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まず、製材所の社長か専務か、山を見て、山を刈る。
そして今度は自分の雇ってる4~5人の木挽きさ山に入れて木を切らせる。
切ったのを地駄引きで「なんぼ(の料金)で出してくれ」と頼む。
出したのを今度は自分の車で持ってって、製材する。
こういうふうですから、人手が何人もいったんだね。
今は、森林組合は森林組合でチェーンソーで木を切って現場さ運んで、1カ所に集まった材木を自分たちで入札して買うだけで機械化も進んだから、そういう地駄引きもいらなくなったし、木挽きさんも少なくなった。人足も淀むし、諸経費がかからなくなった時代だね。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
平成6~7(1994~5)年頃、生活が安定してきた頃から、登米市の日本語講座に関わるようになりました。東和町には、残留孤児のお世話をする人の紹介などで、中国からきたお嫁さんがいました。日本語がわからないのでは大変だと思い、何か自分も世の中にお返しできたらという気持ちで始めました。最初は受講するお嫁さんも3~4人でした。
私は農業委員をしていた頃に、委員10人ほどと8日間かけて中国に視察に行ったことがありました。そのときは大連、上海、昆明、桂林、北京と回ったのですが、昆明で少数民族のサニー族の学校を訪問したり、上海の大農場での水耕栽培を見たりました。その頃、日本のタキイ種苗など大企業が中国に行って農業の指導をして、日本の技術をどんどん移転していました。
その旅行の企画をしていた会社の社長と友だちになっていたのですが、日本語学校のことを知ると、「日本語教室をするなら、うちの社員を講師として派遣しますよ」と言ってくれたのです。そして盛岡から講師の女性に来ていただいて毎週日曜日、1年間日本語教室を続けました。私は毎週日曜日、東和町の公民館のカギを開けに行き、それから日本語教室をしたのです。最初は3~4人だった受講生も、5人になり、10人になり、15人になる頃には、中田町、迫町など少し離れた地区の方も来られていました。東和町では生涯教育課が担当になり、日本語講座は現在も続いています。
東和町のゲンジボタルの保護は、昭和46年鱒淵地区の青年たちが、ホタルの大発生を契機に、人もホタルも住み良い地域を作ろうと「ふるさと会」を結成し活動に取り組んだことに始まり、この取組が多くのマスコミ等から注目されたことにより、地域全体でホタルを保護しようとする意識の高まりとともに「鱒淵源氏ホタル保存会」を設立した。また、同地区の小学校の児童が「ほたる少年団」を結成するなど保護活動が盛んに行われている。同保存会による保護活動は、地域住民が一体となりホタル発生数や発生状況調査、発生時期の保護パトロール、及び生育ステージに合わせた除草作業等の環境整備などを行っている。また、「ほたる少年団」はホタル生育の研究、ふ化、放流を行っている。なお、全国的に有数のホタル発生町が一堂に会し実施している「ホタルサミット」にも毎年参加している。
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