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謡(うたい)は、幾つぐらいからかな・・さて、歳はね・・・教えられたのは、3年間やっただけだな。3年間。今から62年か63年前だな。だから、22〜23歳の時、覚えたんだ。
結婚式なんか今のように、ホテルだの結婚式場だのでやらないで、家のなかでやるっちゃ。その式をとりもつ世話人が、どこの結婚式でも必ずあるわけ。その先生に、この本で教えられたのね。3年間教えられたから、私もそのお世話役もけっこう、やったんだ。だから、今でもこの歌、謡ってくれないかっていうと、最初謡いだすと忘れないで、後の謡が続いて出てくるだね。
流派は、ここらはほとんど「喜多(きた)流」。文句はほとんど同じだが、伸ばしたりするところが違うんだね。気仙沼の方は大谷、小泉は「大蔵流」。一番多いのは舞台に合わせて謡うようなのは、「観世(かんぜ)流」。
この教本で、この脇にある符号でね、伸ばしたり、声を上げて下げたりします。点々のあるのは普通に、高砂や。「たーかーさーごーや~」、「や」で伸びてっから、「や~」でこう伸ばしたりして。今度孫の、結婚式にこないだ謡ってくれってことで謡いました。結婚式ではあと、「玉の井」。
伴奏はなしなんだ。「できるだけ、腹さ力を入れて、腹の底から声を出せ」とこういう風に先生に教えられてるのね。だから、腹から声出して、3日稽古したら、普通の歌、歌えねえの。声でないの。声かすれてしまって。腹の中から出さねえかで、喉からしか声出さねえとそんなことにはならねえ。黒豆、砂糖入れて、ぴっちり煮てもらって、それで食べっと、喉がなめらかになって、声が出る。むしろの上さ、膝ついて。あぐらもなんもダメなんだもの。正座でしかだめ。正座しないと腹さ力入れて、声が出ないと。差し向かいで座って、先生が謡ったあと区切りのとこまで謡って、だいたい覚えたなと思うと、こんどは2人で一緒に謡わせられて、そして、これで1人でも大丈夫だなと思うと、今度は1人で、謡うんです。
内々で結婚式やった時には、お世話する人は、先方のお客さん来てっから、「私なりの流儀でやりますから、ひとつよろしくお願いします」という口上を述べるわけさ。そうすっとお客さんが、その謡を謡う人に文句言えないことになるの。それから謡い出すの。すると、何謡っても結局いいわけだ。「私流にやりますからその点ご了承していただきます」というふうな口上を述べておけば、えばって謡えばいいんですよ。私たちもいくらか結婚式のお手伝いさせてもらったから、そのようにやってきましたね。だから、今の若い人たちさもそのように、謡をやりあえっていうの。
この漁船の進水式には、「四海波(しかいなみ)」をまずやりました。これは、渚でも、家を立てる時でも、結婚式、披露宴でも、おめでたい時に「四海波」は必ず最初に謡います。
次に「高砂(たかさご)」を謡いました。よくテレビでなんか見ると、結婚式で「高砂や~」がすぐ出るようだけど。このへんでは進水式の時、九分九厘、「高砂」。結婚式だとかなんかの時には「入り船」。3つ謡わなくてわかんない(いけない)から、あと喜びの歌をひとつ。最後に「さあ、めでたい」ってことで、めでたい端唄と。
青年団っていうのは本吉地区や気仙沼地区の青年が集まって町単位で作るんです。男女問わず、18~34歳までの男女で、本吉町の連絡協議会の管轄区域に住所があれば誰でも入れました。地区の上に宮城県青年団連絡協議会、さらにその上には日本青年団連絡協議会っていうのがあるんです。
各地の青年団の主催で「青年文化祭」や「青年体育大会」っていうのが大規模に行われていたんですよ。文化祭っていうのは、合唱、演劇、郷土芸能が披露されて審査されて、そこで選ばれた人が県の文化祭に行って、県の文化祭で最優秀賞取ったら、その上の全国の文化祭に行くという大きな大会でした。文化祭のお世話は、地区ごとの青年団が毎回持ち回りでお世話役を、交代でやりました。いい大人がヘタな演劇、脚本から全部つくっての創作演劇なんかを練習してやるんで、随分面白いです(笑)。青年体育大会っていうのも国立競技場を貸し切ってやるほどの大規模なものでした。
