免許証をもらいました。
潜水士の免許を持っていないと、会社へ入っても保険が適用されなかったので、取っておいて良かったと思います。
ワカメの開口はだいたい年7回くらいですね。今日やって、明日もというわけにはいかない。天気がよければ2日続けてということもありましたけれど、だいたいは間をおいて、天候と潮の加減をみてから、次の開口日を決めます。ワカメを刈るには、潮が引いてる時の方がいいですね。
朝、満潮で行っても、そのうちに潮が下がるから、そこで採るんです。ワカメ刈りにかかる時間は、だいたい2~3時間くらいですが、船がワカメで満船になれば、陸(おか)に帰って行くんです。船にいっぱいに積んで帰って、あとはそれを干す時間が2日ぐらいかかるんですね。生のワカメだから、今度は刈ってきてそのままだと表面が乾燥するから、家へ帰って来たらすぐ、海岸の砂を取ってきて、砂でワカメをくるんでいくんですよ。表面が乾燥するのが早いですからね。そして1本ずつ(余分な水分を取るために)干すんですよ。
干す場所は、海岸の空いてる所がほとんどワカメを干す場所になるんです。海沿いの道路の何百メートルがワカメ干し場になるんです。場所は特に決まってない。空いてるところはどこでもいいんですよ。喧嘩にならないですよ、町内ならば、どこでもかまわないんです。夕方干したのを集めて、次の日また持って行って干して、2日くらい掛かる。クキなんか、なかなか乾燥しないですからね。
干したものを、砂で揉んでおきます。そうすると、漁業組合から「何月何日に集荷します」って連絡があるんですよ。そして漁協に納めるんです。
歌津が村だった頃は、私(おらい)のおばあさん(お母様)は、寺子屋っていうところに通っていて、4年で終わり。学校に4年生までしか行かない時代です。ずっと前さ。私らの生まれる前のことです。明治生まれだものおばあさん、今生きてたら100歳超えてますよ。
寺子屋のあった場所は、今の歌津町の漁業協同組合のあったところで、組合が寺子屋の土地を買ったの。あそこで勉強したんですね。
小学校は後からできたんです。最初は雄飛小学校というのがありましたが、それが無くなって名足小学校っていうのができた。だれも名足を「ナタリ」とは読めねえべ。初めでの人は「メエソグ」「ナアシ」と読んで「ナタリ」とは読めねぇべさ(笑)。
父はいわゆる半農半漁で、小漁(こりょう)でした。だいたい私の生まれた所はね、小漁が専門でね。私たちの孫の代くらいからかな、おっきな船にのったのは。そのころは船も機械ではなかったから、ちっちゃい手漕ぎ船で漁に出ていました。獲りがきの(獲ったばかりの)魚を食べて育ったのね。そのころは、小漁をするどこの家でも、大きい魚とか、大きいアワビはね、漁協に売りに出して、売れないようなちっちゃいのを家で食べたの。10人全員でご飯を食べる時も、自分の分の骨は「あんたはちっちゃいから」なんていって取ってはもらえないの。みんな同じように自分で食べるんです。そして私も一生懸命、もくもく食べたんじゃない?(笑) だから今でも骨取って食べる小魚が大好きなの。
お米は家では半年買わなくても良いくらい、自分の家の田んぼから収穫していました。自分の家で食べるための田んぼもあれば、畑もありました。そのころはみんなそんなでした。
兄は学校が終わる(卒業する)までは小漁をしてたんだが、あと、学校終わってからは遠洋漁業に出てね。マグロとか、カツオ船とか。家を離れているのは、昔はそんなに長くなくて、3カ月とかね。あんまり遠くに行く漁船には乗んないで、まず、普通に手伝ったりしてね。兄は家督を残して結婚したら家を出たので、1人抜け、2人抜けってだんだん家にいる人数は少なくなって行って。
