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大谷では、天然のワカメを砂の上に置いて干して、ワカメに砂をつけたまますぐ、出荷するんです。業者さんが買っていって、1年間寝かしてどっかに売りに行くんですね。
ワカメは出荷したては固いんだけど、砂つけたまま1年置くと柔らかくなるんで、1年後に食べるんです。乾いたら砂が乾いて、サラッと軽くなるから、ぽろって落ちます。砂をつけておくと(ワカメの質が)変わんないんだね。
母の弟が船乗りでした。この辺は開口の規制が厳しいから、海に素潜りして採る人はあんまりいませんでしたね。船を持ってない人は陸(おか)から行って泳いで採ったり。
ちょうど大谷海岸のところは、今は泳ぐ(陸前階上駅すぐの御伊勢浜は有名な海水浴場)けど、もとはみんな、全部、天然ワカメの干し場だったんです。私が小学生ぐらいのときは、どこでもそうだった、大谷海岸は。私は大谷の母親の実家で育てられたから、それをずっと見てたんだね。
私は昭和2(1927)年8月5日、ここ小泉に生まれました。
私の父親も教員で、本吉町大谷の小学校中学校に勤めていました。自宅は小泉でしたけども、その当時は、教員が転勤していくと家族が全部移動して、そこの大谷の学校の校舎のすぐ隣の住宅に住まったんですね。私はそこで生まれたんです。母親は、ミシンかけ、昔は裁縫と言いましたが、そういうのを近くのお母さんに教えていました。
学校のすぐ向かいにお爺さんがいて、良く可愛がられました。大谷の海岸にお爺さんの船があって、アワビや、ウニを獲る漁をしてたんです。ときたまその船に乗せて遊びに連れて行ってもらいました。
そのうちにお爺さんがずいぶん年配で亡くなって、だいぶ年月経ってから、その家の息子さんのところに、「あの、山内っていうんですが、お爺さんにお世話になったんです」って言ったら、覚えててくれましてね。「ああ、よく来てくれました。ほんとにめんこがった(可愛がった)親父は亡くなりましたけど、何かあったら私も親父のように船に乗せて行きますからね」って言ってくれたんです。そんなわけで大谷は一番、印象深かったです。
昔は兄弟多かったんですが、うちも5人兄弟でした。長男、次男、長女、三男が私、5人目は次女。一番上の兄は、戦時中、21歳でニューギニアで戦死したんです。日本の国がだんだん悪くなって来たころで、死んだんだけど骨もなにも還って来ないんですよ。母親が嘆いたんですよね。「お国のために死んだのになぜ何も来ないのか」ってね。それで2番目の兄は50歳で病気で亡くなりました。長女は病気で亡くなりましたので、今残ってるのは私と妹ですね。
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