青年団は毎月、何かしらの行事がありました。お茶会とか飲み会とか(笑)。結構、周りの人とも仲良くなれるんです。私たちの時はちょうど活動の盛り上がりがピークの時で、シンガポールでの海外研修にも参加してきました。私たち本吉町が国外研修一期生でした。次からの人たちは中国やハワイに行っていましたね。そんなふうに、私たちの時は青年団活動が盛り上がったんですよ。
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この辺のお祭りは、小泉八幡様のお神輿ですね。9月10、11日にやったんですよね。その神社には、たまたま津波が乗らなかったので、30年ぶりにお神輿を担いだんです。担ぎ手がいないので、最近は人が担ぐんじゃなくて、トラックに乗せて回ってたんですよ。結構重いですし、20人はいないと代わる代わる担げないんです。
だから、ボランティアの人たちにも、今回は助けられたかなと思います。地元の人もみんな喜んでいましたね。
私自身は、子どものころのお神輿の記憶はなくて、父ともそんな話にはなりませんが、たぶん、地元の青年部にいたようなので、お神輿を担いだと思いますよ。
蔵内地区には、子どもたちの虎舞っていう太鼓があって、子どもたちは叩けるんです。
うちの実家のあんちゃん(奥様のお兄さま)は須賀神社の平磯虎舞(天保時代から受け継がれている。打ちばやし独特の勇壮なリズムと繊細な舞いが見もの)っていう郷土芸能で太鼓をやったんですよ。平成3年、それで全国青年大会で最優秀賞を取りました。
津波で、アワビの稚貝が激減したので、もう一度稚貝から育つまでは、3~4年かかると思うんです。アワビは9センチより小さいものは規格外で獲ってはダメなんです。獲ると密漁ですよ。だから、獲るときに大きさを計るんです。小さいと海に返します。
アワビの食感ですが、テレビなんかで「アワビはコリコリして歯ごたえがあっておいしい」っていうのは、あれは嘘ですからね。獲れたてはすごい柔らかいんですよ。1月は風が冷たいので、暖を取るのに七輪を船にのせていますが、その上でアワビを焼いて食べると、香ばしい匂いがして、ほんとにおいしいんです。これは漁師の特権ですね。
田束山(たつがねさん)に行ってみるといいですよ。あそこは、藤原秀衡(ひでひら)があそこを開山して、お経の筒を埋めたんですよね。それが発見されて、霊山と呼ばれています。
お祭りは、5月6月に旧歌津町と旧本吉町でつつじ祭りっていうのをやってたんですよ。旧本吉町というのは、今は気仙沼市と南三陸町に分かれてしまいました。地震で倒れてしまったんですが、三十三観音像や、不動明王像もあります。観音像は大体1メートル50センチくらいのが33体あって、あと高さ5~6メートルの不動明王が1体あります。
大谷地区ってありますよね、あそこは大谷鉱山って金が発見された場所です。藤原氏は金色堂で有名ですが、関係があるって伝承があるんですよ。(注※この地方の金が、奥州藤原氏の黄金文化を支え、平泉中尊寺金色堂に使われたともいわれている)金の採掘の歴史は相当古いものだと思うんです。大谷鉱山は石巻の金華山の下までトンネルが続いてるっていう話もあるくらいですからね。
実はうちのじいちゃんは大谷鉱山に行っていたんです。それが閉鉱になってから、シーサイドパレスで働いたんですよ。
私が子どもの時っていうのは、ゲームなんかない時代だったので、外で遊ぶしかなかったんですね。ボーリングのようなお金がかかるようなことも眼中になく、海遊び、山遊びが得意でしたね。
蛇なんか平気で素手で捕まえてましたよ。そのなかに「ヤマガカシ」っていう、毒蛇で、ほんとは危ないのも混じってたっていうのを、つい最近知りましたから(笑)。
このあたり、蛇は結構いますよ。青大将とか。捕まえてどうするのかって? 友だちの近くに投げるんですよ(笑)。今思えば、かなり問題になるようなことばっかりやってたんですよね(笑)。もう周りがガキ大将の集まりみたいな感じだったので、誰が一番って事じゃなく、みんな過激でした。
