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明治の津波

ここではね、津波で流されたっていうのは、明治の末あたりで。だけんど、ほとんど家流されたという被害はないのね。昭和の津波なんかもちろん、私たち昭和8(1933)年の津波は実際に見てっけっども、ほとんど、家流されたっていうのはここ少ないんだべ。

ただ、明治の津波とは、もとの私の家の、あのくさや(草葺きの家)の家で、玄関はいって、土間になってる中を、波が来て大きな石がごろごろ行ったり。それでも家は流されねえで。被害はほとんど無いんだけっども、歴史的には、先祖が昔からここに住んでいた「元屋敷(もとやしき)」がこんな海岸にあった、とかという話はあるね。ここ寄木は昔から、家の戸数は増えなかったけんども、天然の漁港としては歌津町としては昔から一番良い。

そのために、こういう「ささよ」も残っているんだと思うんだ。漁師としては、他の部落より、みな秀でた漁師たちが多かった。それが、こういうので伝わったんでないかと私なりには感じてんだけどもね。

「波静か ~われは海の子~」畠山吉雄さん[宮城県南三陸町歌津寄木]昭和2(1927)年生まれ

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3.11被災

今回の大津波でなぜ私が生き延びたか。それは孫に助けられたからなのです。

震災の直前、2人いるうちの小さい方の孫が「爺(ずん)ちゃん、温泉さ行って、1週間ゆっくりつかっておいで。お母さんと一緒に12日に迎えに行くから」と言ってくれ、私は鳴子中山ラドン温泉に行き、安閑としてお湯につかってたんです。ところが11日にあの大地震があり、温泉宿も行ったり来たりになったんです。10日の晩には58人の宿泊客があったんだけれども、もうみんなちりぢり、ばらばらに帰ってしまって、残ったのは私も含めて4人だけになりました。テレビで津波の様子を見たのですが、まさか家族が亡くなっているとは思わなかった。

当時戸倉の部落には98戸の家がありましたが、今回の津波で残ったのは高いところにあった1軒だけで、52人の方が亡くなったのです。一家で5人も亡くなった家もありました。うちでも、前日の10日、小さい(ちゃっこい)方の孫が岩手県一関市の昭和病院から、母親の顔が見たいからと戻って来ていたのですが、2人とも津波で流されてしまったのです。また、姉は同じ戸倉の西戸(さいど)というところに嫁いでいましたが、今回の津波で、姪と一緒に亡くなりました。そして祖父が書き残した記録は流失してしまったのです。

私も、迂闊だったなあと今さらながら後悔していますが、「ここまではどんなことしたって津波来ないよ」ということを孫に言っていたのです。「来たらば逃げろ」ということは言わなかったのです。これは私の一番の後悔です。

亡くなった孫たちのためにも、私はこの祖父から受け継いだ慶長津波の伝承をなんとしても町役場に届けなければ、死んでも死にきれない思いなのです。

「戸倉路のつたえ ~語り継ぐ津波の道標~」西條實さん
[宮城県南三陸町志津川戸倉]昭和7(1932)年生まれ

寄木の地名の言われ

この寄木(よりき)という地名は、台風でたくさんの木がここの浜さ、全部寄り上がって(打ち寄せられて)山になってたと。その前に、田束山(たつがねさん)ていうのがあるんですけど、あそこに住んでるお坊さんがお寺を造りたいということで、ぐるっと諸国巡ったらしいんだね。そんでたまたま通りかかったら、ここの浜さいっぱい、木材が寄り上がって、それを使って、大きいお寺を建てたんだね。ぐるっとその、木を使ってお寺を建築したっていうそれで、寄木いうような地名が。だから家の流されてない、半分ぐらいまで奥はもと海だったんだ。長い年月にだんだん陸(おか)になって、家が建つようになったから、また今後の津波でさらわれてんだ。

この部落でさえ、今度高台さ、移転するんですけども、そこの少し手前の山に、ここの寄木部落で一番先に、住んだ侍、落ち武者なそうですけど、その敷地があるのね。平らになっていて、土台にした石だなんかが残ってる。だんだんに時代が変わって、海で生活するようになってきたんで、山の方から浜まで通うとひどい(体が辛い)というような恰好(かっこう)で、そこからちょこっと行くところから、神さんあるんだけっどね。そこへ引っ越してきて生活したんだ。高いところだから「上(うえ)」ていう屋号がついてるんだ。昔(いにしえ)の人たちもさすが、津波ということには頭を入れて、高台に住んだんだね。今度の津波でも、本宅までは行かなかったけども、蔵のあたりまで波が来たって。昔からの家訓として守って、今度の震災にも助かって。

「波静か ~われは海の子~」畠山吉雄さん[宮城県南三陸町歌津寄木]昭和2(1927)年生まれ

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3.11被災

昔からいうんだ。津波のときに、何か忘れ物してきた、って言って戻った人に、助かった人いない。「ほら、逃げよう」って言って逃げるのに、「薬持ってきてけす」って言う人がいる。なに、薬、取りに行くっていうわけさ。「流されて死んでもいいならいいけど」って言って、行かないで、そのまま車で逃げたから、助かった。取りに戻った人で助かった人いないって。

津波来るまでに何十分も時間あっても、このように人が亡くなっている。家に戻った人はみんな亡くなった。そして海岸でいろんな海の道具やなんか、確保なんかして送り出したひとは亡くなったし。船を沖に出すなら出す、置くなら置く、っていう決断を早くしないと。

