文字サイズ |
まず、製材所の社長か専務か、山を見て、山を刈る。
そして今度は自分の雇ってる4~5人の木挽きさ山に入れて木を切らせる。
切ったのを地駄引きで「なんぼ(の料金)で出してくれ」と頼む。
出したのを今度は自分の車で持ってって、製材する。
こういうふうですから、人手が何人もいったんだね。
今は、森林組合は森林組合でチェーンソーで木を切って現場さ運んで、1カ所に集まった材木を自分たちで入札して買うだけで機械化も進んだから、そういう地駄引きもいらなくなったし、木挽きさんも少なくなった。人足も淀むし、諸経費がかからなくなった時代だね。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
実家は農林業でした。炭を作るんです。山の木を切り出して、窯に木を仕込んで焼いて、できた炭をちゃんと梱包して製品にして、ここらへんに出荷してました。当時はいっぱい炭が売れたから、それが我が家の収入源でした。
夏になれば、刈り払い、下刈りと言って、植林後の山に雑草が伸びてくるから、それを刈る手入れが必要だった。冬は冬で炭焼きの仕事があり、年中働いてましたね。
林業をしながら、米作り・畑仕事もしています。今朝もトラクターで耕してきました。トラクターでディープパープルやARBなどのロックを聴きながらね(笑)。今のトラクターにはエアコンもラジカセも付いています。ラジオはノイズが入るから聴こえないしね。
こういう家の仕事は、若い頃に手伝いで一通りやりました。田んぼの畦のクロ塗り(水田の水漏れを防ぐための作業)を、当時は機械なしで「よつこ」でやりましたよ。
今は96アールの田んぼで米を作っています。種籾は農協に注文して、ハウスで苗を約200箱作ります。種籾は、昔は塩水選(えんすいせん)で・・。比重計もあるんだけど、以前は、生卵を使い浮き沈みで比重を見ました。悪い種は浮くから、先人の知恵ですね。今は温湯(おんとう)消毒したものを持ってきてくれます。10アールに箱で約20枚分。しろかきや土入れは自分と家族でやっていますが、田植え時のような農繁期は、今も手伝いの人を頼んでいます。採りいれ後、収穫の60アール分は農協へ供出します。供出分は機械乾燥してもらいます。これが、翌年の農薬代や種籾代に充てられます。自宅で食べる保有米は自然乾燥しています。
学生の頃は他所でアルバイトをしたかったものですが、父が認めてくれないので、家の仕事をバイトとして小遣いをもらいました。自分が働いてもらったお金は、なかなか簡単に使えないもので思い入れのある品を買ったと思います。あこがれのブランドの洋服を買ったかなぁ・・。アルバイトといえば、昭和46・7年頃「クリスマス雪害」の時、雪の重みで木が全部曲がってしまったので、ジャッキを買い、ビニール紐で1本1本木を起こすのを手伝いました。
今も木を切ると、その当時のところが若干曲がっているのがわかるんですよ。
結婚後、長期林業の功労で農林水産大臣賞をいただいたことがあります。
林業研修で福島県の阿武隈へ行き、とても熱心に林業を研究し取り組まれているムトウさんという方(当時60歳位)が「19歳や20歳で木に魅力がありますよ、などと言う奴は頭がおかしい」と。この時、家業の「林業」に対して、「わからなくていいんだ」と気持ちが楽になれました。その方のことは、受賞記念の際の文章に書かせていただきました。
林業は、バブルがはじける前から低迷していました。ただ、あの頃はまだ低迷しているといっても古木1本が300万円で売れたり、まだまだ売れて、お金もあったと思います。以来、木価が下落しています。売れなくなった背景には、外材が入ってきたこと、集製材や合板、プレス材の開発が大きく影響しています。祖父の時代は「売ってください」「売ってあげます」の時代だった。祖父は幼い頃に両親を亡くして苦労したせいか、財産に対する執着が強かったと聞いています。父の時代は、それほどでもなかったとはいえ、仕事の目安がたちました。だいたい、今年は何本位植えて、切って、売って・・というような。もともと、樋の口大家(ひのくちおおえ)の木は良いと言われていて、映画「黒部の太陽」のモデルになった建設業界の笹島ヨネ作さんが岩手の仕事の関係でご自分の家を建てるという時に、紹介されてうちの木を使ってもらいました。
登米の旧校舎の腰板、外の部分にうちの材木が使われています。
ただ、材木というのは、仕入れた人間が儲けているんです。うちの木を「秋田杉」として秋田の材木市で売られたこともありますよ。
まだ、「山師」がいた時代に、実際の「山師」とのやり取り、優しさの裏にある危ない手口も見てきました。輪尺(木の直径を計る道具)を使って目通りする時も、必ず我々に見えない方向から計り、少しずつさばを読む。できるだけ安く買って、できるだけ高く売って、さばを読んだ分だけでも、ずいぶん儲けたと思います。
