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私は昭和7(1932)年11月23日、志津川町(現宮城県本吉郡南三陸町)戸倉(とぐら)に生まれました。実家は祖父母、両親と姉の6人家族でした。生まれてから今回の津波に遭うまで、ずっとその家で暮らしてきたのです。
戸倉は半農半漁の家が多く、漁業だけで生計を立てている家はだいたい3分の1、4割にもならなかったですね。
うちは農家で、お蚕(養蚕業)をやってたんですが、漁業権もありました。祖父は1メートルほどの長さのナラの木を砂浜に立てて、そこに付いた海苔を採っていたんです。私も志津川でタコが大釣りしていた頃は、アワビの開口にも行ったりしたんですが、昭和20年から30年代にかけて、漁業の進歩で定置網や船を使うようになってからは道具も揃えなくてはワガンねえ(できない)からってことで辞めましたね。
そんなふうで、戸倉地区は海に面した方(かた)でなければ、木炭や養蚕が仕事の主体でしたね。うちは蚕より他になかったですが、私は中学校に入った頃に木炭の仕事をやったこともありました。
父の名前は知(さとる)、母はかほるといいます。2人とも戸倉の出身で、母は、父よりひとつ年下で、横津(よこつ)商店という酒屋から嫁ぎましたが、昭和48(1973)年、412の年で子宮がんでこの世を去りました。祖父は名前を吉治(きちじ)といい、自慢のようなんですが、戸倉村で村会議員を3期12年務め、71歳で亡くなりました。祖母はなおといい、その頃では長命な方だと思いますが76歳まで生き長らえました。姉は知子と言いました。
父は、祖父の「これからは頭が良くなければだめだ」との方針で小牛田(こごた)農林を卒業しましたが、20歳になってすぐ、海南島に出征しました。すでに母と結婚しており、私が生れる昭和7(1932)年に戻ってきたんです。
私は昭和13(1938)年、戸倉村尋常小学校に入学しました。そして、小学校4年生になった昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争勃発の日にスマトラ島に向け、再び戦場へと旅立ちました。
昔からいうんだ。津波のときに、何か忘れ物してきた、って言って戻った人に、助かった人いない。「ほら、逃げよう」って言って逃げるのに、「薬持ってきてけす」って言う人がいる。なに、薬、取りに行くっていうわけさ。「流されて死んでもいいならいいけど」って言って、行かないで、そのまま車で逃げたから、助かった。取りに戻った人で助かった人いないって。
津波来るまでに何十分も時間あっても、このように人が亡くなっている。家に戻った人はみんな亡くなった。そして海岸でいろんな海の道具やなんか、確保なんかして送り出したひとは亡くなったし。船を沖に出すなら出す、置くなら置く、っていう決断を早くしないと。
私の孫もね、「船で逃げる」って言うから「船なんかつくればあるんだから、いらないから、船は沈めてもいいから車で逃げろ」って。
船に乗って、沖に出るのが遅くなって、その辺で津波をまともにくらって、沈没したら船ごと終わりでしょう。船で逃げたって、ここから沖合まで、30分も40分もかかるし、その間に、ホタテからワカメから一杯筏(いかだ)があるから。逃げてもあの島のあたりまで行ったころに波がきて、それで終わりです。津波が来たときに、船を出して逃げるということは、今後考えない方がいいから。たまたま助かった人たちの話は自慢話にならないから。それで万が一船で出た人がみんな津波にやられたらどうするの、って。
私は、震災当日、家から逃げたの。家内のばあさんは、高野会館(志津川の集会所。当日老人会が開かれていたが、帰宅できない多数のお年寄りが屋上で津波を被りながら一夜を耐えた)にいたんだな。