私の孫もね、「船で逃げる」って言うから「船なんかつくればあるんだから、いらないから、船は沈めてもいいから車で逃げろ」って。

船に乗って、沖に出るのが遅くなって、その辺で津波をまともにくらって、沈没したら船ごと終わりでしょう。船で逃げたって、ここから沖合まで、30分も40分もかかるし、その間に、ホタテからワカメから一杯筏(いかだ)があるから。逃げてもあの島のあたりまで行ったころに波がきて、それで終わりです。津波が来たときに、船を出して逃げるということは、今後考えない方がいいから。たまたま助かった人たちの話は自慢話にならないから。それで万が一船で出た人がみんな津波にやられたらどうするの、って。

私は、震災当日、家から逃げたの。家内のばあさんは、高野会館(志津川の集会所。当日老人会が開かれていたが、帰宅できない多数のお年寄りが屋上で津波を被りながら一夜を耐えた)にいたんだな。

家で、私と息子夫婦と、女の孫と4人で、ワカメの芯をぬく作業をしていた。そしたら、大きな地震が揺れたのね。3人は地震と同時に作業場から田んぼに飛び出ていったの。ちょうどおやつの時間がくるから、3時だから作業場にヤカンかけたの。それがひっくり返ったり。私は地震の時はいつでもね、急に飛び出したりなんかすると、屋根からなにから、いろんなものが落ちてきて、けがする可能性が大きいから、作業場に最後までいた。そのうちに今度は電気が消える。そして地震がおさまってから外にでたら、そしたらほら、3人で田んぼに立ってた。そのうちに有線で「6m以上の大津波が予想される」って始まった。からって。近所の人に、「6m以上の津波がくるとそこまでいくから、ダメだから、車で逃げた方がいいぞ」って声をかけて、向かいの人に「なに洗濯物なんか干して、有線聞かないのか、6m以上の津波がきたらやられてしまうから、じいさん車に乗せて、早く逃げろ」って。そこ、寝たっきりのおじいさんがいるのね。その一声で洗濯物なげて、それで助かったの。

だけど、また一段高いところの奥に、私より2つ先輩の人たちが住んでたのね。ここまでは来ない、大丈夫だと思って庭で見てたの。1回の波で私の家なんかものすごい音がしてバリバリっと音がして壊れたので、驚いて見たときはもう、家はこれまでだった。そのおじいさんを隣の家の息子さんと後ろの山に引っ張り上げて、なんとかその時は助かったんだけれども、常に体が弱かったから。避難先の病院にかかって、こっちの仮設に帰ってきて、とうとう亡くなった。

今回の津波では、まさか流されるとは思わなかったけっども、近所の人の中には位牌を背負って逃げたり、お米もちゃんと高いところさ上げて逃げた人もあったんだ。チリ地震津波も経験しているような人、海岸の一番、川口にある人はいつでもすぐ津波来っと流されっから、いつでも逃げるように準備したたんだ。用心して、お金でも車でも持ってね、逃げたんだ。おらたちはちょっと離れてっから、なに、ちょっと大きな地震が来たと語ったって、流されっと思わない。戸倉のほうなんか奥手(海岸から離れたところ)の人は一家みんな流されたりしてんだ。「地震おさまったから、なに、お茶でも飲みな」ってお茶飲んでて一家みんな亡くなったというところもある。

ここから少し行くと大学の人が碑を建てた「波来の碑」って、ここまで波が来ましたよって、石が建ってっから。

私、いつも枕元に重要書類、土地の所有権とか、なんだかんだおいて、風呂敷に包んで準備してたんです。けど、なにも、逃げることで頭いっぱいで、それ持って、お金などは持たないで出たんです。逃げてくるとき、まさか家が流されると思わないから、また戻ってくるって思っていて、位牌も何も持って来ないで。一回サンダルで出たんだけど、これ履いてはどこにも逃げられないと思って、長靴に履き替えました。サンダルで逃げた人は大変ですよ。ああいうときは気持ちの方は急ぐから。運転できる人が3人も4人もいるのに、大きなトラックもあったのに、自分の車乗んないで、よその車1台にみんなで乗って、自分ちの車ほとんど流してしまったしね。それから小さいトラック買ったから、今は何するったって載らないからしんどいんだ。

近所の知り合いなんかは落ち着いていた。位牌なんか全部背負って来たからね。家の娘も、自分のお金はさておいても、部落の書類は流せない、って2階に駆け上がって、親父が部落の会計役でつけてる一切の書類を全部持って、来たからね。今銀行でも郵便局でも、通帳なくても、連絡すれば全部手続きできる時代だから。何千万のお金だから。部落のお金だから。保険に入って1年しか経ってなかったし。

私は「ささよ」が青少年の健全育成に貢献しているということで、旧歌津町長さんから感謝状をもらったこともあったし、旧歌津町で2番目の防犯実動隊って私たちの部落で作ったのさ。その副隊長までやって、防犯活動に尽くしたってことで、県警と山本知事さんと連名で感謝状を貰ったり、精神薄弱者関係の会長を3期やって、それを後の人さ譲って、今度は相談員になってから、車がないからバイクで町内をグルっとあるいた(出かけた)。今までいっぱいいろんなことやって、みんな感謝状あったけれども、なに、全部みな流した。そっくりね。

そういうのを並べて書いておいたら記念になるんだけど、そういう記録も残ってないからね。

「波静か ~われは海の子~」畠山吉雄さん[宮城県南三陸町歌津寄木]昭和2(1927)年生まれ

ささよの保存と被災

子どもの数は、昔は20人くらい、昭和40(1965)年生まれの人たちが1年生か2年生の時には30人くらいはいたね。「ささよ」が歌津町の文化財に指定されるようになってから初めて、保存会っていうものを作らなくちゃならないからって言って、発足になったんです。昭和55(1970)年8月21日だ。「ささよ」を子どもたちに50年以上教えてきているけれども、保存会ができてからまだ20何年なんです。今は小中学生合わせて6人か5人か。

