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ところが今度の津波は正直言って、まったくの想定外。このへんはいわゆる断層がないもんで、「直下型の地震はない、仮に直下型の地震が起きても、はるか100キロか200キロの沖あいに起きるのだ、だから、この辺がつぶれる心配はないんだ」と信じていました。地震保険にも入ってなかったんですよ。いやいや・・。
それから、いつか必ず津波が来るから、その映像を記録に残そうと思って、カメラとビデオはいつも充電してあったのです。なのに震災当日、地震があんまりでかかったから、カメラも、ビデオも、もって逃げるのを、すっかり忘却してしまったんですよ。
姪の方が商売やってたんだけど、それが今度の津波で行方不明になってしまっている。見つからないまま、こないだお葬式やって、迎えた新盆です。このお団子はね、昨日お墓に供えるのに作ったときに、家で食べるようにも多めに作ったものですよ。
姪の車から髪の毛がみつかったんだけど、髪の毛というのは、毛根がないとDNA鑑定ができないんだと聞きました。先っぽだけじゃ駄目らしいんですだよ。利府に200体だったか、身元がわかんない人がある、って言うんだけど、探しに行ってもDNA鑑定も何もできない。だけど姪は携帯電話を持ってるはずなんです。
さっきまで、お巡りさんが探しに来て、その辺りをかき回していたところへ、「骨ばっかりになっても、携帯電話持ってるかもしれないから、よく探してください」とお願いしておきました。
車に積んでたグランドゴルフの道具がね、唯一の持ち出した家財道具になってしまいましたね。それでも、カメラとビデオは忘れてきたんだけど、うちの家内は「非常用持ち出し」っていうのをまとめてあって、そのなかに通帳とキャッシュカード、いろいろな土地の権利書やなんかをリュックにいれてあったのを、土足で2階にあがって、持ち出しておいてくれたんです。なくても預金は下ろせたでしょうけど、面倒なことになっていたと思いますねえ。
チリ地震(昭和35年、1960年)で津波が来たときも、町の中心あたりでも床下浸水が少しあったくらいでした。だから、「ここは津波など来ても大丈夫」って思っていたんです。そのまえにも、十勝沖地震か、2メートルくらいしか来なかったんだけど、養殖の網が被害を受けたんですよね。
誰が設定したのか、このあたりには、6m90cmの高さに全部印がつけられました。「津波が来るかもしれないから、これ以上の高いところに登りなさい」という意味です。ところがね、浜の方にもね、同じように6m90cmの印をつけてるんです。港とか、馬場中山、田の浦なんてところは、すでに当時でもう12mくらいの津波が来てしまうことがあって、そのために何百人と死んでいるに関わらずです。
後日、このあたりの津波の有志以来の歴史を、自分の手でぜんぶ書いてみたのです。県の土木課から、津波の浸水の高さと、津波で亡くなった人のことなど、全部訊いて、津波の記録・被害写真・亡くなった方の名簿を一冊の記録にまとめて作ったわけです。
実は、チリ地震の時に、私はこの被害状況を20枚近く、全部一人で撮影していたのです。町内でその記録してたのは、私ひとりだけだったので、報道するときは、私の写真をみんな使ってました。小学校、中学校の生徒が、うちに昔の津波の様子を聞きに来た時に、写真や記録をみんなに見せました。
この避難所となっている家は、平成22(2010)年の8月に建設したものです。その年の2月28日に起きたチリ津波のときに、歌津でも初めて大津波警報が出ました。そのとき、また大きな津波が来ると直感的に思ったんです。大津波警報が出るなんて72年の人生で初めてのことでした。町長の任期の間も、注意報の経験しかありません。あのときに、この家を建設しておいて本当によかったと、今になって思います。
私も津波の前には、小泉の地区の歴史についていろいろ調べていたんです。東北の葛西家っていう偉い殿様がおったんですけど、『葛西四百年』っていう資料を書いた学者で佐藤正助(ショウスケ)さんという方がおられます。志津川南三陸町の歴史の非常に詳しい方で、津波でも無事だってことは聞いていました。
地域を丹念にあるいて、見つかった墓石の上に書いてある字を読んでいくことが大事だとおっしゃってるんですね。見ていくと、いろんなところに石があるんですね。昔の石ですから、綺麗に字が見えない場合が多いんです、それを読むのが大変だったそうです。山に行くのに、ぶつけたあとのいっぱいあるようなオンボロ車に乗って各地を歩いてるんですよ。