家で、私と息子夫婦と、女の孫と4人で、ワカメの芯をぬく作業をしていた。そしたら、大きな地震が揺れたのね。3人は地震と同時に作業場から田んぼに飛び出ていったの。ちょうどおやつの時間がくるから、3時だから作業場にヤカンかけたの。それがひっくり返ったり。私は地震の時はいつでもね、急に飛び出したりなんかすると、屋根からなにから、いろんなものが落ちてきて、けがする可能性が大きいから、作業場に最後までいた。そのうちに今度は電気が消える。そして地震がおさまってから外にでたら、そしたらほら、3人で田んぼに立ってた。そのうちに有線で「6m以上の大津波が予想される」って始まった。からって。近所の人に、「6m以上の津波がくるとそこまでいくから、ダメだから、車で逃げた方がいいぞ」って声をかけて、向かいの人に「なに洗濯物なんか干して、有線聞かないのか、6m以上の津波がきたらやられてしまうから、じいさん車に乗せて、早く逃げろ」って。そこ、寝たっきりのおじいさんがいるのね。その一声で洗濯物なげて、それで助かったの。
だけど、また一段高いところの奥に、私より2つ先輩の人たちが住んでたのね。ここまでは来ない、大丈夫だと思って庭で見てたの。1回の波で私の家なんかものすごい音がしてバリバリっと音がして壊れたので、驚いて見たときはもう、家はこれまでだった。そのおじいさんを隣の家の息子さんと後ろの山に引っ張り上げて、なんとかその時は助かったんだけれども、常に体が弱かったから。避難先の病院にかかって、こっちの仮設に帰ってきて、とうとう亡くなった。
今回の津波では、まさか流されるとは思わなかったけっども、近所の人の中には位牌を背負って逃げたり、お米もちゃんと高いところさ上げて逃げた人もあったんだ。チリ地震津波も経験しているような人、海岸の一番、川口にある人はいつでもすぐ津波来っと流されっから、いつでも逃げるように準備したたんだ。用心して、お金でも車でも持ってね、逃げたんだ。おらたちはちょっと離れてっから、なに、ちょっと大きな地震が来たと語ったって、流されっと思わない。戸倉のほうなんか奥手(海岸から離れたところ)の人は一家みんな流されたりしてんだ。「地震おさまったから、なに、お茶でも飲みな」ってお茶飲んでて一家みんな亡くなったというところもある。
ここから少し行くと大学の人が碑を建てた「波来の碑」って、ここまで波が来ましたよって、石が建ってっから。
私、いつも枕元に重要書類、土地の所有権とか、なんだかんだおいて、風呂敷に包んで準備してたんです。けど、なにも、逃げることで頭いっぱいで、それ持って、お金などは持たないで出たんです。逃げてくるとき、まさか家が流されると思わないから、また戻ってくるって思っていて、位牌も何も持って来ないで。一回サンダルで出たんだけど、これ履いてはどこにも逃げられないと思って、長靴に履き替えました。サンダルで逃げた人は大変ですよ。ああいうときは気持ちの方は急ぐから。運転できる人が3人も4人もいるのに、大きなトラックもあったのに、自分の車乗んないで、よその車1台にみんなで乗って、自分ちの車ほとんど流してしまったしね。それから小さいトラック買ったから、今は何するったって載らないからしんどいんだ。
近所の知り合いなんかは落ち着いていた。位牌なんか全部背負って来たからね。家の娘も、自分のお金はさておいても、部落の書類は流せない、って2階に駆け上がって、親父が部落の会計役でつけてる一切の書類を全部持って、来たからね。今銀行でも郵便局でも、通帳なくても、連絡すれば全部手続きできる時代だから。何千万のお金だから。部落のお金だから。保険に入って1年しか経ってなかったし。
私は「ささよ」が青少年の健全育成に貢献しているということで、旧歌津町長さんから感謝状をもらったこともあったし、旧歌津町で2番目の防犯実動隊って私たちの部落で作ったのさ。その副隊長までやって、防犯活動に尽くしたってことで、県警と山本知事さんと連名で感謝状を貰ったり、精神薄弱者関係の会長を3期やって、それを後の人さ譲って、今度は相談員になってから、車がないからバイクで町内をグルっとあるいた(出かけた)。今までいっぱいいろんなことやって、みんな感謝状あったけれども、なに、全部みな流した。そっくりね。