たとえば、缶蹴りをやっても、力の加減がないので、川に蹴ったり、堆肥に蹴ったりとか(笑)。それでもルールはルールだから取りにいかなきゃいけないんです。缶を蹴って、最高で屋根に乗っけて、それをはしご使って登って取って来いって言うんですからね。その間に隠れるんですからね。私たちは、ほんと同年代には遠慮しなかったです。あの当時の私たちが今ここにきて、本気出して子どもたちと遊んだら、過激すぎるでしょうね(笑)。
私たちは結構やってたんですが、気仙沼線の線路の上を歩いて行って、トンネルの中を歩いて、わざと汽車が来る時間まで待つようなこともやりました。退避溝の中に隠れて汽車が来るのを待つんです。
チキンレースもやりました。田束山(たつがねさん)の頂上まで自転車で行って・・ブレーキをどこまでかけないで降りて来れるかとかね。麓まで降りてブレーキかけるとブレーキのゴムのパッキンが蒸発するんです。
親も止めませんしね。「お前行って来い」って(笑)。怪我してもいいけど入院するような怪我はするなと。子どもは口で言ってもわからないですから、実際に体験することで、どこまでやれば人は怪我するんだなとか、考える力がつく。
喧嘩をしても、自分が悪いんだったらすぐ謝り、自分が悪くないんだったらなんで悪くないのかっていうことをちゃんと相手に認めさせなさいといけない。力に訴えるのは、もう最後の手段です。殴り合いをするときでも、モノ持ったりはしないという暗黙のルールがありました。次の日は、ノーサイドです。喧嘩したのも忘れて。ふたりでお互いにごめんなさいってね。たんこぶだらけでね。
ゲームの時代になって、自分の子どもは外遊びをやらないから、全然そういう面白さがわからない。かくれんぼはたまにやっても、私たちから見れば「え、それだけ?」みたいなもの足りなさがあります。もうちょっと過激なことやればいいのにと思いますね(笑)。
知らない人が多いと思うけど、私たちの時っていうのは、「ケッタ」というすごく面白い遊びをしたんです。あの石投げてやる「カカシ」と、「かくれんぼ」と、「だるまさんがころんだ」を融合した遊びなんです(遊び方は、谷さんが詳しく書いてくださいました)。
これは大谷地区にも津谷地区にもない、小泉地区だけの遊びなんですよ。たぶん私たちの年代だったらみんなやったことがあると思います。親父の年代だったら知ってますね。同年代、そしてちょっと下の年代だと、3つ4つ下くらいまではわかるんじゃないかな。
ケッタは対抗戦も面白いんです。ちっちゃい子と大きい子が喧嘩してね。踏んだとか踏まないとかね。見つけてないのに名前言ったとか。今やっても本気になると思いますね。
「ケッタ」は自分の子どもたちにも伝えたいんですよね。
秋はサケ、夏はヒラメですか。冬だったらアワビを獲ります。ここのアワビは、養殖したのを放して、それが大きくなるまで待って獲るんですよ。
ウニは自然にあるものを獲ります。ここのはムラサキウニといって、北海道なんかのバフンウニとはまた違って、ちょっと甘いんですね。ウニ丼なんかおいしいですよ。ご飯よりウニの方が多いですからね。
あとは「振興会」というのがあって、人と人とのつながりを作るためにスポーツやゲートボール、そういったイベントとか、体操とか、そういう「年寄りが元気になるには、どういうことをしたらいいか」というのをやるわけね。というのは、今は病院へ行くと年寄りばっかりでしょ? 何でもないのに病院に来ては負担を大きくしている。年取ってくると体を動かさなければならない。体を健康にすればするほど、国はお金がかからないでしょ。
また、その「振興会」とか「契約会」とか「老人会」とか、別々の集まりが一緒に何かをやる場合もあるわけ。どっかでつながる点があるわけね。
「シルバー人材センター」が本吉に発足することになったときは、2年間理事をやらせてもらいました。そういう人の世話をする役回りが嫌で、静かにおとなしく暮らしたいと思って田舎に来たのに・・。
最初は、お掃除とか、買い物とかの仕事がほとんど回ってこないの。でも、段々とシルバーに頼んでくれる人が増えてきました。農家の人なんかは、段々年取って田んぼをやる労力が足りないのね。で、そういう家事を頼むのね。安くてやってくれるし。人材センターにいるお年寄りは、みんな現役をやっていた人だから、助かっているんじゃないですか?