歌津町の文化財登録のことで役場に行った折に、「寄木さん、なにか「ささよ」の保存について考えていることはないですか」って言うから、「祭に使う太鼓のような物でもあって、他町村の伝統行事との交流を深めて子どもたちの健全育成につながればいいかと考えてる」と私なりに語ったわけだったのさ。「ささよ太鼓」と名付けて、残していこうと思ったんです。そして、役場の生涯学習課から、県の方に補助の書類を出したんだが、いっぱいでその年はダメだった。

次の年、ダメもとでもう一回出してみたら、採択になったのが、日本生命財団(現ニッセイ財団)。その当時の助成金額で私たち一番多くもらったんです。あくまでも太鼓の購入にあてるということで、1個買って20万円でした。けれど、「貧乏家で馬を一頭持っても、どうにもならない」っていう喩(たと)えがある通り、太鼓一個もらったってどうにもなんないから、部落でなんとか、その太鼓作ってくれないかって、話し合いが賛否を呼んで、「大金かけて、太鼓を作るもんじゃない」とか、いろいろ文句は出たけれども、最後は私に押し切られて大きな太鼓2個を買ってもらって、私が法被15着とのぼり旗なんか寄贈して、基を作っておいたんです。それから、長く伝えていたおかげで、気仙沼でも地域文化賞っていうのを頂いて、私が頂きに行ったり、地域貢献賞っていうのもらいました。

ところが、今回の津波で、部落のセンター(集会所)が海岸にあって、そこに表彰されたものも、法被やら何百万もする太鼓やら、全部置いていたから、津波で全部流してしまった。バック幕って、この辺のどの文化財の人たちでも演じる後ろさ幕入れてっから、「おらほでもこれ作っか。俺とあんだで寄付して作ったらええか」って寄付したのもあったけど、こいつだけ津波のあと、見つかったのさ。

付近の人たちね、「大きくなったら学校さ入って太鼓を教えてもらえると思ったのに、流されてしまって」って嘆いてる。もともと、70%の確率で津波来るよ、って言われていたから、センターを海岸に置くのは反対だったんだけども、宝くじの支援金だったから、期限があることで、急いだんだね。高台に山を崩して平らにすれば、いくらでもあったのに、時間がなくて、現状のところに、ということでつくってしまった。「あくまでも集会所なんだから、いいだろう」ということで。その頃私たちも、部落から引退してるから、「年よりがなに、余計なこと」って言われるから強くは言えなかったね。

それでも、震災後、JR(東日本鉄道文化財団の「歌津寄木ささよ整備事業」支援)から100万円寄贈されたんです。

法被は太鼓と歌とどうやら20着ずつ作ったし、今度の保存会の会長さんも、いろんなところ回ってなんとか寄贈されて、太鼓を準備できたようだし。

だから私のところにまた、「子どもにささよ太鼓を教えてほしい」って、1週間だか10日ばりしか期間がなかったから、津波前は楽譜みたいなの作ってたけど、それも流したから、3分の1の時間で何とか終わるように全体を切り詰めて、変わらかして(変更して)、なんとか恰好だけつけたんだね。ささよ太鼓の譜は、最初は「かわらや(屋号)」さんの息子さんに作ってもらったんだけっども、叩きよう(叩き方)が3種類しかないんだ。それをいかに組み合わせて格好よく、またみんながその音を聴いて「あっ!」と思うようにやるのが譜面の作り方なんだ。あとは、叩く格好をいかにも「太鼓叩いてるんだよ」っていうような格好に見せるにはある程度の練習がいるんだな。けどもとは真ん中さ「ささよの歌」を入れて30分以上かかったのが、今年は15分ぐらいに短い。練習時間も短くてやむを得ないから、それでもいいんでないかと。

「波静か ~われは海の子~」畠山吉雄さん[宮城県南三陸町歌津寄木]昭和2(1927)年生まれ

後世に歴史を書き残す

ここ寄木には、250年ぐらいになる、「ささよ」っていう行事がある。テレビで何回も放送して、各新聞社もいっぱい来てっから。1月の小正月にやる、その保存会の会長を50年続けてきました。あとの会長さ譲って2~3年にもなるけど、昔やってた頃は、えらい盛んな形でね。いま人数が5~6人しかいなくなっちゃったですけど。

「ささよ」を残すのに、ほら、言葉ばり(だけでは)伝わんないからと、どのように書いたらいいか、苦心したのにね。これ作ったところ、津波でさらわれてしまって。ほんでも知り合いのところに写しがあったから、それを今度コピーしてもらったのが残ったんです。

残すって、歌津町史も、復刻してもらいたい。今回作んねえと、これから先、歌津町史っつうものが、いま、流されねえでもってる人たちしかねえわけさ。これから先、たとえばまた町村合併があれば、歌津そのものの町史っつうものがおそらく作られねえべかな(作られないだろうな)。だから、今回がいいチャンスでねえかな。コピーとるったって何千もページがあるもの。