津波のはるか前にですけど、その佐藤正助さんに、「小泉の歴史は何も無いからおれが行って応援するから調べろや」と言っていただいたこともあります。ですから、そう言う小泉地区の歴史を読み返していかないと、ここは津波でいろんな貴重な資料がだいぶ流されていると思うのでね、なんとかしなければとおもってんですけどね。私の家にも沢山あったんですけど、何にもなくなってしまって残念の極みです。
小学校に入るころ、親父が栗原の隣の瀬峰(せみね)の小学校に転勤しまして、そのとき私もその小学校に入学しました。その後、小学校3年生の頃、親父は仙台に転勤し、私も仙台の長町小学校に転校しましたが、ちょうどそのころに父親が病気になって、夏休みには小泉に帰って来たんですね。
そのころ、前から夏休みになると、母親に連れられてこの小泉で遊んで行ったものです。そのころの小泉のイメージは、自分で画用紙にクレヨンで描いた海水浴場のものなんです。夏休みなるとしょっちゅう遊びに来た、思い出の多い赤崎海岸の絵です。
たぶん、小学校1年生頃に描いたと思うんですが。その海水浴場は水平線があって、下の方に松があって、すぐ近くに矢倉みたいな飛び込み台があって、そこに人が1人立ってて、1人が中間で逆さになって飛び込んでる姿、もうひとりは飛び込み台の真下に居て万歳している。子どもの絵ですから遠近法って言うのはないんですね、物理的に不可能な絵です。
津波の前ですが、その絵を子どもたちに見せたんですよ。「何でこんな絵描いてるの?」って言われました。この絵は、小泉の家の蔵の2階の方に包んでしまってあったんです。
思い出の海岸は、綺麗な海水浴場があったんだけども、今はもう、津波で松林もありませんし。白砂青松ってことばがあるんですけどね、その海岸もいまなくなってだいぶ海が深くなってきてますよね。小泉の人間として非常に情けない、そういう気持ちですね。
もう一つ、画用紙にお祭りの絵を描いたものがあったんです。地面を描いて、神社を描いて、そこに打ち上げ花火が描いてあるんですね。ああ、これは神社のところに花火があったんだ、小さい頃は八幡神社のお祭りのときには花火が上がったんだなあと思いだしましたね。子どもにも「お父さんが小さい頃にはこう言う風な花火があったんだよ」ということを教えてやったりしたんです。
一番大きい孫は、気仙沼の船のエンジンを直す会社で働いていました。気仙沼の鹿折(ししおり)という所です。津波が来て夜に火事になった所です。いや〜私、死んだと思ったんだー。だって、海と道路一本隔てただけの会社です。後は堤防があるだけ。
「津波が来るから早く逃げろ〜」って会社の上の人に言われたんだけど、パソコンで、ここに何千万円っていう会計があって、自分には責任があるから「これ、どうするんですか?」って。「そんな物いいから、逃げろ!」って言われて車で逃げて、まだ2年目で気仙沼の市内はそんなに詳しくないから渋滞に巻き込まれて、空いてる方へ行ったらお魚市場に出て、そこの屋上も津波の避難場所に指定されていたから、車を降りて駆け込んで・・・。危機一髪で助かったそうです。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
津波に流された日は、ちょうどマツモの開口日だったの。午前中はマツモを採りに海へ行っていました。それと、銀行から100万円を下ろしてあって、孫の車の保険をかけようと思っていました。
海から帰って来て、寒い日だったから、コーヒーを入れようとしていた時に地震が来ました。ワゴンで逃げたから、トラックも、せっかく採ったマツモも、100万円も、全部流されてしまいました。
鉄道の鉄橋があるところからちょっと手前に田んぼがあって、国道45号線の橋があるでしょ? その橋の下から津波が来たの。津波っていうのは、下がモジャモジャになってくるのね。1回目の津波が一直線になって来た時、私たちは幼稚園の上まで避難していました。そこから見ると、ナイアガラの滝みたいになって真っ白になってダーッて寄せてきたの。
でも、堤防もあるし水門もあるから大丈夫、ウチの手前は線路もあるんだから・・・って。そうしたら、そんな物は一つも役に立たない。水門もなにも、その上を越えて、線路も越えて、大きな波だったんだね。1回目で郵便局が流されました。
そうしたら次にウチのトラックが流れて、「あれ、なんだ?」って思ったら、ウチの船が流れて、その次の波が来たら、1度目の波で下が洗われてるから浮いたんだろうね。歩道を作って1年、立派な歩道だったんです。歩道は壊れないで、波がその歩道にバーンって当たってウチの2階の屋根を越えていったの。その勢いで、浮かされた格好になってウチも終わり。その波で小泉も全部終わり。