そういうのを並べて書いておいたら記念になるんだけど、そういう記録も残ってないからね。
今は養殖の中心はワカメだ。ホタテの場合は、大きい船ないとできない。重いものぶら下げてるから、大きくないと網を巻き上げた時船が横向いてしまう。ほんとは今年の5月ごろできるって言ってたんだけど、今造船中なんだ。1月に三重のヤマハで作った船体がこっちに来て、それを唐桑でいろんな機械や、網揚げる道具をつけたり、さまざまな準備をすんの。そのことを「艤装(ぎそう)」っていうの。なんで唐桑って? 志津川の造船所で作れば、そのままやってもらっていいんだけど。いっぱいでなかなか、やれないから(船はその後、無事完成し、進水式を終えた)。
船を作るときには、先ず申請する。漁協の方さ直接やってもいいし、志津川の造船所さ先に申し込んで「作りますよ」となったら、あと、漁協に申請する。ただ今度の場合、志津川の造船所が壊れてしまったから、漁協の方で動力船を作るは申請順だって言われて、うちの孫が一番先に申し込んだんだ。去年のホタテに間に合うようにできる予定だったんだけど、今年になってやっと。だから去年のホタテやるのに、となり部落の船を借りたのね。だからいっぱいやれる予定で組んだんだけど、3分の2ぐらいになってしまった。
ホタテ養殖のタネは、こんな稚貝から採ってんだ。手数ばり(ばかり)くらってはわかんないから、まあ、半数は北海道からこのぐらいの買うんだね、高いけっども。半生貝だね。
タネばもらって、網さ中さ入れて、その時期来(く)っと、水温と比べて海さ入れて、そいつが付着して、最初はあの、ほんとの泡が付くぐらいになる。それがみるみるうちに、大きくなって。それを一回夏場に獲って、小さい目の「ネット」っていう網さ入れて育てて、大きめのを選んで別なネットさ入れて、大きく成長さすんだけども。だからいっぱい材料もいるし、ある程度大きくなんねえと、耳吊りすんのに繋がれねえから。
津波のときは、伊里前から隣町の志津川に買い物にいくつもりで、歌津駅の待合室におりました。志津川は電車賃で200円の区間です。家内が3年間くらい寝たり起きたりしていた頃に、僕が炊事をしましたから、自分で調理ができるんです。なので、買い物のために志津川町まで行くのに、14時43分の気仙沼ゆきの列車に乗ろうと思って待っていました。すると「列車が始発から、点検のため15分遅れになっている」という案内があって、そのときあの地震がありました。
で、僕はチリ地震津波(1960年)、昭和8年津波(1933年)の体験がありますから、ホームというものは石を積んであって、プラットホームあって、屋根あって、高いもんですから、待合室からそこへ逃げようと思ったんです。そしたら女の駅員さんが2人来て、「山内さん、危ないから、ホームさ行ったらダメだ」って。僕は1週間に1回、多い時は2回くらい駅に来ていて、回数券を買うから、名前ぐらいわかるんですね。リュックサックを背負ったまま、両腕を女の駅員2人に挟まれて、屋外に出されてね、「早く外さ避難しなさい」と。そのうちにまたも震度7の大物の揺れが来て、電信柱がいかにも倒れそうになり、遠くで雷みたいな音が鳴っていました。この87歳が、もうタイルと舗装の上、地べたに這おうと思うくらいにすごかったんです。
そうして、みんな車を避難させる目的で、運転手ひとりの車が、数十台列をなして、次々に志津川高等学校の高台目指していくわけです。その中で、1台止めて乗せてもらおうと思うんだけど、車間距離が接近してるから、急に停めたら衝突してしまいそうでした。運転している人の中に知ってる人もちろんいないから、停められないでいたんです。そしたらね、お隣の人が「山内さん、早く乗らい(乗りなさい)」って。