印刷元の活版は流されて原本がない状態で、復刻はかなり厳しい状況におかれたが、2013年現在、現在南三陸町役場でデジタル版と並行して復刻の動きがある。

「波静か ~われは海の子~」畠山吉雄さん[宮城県南三陸町歌津寄木]昭和2(1927)年生まれ

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3.11被災

3月16日気仙沼入港予定だったんですが、3月11日に震災が発生したでしょ。その3日前ぐらいに大きな地震があったんですが、そん時は県の担当者から「津波もないし、みなさんの家庭は大丈夫ですから」って連絡が来たんです。だから、最初は「どうせ大したことないんだべ」って思ってた。でも、「横須賀にいる自衛隊の船が全部、東北に振り向けたみたいだよ」って周りの人が言っているのを聞いて、「これは大きそうだな」と思って・・。通信長が「メールが24時間使えるし、電話をかける人は電話かけてもいいし、とりあえず家庭とすぐ連絡とってくれ」って言うんです。

地震発生時は、船が震源地の後ろの方にあったから、震源地のそばにいた海上保安庁の船が津波に乗ったようなことはなかったです。津波に遭ってたら、海面が、どーんと上がったでしょうからね。日本の太平洋側だけじゃないんだよね、津波が来たのは。ハワイ島の方にも来て、小さい小舟がひっくり返ってたそうです。ホノルルなんかも1晩中津波の危険を呼びかけるサイレンが鳴ってたっていうもの。その後1か月ぐらいは、ホノルルの方も観光客は日本からもどこからも、まるきり来ないって言ってました。

3月11日、実習船は、日本に近づいていました。あと3日か4日で入れる位置まで来てたからね。でも、気仙沼には入れないし、行く場所ないし、連絡つかないし。電話をかけても通じない。船は3月の18日にあの神奈川県の三浦市の三崎港に入ったの。そこでとりあえず漁の水揚げをしました。

その後も、家にも連絡がつかないから、私は東京の妹んとこに電話して、次の日に、妹の旦那さんの方が三崎まで来てくれたんです。そのときに、彼に「現実を見てください」ってこう言われて、持ってきた衛星写真を見せられたの。「南三陸町は現在このような状況ですから」って、グーグルのやつさ。もう何もないんだもんね。あらーっと思ったのね。津波で流されて、町が無いにしろ、家族と連絡がつかないことが、やっぱり精神的に打撃が大きかったですね。ようやく連絡がついたのは、4月のはじめ頃だったと思います。自分の兄弟やいとこが「試しにかかるかな」と思って電話をかけたときに自分が出て、「こっちもガソリンも手に入んないし、道路も通行止めで動くに動けない。あと、避難所まわってみるから」とだけ伝えました。電話はそれきり来ないんです。バッテリーが切れちゃうと充電できないですからね。

動けない期間、ずっと沿岸に停泊させた実習船にいたんです。ご飯も食べられるし。いろんな人が船に来ましたよ。小泉進次郎、井上康生。横須賀海軍カレーとか、色々支援物資持って来てくれたけど、物資の代わりに、故郷に帰してくれという気持ちでした。

妹や親戚は、被災地と離れた名古屋などにいましたし、現地との連絡を取るにしても名古屋にかけてもしょうがないんだけど、情報を探ってもらうには頼むしかない。そうやって連絡を取り合ってるうちに、3月は電話代5万円も取られました。

三浦三崎港には、震災直後の3月15日以降、母港に帰着できなくなった水産高校実習船が次々と入港し、漁獲したマグロを岸壁で水揚しました。宮城県所属の『宮城丸』、福島県所属の『福島丸』、青森県所属の『青森丸』、秋田県所属の『船川丸』の計4隻でした。今年の1月下旬に宮城丸は石巻港を、福島丸は小名浜港を出港して、ハワイ沖合にてマグロ延縄漁業の実習操業と海洋観測に従事、帰港する途上でした。

「波は咆えているか」山口道孝さん[宮城県南三陸町歌津伊里前]昭和32(1957)年生まれ

実習航海洋上で津波を知る

私は感じていたけど、この震災前の海はおかしかったんですよね。夏の海だったけど、白波も立たない状態だったの。そんなのもうありえないわけですよ。全然船も揺れないし、風も吹かなかったし、「なんかおかしいな」って言ったのさ。

1月の20日に出港したんだけども、その時点で、すでに海がおかしかった。それで、ジョンストン島(=アメリカ領)ってハワイの東側の漁場についたらば、いつも貿易風って風が吹いてるのに、波が良くて、それがあまり吹いてなかったんですよね。

代わりに、海鳥がうるさかったの。海鳥が、船に50羽ぐらい、白いのから黒いのから、今までにない程、ついたんです。

そして、海の中はシャチがうるさかったわけ。マグロ延縄で打っていくと、マグロが釣り針に食いつくのを、後ろからシャチが食ってしまうんです。シャチってのは利口だから釣り針にはかかんないから、針のとこだけ残してマグロをみんな食べてしまうんです。

マグロの延縄を海に入れることを投縄(とうなわ)って言いますが、その後、2~3時間縄を海中に流しとくんだけども、もうその時点でシャチが海面に浮いてるんだもの。その時は「あー今日もダメだな」と思いました。マグロが食いついても、ほぼその8割ぐらいをシャチに食われてしまうんです。本当は水揚げは1日、相場で大体100万ぐらいなきゃなんないんだけども、そんなに獲れないです。1キロ800円として、1日約1~1.2トンぐらい獲んないといけない。でも、入れた延縄は上げて(揚縄(あげなわ)という)しまわないといけないから、辛いですよ。

そのときは、シャチがうるさいし、鳥がうるさいし、様子がおかしいなと思いましたが、どうにか操業を終えて、ハワイに観光に行ってから、再び船が出たときには、今度は風向きがおかしいんです。ハワイから出る時の風というのは、決まり決まったコースから吹くんだけども、そん時は逆だったんだよね。3月はじめの頃のことでした。