幼稚園に避難していたんだけど、ここも危ないから小学校へ行けってなって、小学校へ行けば中学へ行けって。もっと上へ上へって逃げました。今、上の方に家の残っている辺りまで逃げました。
中学へ戻ると、中学生の孫たちが地域ごとにプラカードを持って一生懸命やっていました。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
昭和35(1961)年のチリ地震津波のときは、家にいなかったんで、経験していないんです。その時は用事があって、おっかあの実家の岩手の東山に行ってたんですね。家は大丈夫でしたよ。海面から家までの間が高さ3メートルぐらいあったからね、すれすれまで津波は来たけど、大丈夫だったんです。
明治29年の津波の話はおっぺさんに聞いてました。その頃は、護岸工事なんか全くしてなかったから、みんな海岸に家を建てていたんですね。だから津波で歌津村では800人くらいは亡くなったようですね。家も270か280戸くらいが流出したんです。おっぺさんはそのころ若かったから、海岸の桑畑があったんだけど、そこの桑の木の、太い幹の上の方に登って助かったって話もききましたね。
昭和8(1933)年の津波の時は、明治の津波の事をみんな聞いてたもんだから、家の前に石垣をずうっと造ったものでした。伊里前地区は石垣をみんな高さ3メートルくらい作っていましたからね。だから、あんまり被害がなかったらしいんです。伊里前は亡くなった人がただ一人だって聞いてますね。ただ、歌津町の外れの、浜の方の、工事しないで石垣も何も無いところの家が60何軒、流出したという事もきいています。
チリ地震の津波のあと、その石垣をコンクリで固めて、さらに3メートルくらい高くした、その防波堤が今回の津波でみな取れてしまって何もないんです。
明治29年の津波のあと、みんな高いところにいったんだけどね、家の実家があったところは、大体海岸から25メートルぐらい上がったとこなんだけどね、それでもそのへんまで波が来たんですよ。今度の津波で。だから25メートルくらいの高さがあったんですね。
やっぱり年寄りから津波のことは昔からいろいろ聞いてました。直接おっぺさんからも「津波あったら、高いところ、早く逃げろ」ってね。今度の津波でもね、船がもったいないからって、いったん逃げたんだけど、また、ロープを持って、船を縛りに戻って、2人でもって流された人が近くにいました。
3月11日は志津川の高野会館の3階で、老人クラブの演芸会があったんで、それを見に行ったんですよ。ちょうどもう終わる頃に地震が来たんで、会館の職員がね、「津波来るから、どこさも逃げてはダメ、出てはダメだ」っていうわけです。だけどね、やっぱり逃げた人もいるわけです。
残った30人は、3階にいたから4階、屋上に上がりました。上がった瞬間にそこまで波が来ました。そして、屋上のさらにその上に機械室があったので、細い階段を上って、そこにみんなで入って行ったんです。
狭いからね、座ることもできないで立ちどおしなの。機械室に水が来て、電気が切れてしまったから、冷たくてもう大変。ずぶぬれだからね。足踏みしたりして、それでも、自分の足に全然、感覚がなかったんですよね、もう、自分の足だか、何だか・・・。頭が痛くなってくる、体は・・もう、どうにもしようがなかったんです。
もう波は一度で終わりではないんですよ、行ったり来たり何回も来たんです。7回ぐらいは来た感じがしましたね。一晩中いて、朝になって、昼も過ぎて、食べ物もお水も何もないまま、そこで過ごしたんです。どこも逃げるところなんてないんです。瓦礫で一杯で、歩くところもなかったんです。
まさか家が流されるなんて、思ってもみません。赤崎の方に1回目、2回目と津波が来て、3回目の津波と言うんでしょうか、その次の波が町まで入ってきて、その波で、ウチの脇の物置に入れてバイクとかがスポーンと出たんです。おばあちゃんのラクーター、息子が去年買った50ccのバイク、おじいちゃんのバイクも、ものの見事にスポーンと「あ、流れた」って感じでしたね。その後、鉄道の上から津波が落ちてきた。
テレビでも映してたよね? 高いところから落ちてくる力ってあるじゃないですか? その落ちる力と、45号線の橋と橋台の間から上がってくる水と両方で、ウチは家の基礎をベタコンって全部コンクリートで一つになっているやつだったから、そこから家がまるごと浮かされた感じになったんです。