お隣の菅原整骨院のお姉ちゃんが、自分の軽乗用車を避難させようと思って、自分だけ乗ってたの。隙をねらって乗せてもらいました。志津川高校まで歩いたらやっぱり4〜5百メートルの距離があったから、荷物を捨てたとしても、心臓も弱っていますし、体が持たなかったと思いますね。幸運にも乗っけてもらって、高台の志津川高校の屋内体育館に避難することができました。
津波が到達するまでは時間少しあったから、その高台から南の方向をみんなが見てるので行ってみると、津波が押し寄せてくるのが見えました。川を上る波が溢れて、こっちの方の道路とか、田んぼの方に流れて来ていました。もし列車がちゃんと来ていたら、少々の遅れくらいで発車していても、途中で脱線したりひっくり返ったりで、僕はおそらく死んでたでしょうね。
私は、満州引き揚げの前に日本へ戻り、そして東京大空襲の前に東京から田舎に引き上げてきていましたし、強運だと思いますね。
だから、大津波で死ななくて、肺炎なんかで死んではだめだと自分でも思ってるんです。
3期目で、市町村合併の話が出て、合併協議会の委員に就任しました。
当初は合併するにあたって、気仙沼含めてもっと広域でするのがいいなと考えていたんですが、最終的には、志津川と合併することになりました。
農共済で経験しましたが、合併というのは、規模の小さい方が大きい方に吸収されてしまうものでした。志津川と歌津は、人口などの規模からいくと、3対1。歌津は志津川の3分の1しかありませんでした。経験上分かるんですが、志津川はそのころ財政状態があまり良くなかったので、私は合併協議会では歌津が不利になると主張していました。ああ言えばこういうで、やりあいましたが、とにかく最後はいうこともなくなってきました。けれど、農共済にいたときから津波の文書への影響を見ていましたが、本吉支所が志津川にあって、津波で壊滅的な被害を受けたんですよ。農共済でも、その時は「津波で流されて資料がない、いろんな何がない」となって「何をしているんだ」と感じたこともあって、町役場はあの場所では駄目だよ、と。志津川の役所も昭和35年のチリ津波の頃をみているはずだから、町役場の場所はこれでいいのか、役場は高台に建てないと駄目だよと、合併協議会があるたびに、そう言ってたんですよ。最後はその役場問題になったわけですよ。「役場は高台に移転されなくては合併しないぞ」と主張しました。議会は当初、15人いた議員のうち、合併賛成は4人しかいなかったんです。ところが、歌津町民のほうから、合併賛成の7000人にも上る署名を集めてきたんです。この署名を突きつけられたときは、ガクッと来ましたね。「ああ、町民は合併を望んでるんだ」と。つまり歌津町議会は反対、地域の方は合併に大賛成だった。地域の方に恩義のある議員が、ほとんどの方が合併賛成と言っているのに、折れざるを得ないでしょう。「ああ、それではもう仕方ないな」と。ただし、高台移転の意見は捨てなかった。そして今のベイサイドアリーナ、あそこに立てろと主張したんです。そんな話も今更ですよね。
とにかく平成17年(2005年)に、歌津町と志津川町は合併して南三陸町になりました。合併してもまた議員になれといって推してくれる人もいましたが、そのころから、体調を崩して、肝臓の手術をしました。見てください、ここがすごい傷なんだ、ほら。そんなわけで議員は辞めました。
昭和12(1937)年、この年は、志津川でね、大火があったんですよ。志津川に五日町ってあるでしょ、あの一帯。店も焼けて、そして一家は歌津に来たんですよ。私が5つか6つの頃だね。そんな小さなころだから、志津川のときの記憶もほとんどないね。
津波のあと、3日も息子に会えなくて、私は死んだと思ってたよ。息子は志津川湾に船を見に行っていたときに津波が来たの。うちの船は3艘あったんだけど、ひとりで全部を見るわけにも行かないから、2艘はすっかり流されました。志津川湾の道路のところから見ていたら津波が来たから、上へ上へと上がって行ったの。