「波は咆えているか」山口道孝さん[宮城県南三陸町歌津伊里前]昭和32(1957)年生まれ

被災後の実習船での教育

被災前、実習船は、普通高校、たとえば宮城県水産高校や、気仙沼の向洋高校でも教職員の研修に使っていましたが、最近はやっていませんね。水産高校というのは大体海辺にあるものですが、この2校も被災して、全部地盤沈下して水が引かないんです。宮城県水産高校は、今は華南高校の仮設校舎、石巻北高校の仮設校舎で授業を再開しているみたいです。将来的にはまた元の場所で再開したいとのことです。向陽高校は被災した場所には再建できないから、気仙沼高校の第2グランドに仮設を建てるようです。普通科はどこの高校にもあるんですが、工業系の生徒は米谷(まいや)工業高校に行ってるし、水産関係はその隣の本吉響(ひびき)高校に行ってるし、もう1つは気仙沼西高校っていうとこに間借りしている状態で、普通科の先生は、生徒が3校に別れてしまったものだから、大変そうです。午前中、本吉響高で授業をやったら、午後は米谷工っていうように、回っていかなくちゃならない。専門教科の先生はそうでもないみたいだけども、その辺が大変みたいですね。

今は水産高校の生徒も、ノートや教科書使って勉強するには十分でしょうけども、実習ができないんですよ。実習は必ず海でするものですが、それもできないし、かといってロープワークをしようにも小型船舶が沈んでしまっていてできません。それに、実習棟もみんなやられてるから、シミュレーションの機械とかも仮設には持っていけないんです。大した実習ができないんです。普通高校であれば差しつかえないでしょうけどもね、実業高校ってのはどうしてもその辺が大変でしょうね。

地震のあとは、宮城県は津波でもうお金ないだろうから、さすがに船は動かせないし、海洋実習はないだろうと思っていました。けれど、違うんだね。宮城県で金がなければ、国で出す。こういう教育関係だから、船があって人が集まれば、それなりの段取りが立てば、船は出せるです。その辺は民間企業とは違うとこだよね。次の航海は10月に45日間の沖縄行きとなりました。

「波は咆えているか」山口道孝さん[宮城県南三陸町歌津伊里前]昭和32(1957)年生まれ

3.11被災

津波のときは、伊里前から隣町の志津川に買い物にいくつもりで、歌津駅の待合室におりました。志津川は電車賃で200円の区間です。家内が3年間くらい寝たり起きたりしていた頃に、僕が炊事をしましたから、自分で調理ができるんです。なので、買い物のために志津川町まで行くのに、14時43分の気仙沼ゆきの列車に乗ろうと思って待っていました。すると「列車が始発から、点検のため15分遅れになっている」という案内があって、そのときあの地震がありました。

で、僕はチリ地震津波(1960年)、昭和8年津波(1933年)の体験がありますから、ホームというものは石を積んであって、プラットホームあって、屋根あって、高いもんですから、待合室からそこへ逃げようと思ったんです。そしたら女の駅員さんが2人来て、「山内さん、危ないから、ホームさ行ったらダメだ」って。僕は1週間に1回、多い時は2回くらい駅に来ていて、回数券を買うから、名前ぐらいわかるんですね。リュックサックを背負ったまま、両腕を女の駅員2人に挟まれて、屋外に出されてね、「早く外さ避難しなさい」と。そのうちにまたも震度7の大物の揺れが来て、電信柱がいかにも倒れそうになり、遠くで雷みたいな音が鳴っていました。この87歳が、もうタイルと舗装の上、地べたに這おうと思うくらいにすごかったんです。

そうして、みんな車を避難させる目的で、運転手ひとりの車が、数十台列をなして、次々に志津川高等学校の高台目指していくわけです。その中で、1台止めて乗せてもらおうと思うんだけど、車間距離が接近してるから、急に停めたら衝突してしまいそうでした。運転している人の中に知ってる人もちろんいないから、停められないでいたんです。そしたらね、お隣の人が「山内さん、早く乗らい(乗りなさい)」って。

お隣の菅原整骨院のお姉ちゃんが、自分の軽乗用車を避難させようと思って、自分だけ乗ってたの。隙をねらって乗せてもらいました。志津川高校まで歩いたらやっぱり4〜5百メートルの距離があったから、荷物を捨てたとしても、心臓も弱っていますし、体が持たなかったと思いますね。幸運にも乗っけてもらって、高台の志津川高校の屋内体育館に避難することができました。

津波が到達するまでは時間少しあったから、その高台から南の方向をみんなが見てるので行ってみると、津波が押し寄せてくるのが見えました。川を上る波が溢れて、こっちの方の道路とか、田んぼの方に流れて来ていました。もし列車がちゃんと来ていたら、少々の遅れくらいで発車していても、途中で脱線したりひっくり返ったりで、僕はおそらく死んでたでしょうね。