「えっ? 家が浮かされた。流れてる」って。おじいちゃんもおばあちゃんも、「こういう時は泥棒が来るから家を見てなきゃ」って、「ふ〜ん」って見てたら、「あ、ウチの船、流れてきた」って。「きゃー」とか、そんな声を上げる余裕は無かったですね。
それで、私たちが見ている場所も危ないから、車を置いて逃げるように言われたんだけれど、親は足が痛いから、最後でいいから、とにかくみんなが行った後から車で行こうって、途中で歩けないおばあちゃんたちも拾って小学校まで行きました。それで、そこもダメってなって、もっと上の畑に車を置きました。
おばあちゃんたちは一度車を降りたんだけど、とても寒くていられないと思ったから、車の中に入ってもらって、私が外で様子を見ていました。あの時、軽トラだったらどうにもならなかったでしょうね。軽トラも土手の下の方にコロッと落ちたところまでは見ました。まだ見つからないですね。
この歌津にはね、天保年間(1830〜1843)の津波も来てたの。大きな津波だったから、私たちが住んでいた海岸には、その天保年間の津波の石碑があるの。田束山(たつがねさん)には「波かけ」という名前の場所があります。ここまで波が来たことを示すんだね。
明治29(1896)年の津波(明治三陸津波)のことは、親から直に教えられたの。
その津波ではね、私(おらい)のお爺さんが1人生き残ったの。それはなして(どうして)かというとね、そのお爺さんは、夜のうちに沈めておいた網(「流し」漁という)を、魚がかかるころに櫓をこいで船で捕りにいったの。昔はイワシでもなんでも夜のうちに網を流して置いたの。となりのお爺さんと2人で行ったんだって。
魚を獲って、今度は家の方へ漕いで帰ってきたら、とっても良い物ばかりが流れて来たんで、最初は珍しいから、それを船にみんな積んだんだって。だんだんに漕いで帰って行くと、渚あたりで人の泣く声が聞こえた。「ああ、こりゃ津波が来たんだ!」となって、拾ってきた物を船がら全部投げ捨てて、その人を乗せたんだって。みんな津波で死んでしまって、「流し」に行ったお爺さん、隣のお爺さん1人、うちでも1人生き残ったと、お袋から教えられたの。津波のとき、沖は津波が来たのが分からなかったっていうんだから。
明治三陸津波ではたくさんの人が亡くなったんだねぇ。葬るのに、火葬になったのは最近だから、墓を掘るのにあんまり沢山の人が亡くなったんで、避(よ)け避(よ)け掘ったんでねぇかなあ。
私たちの先祖つうのは侍だという伝説があります。負け戦だか何かで、へんぴな所に逃げできたんでねえの。その侍の鎧も兜も、槍も全部、明治の津波で流されたの。
3月11日の地震の日は、その前に3カ月ほど、血小板が足りなくて高熱がでたり震えがきたりする症状で、入院していました。その時から足が不自由になってしまったの。痛いから注射したりしてね。
地震が起きたのは退院してから1カ月も経たないあたりだったね。茶の間にいたところで地震が来た。家の瓦がガラガラって音立てて落ちてきて、たまげた(驚いた)でば。外に出られなくなった。
家は本格的な母屋づくりで、阿部井組という腕のいい大工に頼んで、44年前に建てた、良い材料で建てた家だったんです。普通、瓦は7〜9段で作るけっども、化粧瓦を12段で作ってたんです。赤瓦で、みんなが真似たんだ。柱には松やひのきなど自分の山の木も使っていて、あんまりたくさん材木を集めてたんで、材木屋と間違われたりしました。どこも手を入れる必要もなくて、しっかりとした造りの家だった。家の中には中廊下があり、どこの部屋も通らずに行き来ができました。ずっと綺麗なままで、伝統的なつくりの家をわざわざ見に来る人もいたんだね。そこを4年前に、トイレやお風呂などの水回りや襖などにお金をかけて、バリアフリーに直したばかりだったんです。
ばんつぁん(奥さま)は兄の家に手伝いに行っていて、帰って家を見たとき、潰れてしまったと思ったって。
津波の来る少し前から雪が降ってきました。ドーンという鳴り物が2回起こり、20分ぐらいして津波が来たんです。知り合いの若いお姉さん2人が足の悪い私を迎えに来て、家から高いよその畑まで連れて行ってくれた。
この津波で、石浜神楽の踊りでずっとお姫様(娘役)をしていた人は、隣のお爺さんだったの。ところが、今回の津波で流されて亡くなったの。お姫様っていうのはユルくねぇ(簡単じゃない)からね。ちゃんと稽古するからね。振袖を着て女役をやるんで、普段も股を開かず歩く人でした。