波が引いて、落ち着いてから、家があったところに私も行ってみた。地図も何も無いから、「おばあさん、全部流されたから行ってもダメだよ」と言われても、「まさか、そんなことねえべ」と思って本気にしないで行ったの。そうしたら、本当にトラックの底は抜けているし、乗用車はポコンとへこんでるし。家の中には、鍋2つに、まな板と包丁まではみんな見つかったけど、あとは何もかもなくなってた。近所の養殖ワカメの加工場があったところは、釜から、タンクから、スッポリと抜いたように流されて無くなってた。周囲には、顔にマスクをした人が大勢お金を探して歩いていたね。そんな風に探している人が大勢いるものだから、私たちもその場を動けずにいたの。
辺りは人も通れないくらい、滅茶苦茶になっていて、志津川からここまでたどり着くのに、普通なら30分もかからずに行けるところを、ぐるっと遠回りして、何時間もかけてようやくたどり着いたの。だから、息子も来られなくて当然だったんだ。そして、3日目にようやく歩いて来たの。車もなければ、着るものもなし、来る途中には、少し高台の細浦の交番に泊めてもらって、そこが一軒家だったから2階から布団を持ってきて、周囲の部落の人と一緒に雑魚寝して過ごしたって言うの。そこにしても、水も無ければ電気もつかず、食べるものも無かったんだね。
このあたりの人たちは、本当に夫婦で語るヒマも何もないくらい忙しいんだ。ヒマあれば働かねばならないし、あんたたちにはちょっとわからないでしょう。だけどそのくらい、農家というもの、漁師というものは、ヒマがないの。だからここいらの人は働き者だから、お金はいっぱい。心もいいし。だけども、この津波が何ほどだって、誰にもかなわないなあ。それが涙流れるほど悔しい。
酒の肴は、毎日のことだから、それこそ刺身を作ったり、父親はイワシの頭を取って酢に漬けたりして、「うまい」と言って食べてた。それからドンコを生で叩いて、ワタを入れて、タマネギを入れて味噌であえるのが本当に美味しいの。
ご飯なんか食べずにそればっかり食べたくらいだったよ。私たちは「生ものは嫌いだからいらない!」って言ってたけど、父親が「頭を叩かれてもうまいから、食べてみな」って言うから食べてみたら、それが本当に美味しかった。それ以来、「ドンコのたたきってこんなに美味しいなのか」って、食べるようになりました。活きの良いドンコを食べたら、あなたたちだって喜ぶと思うよ。だって、獲れたてを、すぐたたいて食べるんだもの。
ドンコといえば、志津川の奥の貞任(さだとう)山のほうに米広(こめひろ)っていう集落があるんだけど、この地にいた安倍貞任(あべさだとう)という武将が敵に攻められたとき、山の上から米を滝のように流して敵を欺いた、というウソか本当かわからない言い伝えがあるところなの。
今いる仮設住宅のすぐ裏に住んでいる人が、米広から漁師のところにお嫁に来たっていう人でね、うちの父親に魚を食べさせてもらってとても美味しかったと言ってた。
清水浜(しずはま:南三陸町)の方では、炉で大きな鍋を火にかけて、おつゆでも何でも、ドンコだの魚だの入れて炊いて、みんなでお迎えするのさ。山の方から来た人だからめずらしかったんでしょ、それがすごく美味しかったって。よくよく話を聞いてみたら、一度うちに来たことのある米広の人の娘さんだったんで、びっくりしたよ。
2番目の姉が、はじめは静岡県富士郡吉原町にあった「東京人絹(じんけん)株式会社」というところに勤めてて、その後、横須賀の海軍で働きました。
姉が行ってから、募集があって、うちの父が世話をしてくれて、私を含めて志津川から6〜7人まとまって同じように働きに行ったの。そのとき私は小学校6年を卒業したばかりで13歳。
東京人絹は、8万坪もの敷地を保有していたよ。