私は、満州引き揚げの前に日本へ戻り、そして東京大空襲の前に東京から田舎に引き上げてきていましたし、強運だと思いますね。

だから、大津波で死ななくて、肺炎なんかで死んではだめだと自分でも思ってるんです。

「歌津 塞翁が一代記」山内正一さん[宮城県南三陸町歌津伊里前]大正12(1923)年生まれ

歌津・志津川合併

3期目で、市町村合併の話が出て、合併協議会の委員に就任しました。

当初は合併するにあたって、気仙沼含めてもっと広域でするのがいいなと考えていたんですが、最終的には、志津川と合併することになりました。

農共済で経験しましたが、合併というのは、規模の小さい方が大きい方に吸収されてしまうものでした。志津川と歌津は、人口などの規模からいくと、3対1。歌津は志津川の3分の1しかありませんでした。経験上分かるんですが、志津川はそのころ財政状態があまり良くなかったので、私は合併協議会では歌津が不利になると主張していました。ああ言えばこういうで、やりあいましたが、とにかく最後はいうこともなくなってきました。けれど、農共済にいたときから津波の文書への影響を見ていましたが、本吉支所が志津川にあって、津波で壊滅的な被害を受けたんですよ。農共済でも、その時は「津波で流されて資料がない、いろんな何がない」となって「何をしているんだ」と感じたこともあって、町役場はあの場所では駄目だよ、と。志津川の役所も昭和35年のチリ津波の頃をみているはずだから、町役場の場所はこれでいいのか、役場は高台に建てないと駄目だよと、合併協議会があるたびに、そう言ってたんですよ。最後はその役場問題になったわけですよ。「役場は高台に移転されなくては合併しないぞ」と主張しました。議会は当初、15人いた議員のうち、合併賛成は4人しかいなかったんです。ところが、歌津町民のほうから、合併賛成の7000人にも上る署名を集めてきたんです。この署名を突きつけられたときは、ガクッと来ましたね。「ああ、町民は合併を望んでるんだ」と。つまり歌津町議会は反対、地域の方は合併に大賛成だった。地域の方に恩義のある議員が、ほとんどの方が合併賛成と言っているのに、折れざるを得ないでしょう。「ああ、それではもう仕方ないな」と。ただし、高台移転の意見は捨てなかった。そして今のベイサイドアリーナ、あそこに立てろと主張したんです。そんな話も今更ですよね。

とにかく平成17年(2005年)に、歌津町と志津川町は合併して南三陸町になりました。合併してもまた議員になれといって推してくれる人もいましたが、そのころから、体調を崩して、肝臓の手術をしました。見てください、ここがすごい傷なんだ、ほら。そんなわけで議員は辞めました。

「わたしを育てた町、歌津。」村上幸男さん[宮城県南三陸町歌津伊里前]昭和9(1934)年生まれ

護岸より高台移転

この地域の護岸については、水門、防波堤と、税金を投じて、水門なんかも相当高いのを作ったんですよ。岩手県の田老町で、明治の津波で壊滅的な被害をうけてね、作れば津波は入ってこないよ、という11mのすごく高い堤防を作ったんですよ。
議員してた頃に、それも見て来て、伊里前もこの前のチリ地震津波(昭和35(1960)年)が来た時よりも1mかさ上げして、だいたい4m位にしたんです。だから、6mの津波が来ると聞いて、家から何も持ちださないで逃げたのは、「2m超えるくらい大したことねえ」って思ったからなんですね。

税金を投じて護岸しても、ほんの一瞬、一発で終わりでしたよ。「おお、来たな。ドッカーン、バリバリバリ」って、異様な音をたてて、一瞬にして町が粉々になったので、これはどんな堤防を作っても、お金をかけて作っても、津波には勝てない、津波の来ない高台に移転すべきだと、そのとき思いました。

そのお金を新しく作る宅地の方に投じてもらって、ここで被災にあった方々が、手の届く値段で住めるように提供してもらいたいって思うんです。

それがかなわない限りは、海岸地帯には住みたくないですね。まあ、釣りだの、海の近くでないと不便なことはたくさんあるし、せっかくみんなとコミュニケーションもとれているしね、なによりこの地域に自分が育てて貰ったんだから、この町は離れたくないんです。高台に、みんなで住めるような場所を、格安に、インフラ整備、電気設備だの、道路だのっていうのはそっちの方に作って、住める所を用意してもらえればいいなと思います。いろんな意見がありますが、町そのものを形成するのを進める場所と、それから、浜作業をするところとは別々の場所でいいと思うんですよ。

明治の津波では、ここの集落が全部流されてなくなったんだ、ってことを、みんながだんだんに忘れて、浜作業のしやすい浜の方に下りて来て、家建ててるんですよ。そういうことが今度は無いように、災難に遭った我々の代できっちりと、「浜は作業をするところだよ、ここは仕事場だよ、ここは、住宅を建てては駄目な地域だ」と線引きして、行政でもそのようにやってもらうことです。我々の経験を活かしてもらって、きれいにしたいよね。みんなで希望をとってやればいいんじゃないかと思います。土地は、個人のものは大変だと思いますが、買い上げるか交換するかできると思うんですよね。そうして実現してほしいと思います。