2番目の兄は婿養子に行ってね、子どもが2人あったの。それがね、宮城県の主導する宮城丸(水産学校の教育用の船)に普通の船員として乗って行ってね、戦死したの。米軍の魚雷が当たって、「轟沈」でした。5分以内に沈めば「轟沈」っていうんだってね。昭和19(1944)年の話です。いま、自分が結婚して、婿養子に行った先の義姉が30代で未亡人になったが、かわいそうだったなと思ったね。それで、義姉のところに、着る物とかなんとか、いろんなものを送ったのを覚えてるね。
ただ、その頃は夫が死んでも、田があり、畑があり、自分の家で食べるくらいは働けるわけね。それから漁業に出て魚を獲ってきて売るとかね、食べることにはそれほど事欠かないし、ぜんぜん財産がなければ、いっぱいある家に手伝いに行くとか、そうして暮らしたんです。兄の子どもが、今では「おばさん1人だ」っていうわけでね、ホタテ養殖をやってるから、私のところにホタテを持って来てくれたり、いろんなものを持って、この急な坂を上がってきます。巡り巡ってねえ。
その頃のご飯はお米と麦を混ぜた麦ごはんでした。麦ごはん食べたいねえ。あれで育ったんだものねえ。
そして学校にもって行くお弁当のおかずってば、「今日は何入ってるかなあ」なんて、そんなこと思わないのさ。必ず、味噌。梅干し。そんな程度で卵なんて見たことも無かった。
学校に行く途中に、行政書士さんのお家があってね。そこの家ではね、卵を割った殻を盆栽の上に載せておくんです。って、横目で通って見たの。その頃は「ああ、この家で卵食べてるんだなあ」って思って通ったもんだ。嫁に来たら、この家ではニワトリ飼ったんだって。だからお爺さんが、「ああ、卵なんて見たこともなかった」って私が言うと、「はあ、卵なんて食べたこと無くてここ来たのか。卵なんて他人にあげるくらいあったんだ」って言われました。そんくらい、卵って貴重なものだった。
この辺りは戦争終わるあたりから、何にも食べ物なくてね、こんなに今太ってしまったがね、当時は細くて、おなか周りを日本手ぬぐいで縛れたもんですよ。
食べ物はつくしの里の方から小鯖の海岸まで倉庫があって、そこでお米の配給があったのさ。10人の家族はこのくらい、5人はこのくらいって、お米の通帳(米穀通帳)渡されてね、それを持ってきて、お金と交換です。そしてお米も、トウモロコシも、お砂糖も、何でもかんでも配給されて、食べ物はなくてなくて困ったの。
魚は獲れても、漁協の方で集荷してお金にしたわけ。配給のものを買うためにね。とにかく人が寄れば食べ物のお話だったのね。「家では昆布を拾ってきて、雨にさらして真っ白くして、乾かして臼でついて、こんまく(細かく)してご飯に混ぜて煮る」とか、「大根の葉っぱ食べろよ」、とか「サツマイモの茎を食べる」とか、「イタドリ(すかんぽとも呼ばれ、茎は酸味がある)を食べる」とか。とにかく、食べ物の話しかしなかったのね。そう、大変な時代を超えたの。
昔は、まずお肉なんて食べない。魚だけ。よそ様からメカ(メカジキ)をいただくと、「あ、今夜はライスカレーだ」って。メカでカレーやったの。どっかの船が港に入れば、必ず魚を頂くと。うちの船が入れば、よそ様へあげる。やったり取ったりしたもの。魚は全部自分でおろしましたよ。カツオとか、サンマ、イワシ、なんでもそういうのを加工しに働きに出てたから、だから魚は何でも捌ける。工場に男の方がいっぱいいるの。自分で獲ってきた魚をいっぱい捌くんです。みなさんお茶を入れている間に、「ここから包丁入れるの、こうやって」って、教えられるの。男の方に教えられたんです。
だから、最近になって、お刺身買うようになった時はね、「昔は魚なんて、刺身なんて買って食べたことなかったのになぁ」とね、そう思ったよね。店頭に並んでるお魚は、一味もふた味も味が下りてん(落ちてる)のね。どうしても。獲ってきて、すぐお店に並ぶわけでないから。そういう感じがあります。うんうん。
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