うちの山は木が育つのに適しているんです。実は木というのは、その土地で育てれば、そこの木になるもの。「秋田杉」だって、苗木をここへ持ってきて育てれば、この地の杉になる。「裏杉・表杉」という呼び名もあるが、製材してしまえば実はわからないものです。肌が少し違う程度で、普通はわからない。
横山に「津山杉」という有名な杉がありますが、あそこは盆地なので寒暖差が激しくて、30年で太くなりますが、実は目が粗い。うちの木は年輪が狭くて目がつんでいます。無節は好きずきです。節を無くそうとすると、無理に手足を切り落としてしまうような感じで、実は節があったほうが強い。木は自然が一番だと思います。
歌津に戻って、時にはデザイナーの夢を捨てて後悔したこともありましたが、ひと冬を越えればそれなりに仕事には慣れるものです。当時は林業が全盛期で、これにバブル時代が続き、1本売れたら左団扇、10本、20本売ったら1年間の暮らしは十分! というような時代でした。
契約会では冠婚葬祭のほかに、植林や刈掃い(かりはらい)など山の管理をする山林部があります。契約会の山は40町歩くらいあって、会の帳簿上では40人共同の財産になっています。昔、みんなで話をして、あの山も、この山も、契約会のものにしましょうと決めたんだと思いますが、これは登記が難しいんです。固定資産税の請求があるので、役場には契約会の土地として登記されています。区分ごとに持ち主はいるのですが、あくまで契約会の共同の山として、個人が勝手に使ってはいけない決まりです。
山の手入れは、毎年、春の総会で「今年は5反分間伐しましょう」などと決め、山林部長を中心に行っています。刈掃いや植林は自分たちでやりますし、間伐も森林組合に頼んでやってもらいますから山はきれいですよ。刈掃いに出られない人は5千円を払うことになっています。昔は、こうして育てた木を売って収入にしていました。RQの前にあるヒノキの山も契約会の山です。今回の津波で、その向かい側の10町歩ほどは浸水しました。
それから土地も少しあります。今回の震災でも建設会社に土地を貸しているはずです。津波で流された契約会館も契約会の所有でした。その土地は“牧野”の名義の土地ですが、土地も建物も契約会のものとして役場に有料で貸していたわけです。
家業は本業の林業が主体で、山を約120ヘクタール所有し、昔は馬も1頭飼っていました。その他には田畑が1ヘクタール以上あって、この田畑を借りて耕して生計を立てている方たちが近所に住んでいました。麦を畑で作っていた時代です。
叔父は、馬の世話のため、朝の草刈り作業に行く時は、木の弁当箱(ひつこ)にご飯と味噌や梅干を入れて持って行ったそうです。
昭和28(1953)年8月23日、乙女座生まれです。家業は林業。父は歌津町議員も務めていました。6歳上と4歳上の姉が2人います。
現在の住まいは、築58年の木造建築です。林業という仕事柄、お客様より良い材木を使うわけにはいかないので、柱には栗の木なども使用しています。昔ながらの造りにこだわった田の字造り(平面を4部屋に区切った形が「田」の字に似ていることから)の家です。広い土間に大きな部屋が4つ、その部屋の両側に廊下があり、奥の離れへと続いています。田の字造りというのは、ふすまを開放すると大きな広間にできるので冠婚葬祭を家でやる時代には大事な機能でした。
私が25、26歳までは、このあたりは土葬だったんです。奥の床の間のある部屋の神棚の下に二間の押入れ(お母様のご希望)と、離れへの通路にも少し収納がある程度で、家の広さの割には収納が少ないと思います。学童期は「自分の部屋」に憧れましたね。長机を持っていろいろな場所に置いてみるけど、広い空間に独立した空間を作ることが難しくて、よそに遊びに行くと小さいながらも子どもだけの空間があるのがうらやましかったものです。
この家に祖父母、両親、姉2人、自分の7人家族。そして、離れに叔父叔母夫婦と、その子ども、つまり従兄弟が3人の5人家族の2世帯が住んでいました。あとは、うちの土地を借りて、うちの仕事の手伝いをしていたおばあさん、おじさん、そのおばあさんの兄弟、住み込みの方のご夫婦の6人が住んでいましたから、全部合わせると同じ敷地内に3家族がファミリーだったんです。そのうち2家族が、ここで一緒に食事をしていました。家長が座る場所「横座(ヨコザ)」に祖父が座り、次には父母が座って、正座して全員そろって食事をしました。こうして大勢でご飯を食べることが、とても自然で当たり前でしたね。ガス釜じゃなく、薪(まき)を使って竈(かまど)で米を炊く時代です。薪は、冬の前に、父と叔父さんと、大勢手伝いに来てもらって、斧で薪を割って木の小屋に確保していました。昔は囲炉裏端でいぶしていたから、柱のあちこちが真っ黒になっていたので、張り替えています。
Please use the navigation to move within this section.