「わたしを育てた町、歌津。」村上幸男さん[宮城県南三陸町歌津伊里前]昭和9(1934)年生まれ

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シカ シベリア抑留 シラス シルバー人材センター シーサイドパレス ジャージ ジョンストン島 スケート スズキ本社 スズメ ストレス スマトラ セリフ神楽 ソバ ソリ ソ連抑留 タカ タコ タタカイ沢 タテゴトアザラシ タヌキ タバコ タバコ(おやつ) タバサミ タピオ タラ チキンレース チフス チャグチャグ馬コ チリ地震 チリ地震津波 ツェッペリン号 ツトコ納豆 テレビ テーラー トウバ トウモロコシ ドジョウ ドジョウの養殖 ドンコ ドンモウ ナマズ ナメコ ナラ ニナガイ ニューギニア ニワトリ ニンジン ハクビシン ハタケシメジ ハノイ ハマ ハヤ ハワイ バコ バス バタンキュー バッタ打ち バフンウニ バブル時代 バンジョ パルプ船 パンスケ ヒエ ヒジキ ヒラタケ ヒラメ ビルマ ビンチョウマグロ ビートルズ フカヒレ フゴ フナ フランス領インドシナ ブランコ ヘリポート ベザーノ ペチカ ホウレンソウ ホウレンソウ部会 ホタテ ホタテのタネ ホタテ養殖 ホタルサミット ホヤ ホルツマーデン ボランティア ボーリング場 マグロ マグロ延縄漁業 マグロ漁 マグロ漁船 マグロ船 マス マツモ マツモの開口日 マラリア マンガ(馬鍬) ミカン狩り ミシンかけ ミヤギシロメ ミュージカル ムラサキウニ メカ メカジキ メカブ削ぎ メバチマグロ メンコ打ち ヤクザ ヤマガカシ ヤマドリ ヤマ学校 ヨシ ヨダワケノミコト ライスカレー ラジオ体操 ランソン ロック ワカメ ワカメのタネ ワカメの芯抜き ワカメ刈り ワカメ拾い ワカメ漁 ワカメ養殖 一の矢・二の矢・三の矢 一反歩 一夜飾り 一歩 一町歩 一畝 一礼 七福神踊り 三井、三菱、峠畜産 三井物産 三公社五現業 三十三観音像 三崎港 三嶋神社 三嶋神社の裏参道 三徳無尽 三本縄 三条小太夫近春 三浦毅 三浦英夫 三陸ホウレンソウ 三陸津波 三陸鉄道 上台ファーム 上品の郷 上山八幡宮 上棟式 上沢分校 上町切 下刈り 下町切 下駄 下駄スケート 不動明王像 中井小学校 中国 中国からのお嫁さん 中国残留婦人 中国残留孤児 中学校 中学校教員 中標津町 中瀬 中瀬町 中舘 中舘平五郎信常 丸太出し 丸目 乾燥ワカメ 予備士官学校 予科練 予科練隊 二十一浜 二本縄 互助会 五日町 井上康生 交通 人間関係 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指物大工 振興会 振興無尽会社 振興相互銀行 振袖 挺身隊 捕虜 捕鯨船 揚縄 支倉常長 支援物資 支那事変 放射能 救援物資 敗戦 教員 教科書 教育勅語 文化財 斗組 料理 新井田館跡 新井田館跡発掘作業 新制中学校 新田次郎 日中戦争 日掛け金 日本よい国、東の空に 日本人学校 日本武道館元館長 日本語講座 日本陸軍 日本青年団連絡協議会 日給 日銭 日門 日露戦争 旧仙台藩 早生八幡 昆布 昆布の開口 明治29年三陸津波 春の大祭 昭和8年三陸津波 暖飯器 暴れ神輿 曲尺 月俸 月夜 月給 望小山 朝塩釜神社 朝日館 木の実 木価 木地蔵 木挽き 木材 木炭 木炭組合 木馬 末期の水 本吉 本吉地区冷害基金 本吉町 本吉町国際交流協会 本吉町連絡協議会 本吉響高校 本吉響高等学校 材木 村葬 条桑育 東京・四谷区 東京人絹 東京第一陸軍造兵廠仙台製造所 東北の長崎 東北博覧会 東北大学災害科学国際研究所 東北大学災害科学研究所 東北最大のフリーマーケット 東北本線 東北歴史資料館 東和林業組合 東和町 東和鱒渕 東日本鉄道文化財団 東稜高校 松原 松原そうじ 松圃 松島 松林 松根油 松笠 松茸 林業 柳州 栄養失調 栗原郡 桂林 桃山時代 桃生 桑の実 桑畑 梅ッコ 梅干 梅干し 梶賀千鶴子 棒受け網 森口多里 森林組合 検閲 樋の口大家 横座(上座) 横須賀 横須賀海軍 横須賀海軍カレー 機関員 機関士 檀家 歌津 歌津・志津川合併 歌津中学校 歌津会 歌津十二人衆 歌津寄木ささよ整備事業 歌津敵討 歌津村葬 歌津町 歌津町史 歌津町小学生ミュージカル 歌津町議会 歌津町長 歌津町青年団 歌津駅 歌津魚竜化石 歌生 正月 正月料理 正月飾り 歩兵第四連隊 死に装束 死人もの 母屋づくり 氏子 氏子総代 氏神 民族歌舞団ほうねん座 民話 気仙パン 気仙大工 気仙沼 気仙沼ジャスコ 気仙沼市 気仙沼市教育委員会 気仙沼市立病院 気仙沼湾 気仙沼線 気仙沼西高校 気仙沼高等学校 水夫 水害 水戸辺川 水戸辺川上流 水戸辺川上流津波最終到達点 水産業 水産特区 水産高校 水産高校実習船 水田 水眼 水遁の術 水道 決死隊 沢庵 河童 沼エビ 沼深 沿岸漁業 