東京人絹の工場は、沼津から電車で3つほど行った鈴川駅(現東海道線吉原駅)で降りて、吉原町というところにありました。パルプを原料とする化学繊維の糸(人絹)を製造する会社です。大きな工場で、男女別の大きな寄宿舎が3棟もあって、プールもあった。働いているのは若い男女で、男の人が夜になって女子宿舎に忍び込もうとすることがあって、そんなときは大騒ぎになって、1人や2人の男の人を、女の人みんなで取り囲んで追い詰めるの。そういうことは今のあなたたちの時代にはないと思うけど、その時代は風紀に厳しい時代だったからね。
戦争は日本が負けて終わったでしょ。「これは大変なことになってしまった」と思ったっけ。
みんなで泣いたりもしてたけど、それでも戦争が終わってみんなが故郷に帰って来ることが幸せだったねぇ。そして、歌津の方でも志津川の方でも演芸会が始まったの。私もあちこちの演芸会に行っては、少しでも演芸のまねごとをするのが楽しくて。
「日本よい国、東の空に」と歌いながら、道中囃子(どうちゅうばやし)といって、私が考えた踊りを志津川の青年たちに教えたこともあったよ。学校からずうっと松林が続いてて、その松林は今は津波で流されて一つもなくなってしまったけど、そこを練り歩くときのお囃子だよ。そして、佐沼の青年団の人たちが来ました。会長さんは都会に行って帰って来た人で素敵な方だった。
「何でもやる気になれば」「あらゆることをやらなければ」と思って一生懸命やったんだ。目が赤くなってもやるの。人様にお見せする限りは、下手なものをお見せすると恥ずかしいから、頑張らなければね。
13人家族で暮らしたこともあったからね。それも、1カ月、2カ月のことじゃないんだから。うちの父さんが海から魚を獲ってきて、米に換えて持ってきても、すぐなくなってくるんだ。家族が1人2人だったらいつまでも残ってる量でも、13人だとあっという間になくなるでしょ(笑)。
シラスを網でとって干して、大きな南京袋にいっぱい詰めて、自転車で商いに行ったなあ。本当にうちの父さんも苦労したから、私は実家を離れられなくなったの。
商いというものはありがたいものだよ。海のものがあれば、それが米にもなれば、菓子にもなれば、何かになる。
私は行商に出るのが好きで、いろいろ歩き回ったの。昔のことだから食料もない頃で、魚や海草を獲ったら市場に持っていって、その他は神社に祀ったり、行商に出て売ったり、お米に取り換えてもらったりしたんだ。
行商に出ると、近所のお寺の養蚕の神様に石を積む人たちが9人くらい来ていて、私が行けば魚もすぐ売れてなくなって、ありがたいことだった。タダではもらえないからってお米をくれたこともあった。魚を持って行って、お米を持って帰って、大変だったけれど、私たちも助かったもんだよ。
うちの父さんの昔から知り合いで、農家するときに馬を借りてきてね、馬追もしたよ。
馬というものは、人の何倍も働いているから、かわいそうでな。飼料なんか背負わせて行ったけども、それを降ろしてあげると食べさせたくなるのさ。そして、かわいそうだからって食べさせたら、今度は馬が私の根性見て、食べさせなきゃ動かなくなるの。私って本当にへんてこな人だけど、優しいことは優しいんだよ。(笑)
昭和8(1933)年と、昭和35(1960)年のチリ津波と、今度の津波は3回目。昭和8年の津波でも、私は家も小屋もみんな流されたんだ。やっぱり今度のように雪が降ってね。
津波の前には志津川(南三陸町)に住んでいました。今回の津波のとき、息子は船に乗っていたんだって。地震が起きてすぐは息子も一緒で、今家が1軒残ってる、山の方の隅っこのほうに車を2台とも運んで避難しました。もう時間が無くて、たくさん蓄えておいた食糧も少ししか持っていけないまま、車に積み込んだの。まさかそこまで津波が来るなんて思いも寄らなかったよ。車を置いてから、息子は船を見にいくって行ってしまいました。長女も一緒に逃げて来てたけど、私には分からなかったけど、そのとき伊里前(いさとまえ)(南三陸町歌津)のほうから波がこっちに来てたの。そこから車で波に追いかけられるようにして逃げたよ。