本吉町は、国の推進事業として(平成の大合併)、平成21(2009)年9月、気仙沼市と合併をしたんです。合併に反対する人もいたけど、賛成する人もいて、メリットもあったんだけど、結局、合併してみたらデメリットの方が大きく出てしまったんです。財政的にも安定していたのに、貧乏になっちゃったし、議員さんも少なくなってしまいました。
うちのじいちゃんは、15、6年前に亡くなりましたが、今、小泉の海岸沿いに建物がぽつんってありますよね。あそこは前、かなり有名な遊園地(シーサイドパレス)だったんですよ。そこで働いていました。
あの建物の中には温泉があって、ボーリング場もあったし、動物もいたし。温泉はね、水族館みたいな大きな水槽があって、温泉に入りながらその水槽が見えるっていうのがウリだったんです。私も行きましたね。祖父が働いていたので、たまにこっそり入れてもらったりしてね(笑)。ボーリングは全然できませんが。この施設は昭和53年に閉園になりました。
私は生まれも育ちもずっと小泉なんですよ。住所で言うと、本吉町中島っていうところです。赤崎海岸の近く、川のそばですね。潮干狩りができる場所です。
私は昭和49(1974)年2月12日生まれ。長男で、下に男、女、男、女の順番で5人きょうだいです。一番下が24歳で14歳も離れてるんです。みんなひとつ屋根の下、一緒に住んでた頃はかなり賑やかでした。今はみんな独立して、一番下だけは仙台に住んでいますが、他はみんな近所に住んでいて仲がいいんですよ。
今の家には、ばあちゃん、お袋、親父がいて、私と嫁さんがいて、私の子ども。4世代同居です。この辺では珍しくないですね。長男があとを継ぐっていうのはこの辺ではざらなんです。
実家は農業との兼業漁業ですが、親父は中距離トラックの運転手をやってました。東京などに行くので、帰ってる時に集中して漁業の手伝いをしたんです。
小泉は3つ部落あんのさ。『浜(はま)(蔵内、二十一浜)』、『町(まち)』、『在(ざい)』と。それから4月8日には、『在(ざい)』の御薬師(おやぐし)さまのお祭りをしたんだね。
8月の13日は、『町(まち)』の八幡様、普通は8月15日に八幡様のお祭りをするけども、『町(まち)』は、なんだか早めに13日にするので、「早稲(わせ)八幡」というんだね。今は勝手に日曜日にやるけどね。9月15日には『浜(はま)』の御天皇(ごてんのう)山のお祭り。そんなのは覚えてんだよねえ(爆笑)。そんな昔のことはよく覚えてるんだけど、今のは忘れるんだよねえ。本当におかしいね、今のことは忘れてんだから。
小泉の虎舞はうちの子どもたちも太鼓叩いたし、孫もやるから、20年以上前からだねえ。
そして御天王山(ごてんのうさま)の獅子舞を、虎舞の後にやるようになったの。それを見て、ちゃっこい(小さい)サヤ(お孫さんの名前)が泣いて、泣いて。踊りだすというと虎が動くんだ。そうすっと「おっかねえ、おっかねえ」って泣いて泣いて。歌生(うとう)(本吉町歌生)のお祭りの獅子舞は最近出てきたけんども、小泉のお祭りのは昔からずっとあったのかな。そして、子どもたちが太鼓叩きに行ったのね。
平磯の虎舞はとても盛んで、中国だのなんだのにも公演に結構行ってるってね。
私が子どもの頃には虎舞なんかなかったし、獅子舞もなかった。
私が子どもの頃のお祭りは、風船を膨らましてバァーっと鳴ったり、そういう売り物がいっぱい出たの。お金をもらって、なんか売り物がなんでも、買うのが一番嬉しかったの。うんうん。そのお祭りよりも、その買うのが面白かったんだねぇ。
その頃は、子どもは太鼓を叩かねえの。叩きたいとは思わない。叩くのは全部大人だったの。男だけ。笛も吹いて、その笛さあわせて太鼓を叩いたんだね。今はどこでも、子どもが叩くね。
私が東京に奉公に出て、こっちにいないとき、そうすっと昭和12~13(1937~8)年ごろだね、そんとき、ここで踊りなんか教える人は、誰もいなかったの。そしたら、堤防の石垣作る人が、米川(登米市米川)のほうから来て泊まって、ここの学校の子どもたちに踊りを教えたんだって。その踊りを今もやるんだってよ。
この八幡神社の祭典のときには、いろいろなお祭りの道具がありますが、八幡神社に置いておくと人があまり出入りしないので、盗難などの危険があるんです。ですから、神輿のいろんな飾りも全部外して、獅子頭ですとか、天狗のお面だとか、そう言った貴重なものは全部、家に持ち帰っていました。
その中に木の観音像があったんですよ。これは私の家の家宝だって言うことで、お祀りしてあったんですよ。これは大事なものだからって毎日寝るところの神棚に乗せて。別の棟には、八幡様まで行くのが大変だから、私のうちに八幡神社の分霊で、参拝できる場所を作っておいたのです。そこにも観音像を納めてあったんです。それも津波で無くなってしまいましたね。
お正月には、みなさんが神様参りされるときに、いろんな神飾りを作って差し上げておったわけなんです。年寄りたちに聞かれるんですよ、「全部流されて仮設生活している、今年のお正月はいったいどうすんの?」って。
この海岸地帯の神社は、気仙沼市の十三浜や、石巻の方とか、大分流された神社があります。大谷も、奥にも神社あったんですが、流されまして、道路の近くに赤い鳥居だけが残っています。
そういうところにその、伊勢神宮から、天照皇大神宮っていうお札が配られました。お正月どうすんのって言われるんですけど、なんとか、例年並みに神飾りは作ろうと思ってますと。先祖に申し訳ないという気持ちと、地域の方々の心のよりどころがないと気の毒だという気持ちで、例年の通りのお正月をしようと、そんなふうに考えてます。