泊崎荘 泊浜 法印神楽 波来の碑 泣く子も黙る原兵団 注連縄 津山杉 津波 津波をかぶった杉 津波伝承 津谷中学校 津谷川 津谷高校 浄瑠璃 浅縄 浜の神楽 浜・町・在 浜松の織物工場 浦賀 海上保安庁 海南島 海員学校 海水浴場 海洋実習 海洋観測 海苔 海苔漁 海苔簀 海苔網 海苔養殖 海藻 海鵜 消防団 深縄 清水寺 清水浜 渋柿 温泉 満州 満州の花嫁募集 満洲の温泉 満海山 満蒙開拓団 満鉄 満鉄工務区 源氏 源義家 源義経 源頼光 源頼朝 漁労長 漁協 漁師 漁業 漁業協同組合 漁業権 漁業者 漁民 漁船 演芸会 漬物 潜り漁 潜水器操業 潜水士 潜水漁 瀋陽 瀬峰小学校 火の用心 火まわり 火事 火災 火葬 灰干しワカメ 炭炬燵 炭焼き 炭窯 無尽 焼津 煮もの 煮物 熊ヶ根橋 熊岳城 熊岳城ホテル 熊谷流の踊り 燻製 爆弾 牛殺し沢 牛肉 牡蠣 牡蠣剥き 牡蠣殻処理場 牧之内城 牧野駿 物々交換 特区 狩猟 献膳 献膳係 献膳長 獅子舞 獅子頭 玉の井 玉子柿 玉音放送 理容師法改正 瓦屋 瓦工場 瓦礫 生態系 生活相談員 生涯教育課 生糸 田の字造り 田の浦 田んぼ 田中則和 田束の夜明け 田束山 田植え 田老町 町切 畜産 畜産農家 疎開 疎開工場 登米 登米市 登米郡南方町 登米高女 白山様 白山神社 白無垢 白砂青松 白菜 白装束 白馬童子 百貨店 皿貝化石 皿貝化石群 直売所 相互銀行 真言宗 矢車 石巻 石巻北高校 石巻港 石浜 石浜神楽 砂湯 砂糖 硫黄島 磯漁 社寺建築 祇園神社 祝い事 祝儀 神棚 神楽 神様参り 神社 神社本庁 神輿 神飾り 祭り 祭典 祭典日 福島丸 福島原発 秋の大祭 種はさみ 稲作 稲八幡 稲刈り 稲荷寿司 空襲 空襲警報 立川町 立棺 竹スキー 竹川原 竹槍 竹馬 竹駒神社 第三次補正 第二地方銀行 第二次世界大戦 筍の皮 算盤 管の浜 築館 米作り 米俵 米川 米川の教会 米川小学校 米川村 米川狼河原綱木の沢 米広 米穀通帳 米谷工業高校 米軍 粟餅 精米 納豆 納豆餅 紙のランドセル 素干しワカメ 素戔鳴尊 素潜り 紡績工場 細浦 細浦生活センター 終戦 終戦の日 終戦後 経塚 経塚遺跡 結いっこ 結する 結婚 結婚式 結納 給食 綏化 総代 総本 総本宮 総本山 編み物 縁起物 縄とび 縄跳び 縫製工場 缶詰工場 缶蹴り 羽織袴 羽黒山 老人会 老人保健施設 老人養護施設 肥料 脱脂粉乳 腸チフス 自動乾燥機 自給自足 自衛隊 興業銀行 舘崎の浜 舞根 舟沢 船名旗 船員 船大工 船子 船川丸 船舶免許 船酔い 船頭 艤装 艦砲射撃 色彩選別機 芯抜き 花火 芸能部 苗代半作 茄子 茱萸(ぐみ) 草もち 草履 草餅 荒島 荷鞍 菊の御紋 華南高校 華足寺 華足寺参道整備事業 華足寺大祭 華足寺大祭のお供え 華足寺大祭の演芸会 華足寺馬頭観音堂 落ち武者 葉タバコ 葛西四百年 葛西家 葫蘆島 葬儀 葬式 蒸気機関車 蕎麦 蕎麦粉 蕨野 薪ストーブ 藁穂沢 藁草履 藤の蔓 藤原征伐 藤原氏 藤原秀衡 虎舞 蛸の渦巻 蝦夷地 蝦夷狩 行商 行政区長 行方不明 衡陽 衣川 衣料切符 被災地 被災後 裁縫 裏杉・表杉 裏目 裏観音様 補充兵 補助金 製材所 製糸工場 製鉄 西戸 西條實 西條實短歌集 要谷 観世流 観音像 角田市 解体ショー 許家屯 誉田別命 語り部さん 請負耕作 豆もち 豆餅 豊前宇佐八幡宮 豊漁祈願 貞任山 買い物 赤崎 赤痢 赤紙 足湯 踏み絵 蹄鉄 軍人勅諭 軍人恩給 軍国の母 軍用犬 軍需工場 軍需物資 輪尺 輸出 農作業 農協 農地解放 農家 農家預金 農林業 農林水産大臣賞 農業 農業共済制度 農業共済組合 農業委員 農業改良試験場 農業災害補償法 農業研修 農民講道館 農閑期 迫川 追い馬 這坂 通り囃子 造兵廠 造幣局 造船 造船所 連絡協議会 進学 進駐軍 遊園地 運送事業 道中囃子 遠の木沢 遠洋漁業 遠藤美希 遺体 避難 避難所 避難生活 避難訓練 郵便局 郷土探検 郷土芸能 郷黒 配給 配給制度 酒井農寮 酒井馨 酒屋 酪農 野戦病院 野球 野菜 野菜研究会 金の卵 金峰寺 金華山 金鉱 金靴屋 釜神様 針葉樹 釣り 鉄嶺 鉄砲 鉄砲風呂 銀鮭 銀鮭養殖 鍋焼き 鍬頭 長の森寺 長沙 長沼 開口 開戦の詔 間伐 関東軍咸陽 防波堤 防潮堤 防災庁舎 防災無線 防犯実動隊 防空壕 阿部井組 陣取り 除草機 陸中海岸 陸前原町駅 階上 隠れキリシタン 雁月 雄飛小学校 集団就職 集団移転 雑煮 電報 電話 震源地 霞ヶ浦 青大将 青年の家 青年の船 青年会 青年体育大会 青年団 青年団長 青年学校 青年文化祭 青年部 青森丸 青空工場 青色申告会 鞍薦 響高校 須賀神社 頼光寺 頼母子講 風呂 食べ物 食事 食糧難 飯土井 飯綱神社 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