途中で娘に「そこの農協のところでいいんじゃないか」って言ったんだけど、娘は「ダメだ、ダメだ」って言って、もっと高いところに逃げたの。船を持っている人の土地があってそこが平らになってたから、そこに車を入れさせてもらって。後ろを振り返ったら、田の浦(南三陸町歌津)の方から来る波と、伊里前の魚竜館のほうから来る波がぶつかって、まるでもう噴水! たった今通ってきた農協のところも、清水浜は一気に、すべてが流されてしまった。もう、すごい、すごい! 一緒に見ていた人のなかに「私(おらい)の家が流される!」って言っている人もいました。
一度波が引いたときに、うちの孫が波の様子を見てたら、誰かが走ってきて、周りをぜんぜん見ないで自分の車の方に行くので、「そっちに行ってはダメだから、いいから、行きましょう」って言って引っ張ったんです。危なかったんですよ。車はようやくそのへんに引っかかっていて、そこから通帳がぶら下がっていたのを取ろうとして落ちかかっていたんだね。孫が「助けて、助けて」と叫んだので、それを聞いた娘がそこに行ってその人を引っ張り上げたんだ。
自分の住んでいたところでは130戸も家が流されて45人もの人が亡くなったの。だから、流されてしまった部落のところを通ると情けなくて涙が流れに流れてしまうよ。この仮設住宅の上のほうに1カ月いて、鳴子温泉に行っていくらか体を休めてに1カ月行って来たの。そのときも息子は働かなくちゃならなくて。「漁協の方で今働かねぇと、クビになってどこさも行くところが無くなる」って言って、鳴子から志津川の瓦礫の中へ通っていたよ。2日ぐらい、志津川のどこかの家に泊まって、また鳴子に行って、行ったり来たり大変だったねえ。
その後、6月15日はうちの父親の命日だから、14日にここの仮設住宅(平成の森仮設住宅)に入ったの。そしたら何も知らないでいたんだけど、いつまでもここに入居しないでいるとカギを取り替えられて入れなくなってしまうんだって。何も勝手がわからないまま、周りにどんな人が住んでいるのかも知らないままだった。私は志津川の人間だからねえ。ここまで来て落ち着いて、みんなにここへ来たのはこういう訳だと話したら、ほっとしたよ。
でも、ここは夜になると波の音が聞こえるの。だからいくら早く床に就いても、その音が気になって寝られなくて、夜中の2時3時になってしまうんだ。そんなことが続いたから、体も心も、頭もみんなまるっきり、言うことをきかなくなってしまったよ。だからね、お世話になってきた人にお手紙を送ろうと思っても、そんなの全然書く気がしなかったの。そうこうするうち、あっという間に1カ月も経ってしまって、いまさら手紙を送るのも恥ずかしくなって、送れずじまい。
そんなある日、お酒を2本いただいて、1本はみんなで分けて飲んで、1本はお世話になった旅館に送ったの。そのお酒は、名足の高台にあって流されずに残った家が3〜4軒あって、そこから呼ばれて「何だろう」と思って行ったら、「お酒があるから」ってもらったものなの。旅館の方からはお礼を言って来ませんでしたが、私も同じようにお礼できずにいたからね。そんな風にいつも悪いことばかり起こるわけではないから、なにかしてもらったときには海藻でも何でも送ってお返ししようと思ってるの。今は旬のサンマでもあれば送ってあげたいけど、今年は無理だね。物資をいただいたときも嬉しくて、こっちで揃えた物は壊れてしまったし、新聞もテレビもなかったから。「ご飯です」って呼ばれて、あの階段に下りて行くと、私は歩けないから、周りの人が行ってくれて。隣のお兄さんに声をかけてもらったけど、あちらも忙しそうなので、お礼も言えないままだ。真面目な人だった。その人のお母さんは具合が悪くて、目も見えなくなってどこか遠くに運ばれてしまった。