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大谷では、天然のワカメを砂の上に置いて干して、ワカメに砂をつけたまますぐ、出荷するんです。業者さんが買っていって、1年間寝かしてどっかに売りに行くんですね。
ワカメは出荷したては固いんだけど、砂つけたまま1年置くと柔らかくなるんで、1年後に食べるんです。乾いたら砂が乾いて、サラッと軽くなるから、ぽろって落ちます。砂をつけておくと(ワカメの質が)変わんないんだね。
母の弟が船乗りでした。この辺は開口の規制が厳しいから、海に素潜りして採る人はあんまりいませんでしたね。船を持ってない人は陸(おか)から行って泳いで採ったり。
ちょうど大谷海岸のところは、今は泳ぐ(陸前階上駅すぐの御伊勢浜は有名な海水浴場)けど、もとはみんな、全部、天然ワカメの干し場だったんです。私が小学生ぐらいのときは、どこでもそうだった、大谷海岸は。私は大谷の母親の実家で育てられたから、それをずっと見てたんだね。
この八幡神社の祭典のときには、いろいろなお祭りの道具がありますが、八幡神社に置いておくと人があまり出入りしないので、盗難などの危険があるんです。ですから、神輿のいろんな飾りも全部外して、獅子頭ですとか、天狗のお面だとか、そう言った貴重なものは全部、家に持ち帰っていました。
その中に木の観音像があったんですよ。これは私の家の家宝だって言うことで、お祀りしてあったんですよ。これは大事なものだからって毎日寝るところの神棚に乗せて。別の棟には、八幡様まで行くのが大変だから、私のうちに八幡神社の分霊で、参拝できる場所を作っておいたのです。そこにも観音像を納めてあったんです。それも津波で無くなってしまいましたね。
お正月には、みなさんが神様参りされるときに、いろんな神飾りを作って差し上げておったわけなんです。年寄りたちに聞かれるんですよ、「全部流されて仮設生活している、今年のお正月はいったいどうすんの?」って。
この海岸地帯の神社は、気仙沼市の十三浜や、石巻の方とか、大分流された神社があります。大谷も、奥にも神社あったんですが、流されまして、道路の近くに赤い鳥居だけが残っています。
そういうところにその、伊勢神宮から、天照皇大神宮っていうお札が配られました。お正月どうすんのって言われるんですけど、なんとか、例年並みに神飾りは作ろうと思ってますと。先祖に申し訳ないという気持ちと、地域の方々の心のよりどころがないと気の毒だという気持ちで、例年の通りのお正月をしようと、そんなふうに考えてます。
私たちは、入学の時は国民学校です。昭和20(1945)年、小学校2年生の時に終戦になりました。
終戦になる1カ月前かな? 大谷の海があって堤防がずっとあって、そこにパルプ船、山の木を伐ったのを積む大きな船があったんです。その船にアメリカの飛行機が飛んで来て空襲警報が鳴って爆弾を落とした。7月21日です。
私が囲炉裏で膝をついて、おばあちゃんに湯のみを出して「お湯ちょうだい」ってした、ちょうどその時に爆弾が落ちたの。直ぐ近くのことだからビックリしてしまって、ビックリした勢いで耳に熱湯を注いでしまって鼓膜が焼けてしまいました。だから、今は補聴器を使っています。
小学校2年生で終戦を迎えたので、それからは大谷小学校です。同じ学校なのに名前が変わったの。教科書も立派な紙じゃなくて、バラ版、茶色の紙でガリ版印刷みたいなもので、直ぐに壊れてしまって。カバンもランドセルなんだけど、紙でできたランドセルでした。半年も持たないうちに蓋がもげちゃう! 色だけは赤かったです。女の子が赤、男の子が黒でした。
今のランドセルは6年間持っても新品みたいだけど、紙のランドセルは毎日使っているとボロボロになってくるの。画用紙を張り合わせたような感じでしたね。
私たちの学年は、最初は110人でした。それが、近くに「大谷金山」があるから家族みんなで働きに来る人がいたり、都会は空襲が激しくなってあちこちの家へ疎開してくる人がいたりで、学年159人まで急に増えました。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
私の父、お父ちゃんは魚屋さんでした。大谷には「大網(マグロ・イワシ・サバなどの回遊魚を捕らえる目的で、あらかじめ海中に建て込んでおく定置網に近い仕掛け網。入りくんだ岩礁地帯が続き、海藻類が多い本吉地方沿岸では盛んに行われていたという)」というのが3丁目と日門にあって、朝2時頃沖へ行って4時半頃にはお魚をいっぱい獲って帰りました。その網からお魚を買って自転車に積んで売りに行くのが父の仕事でした。
お父ちゃんは、米川(宮城県登米市東和町、内陸部にあたる)くらいまで売りに行っていました。魚箱を2つ積んで自転車で1時間くらい。行きは上り坂だから、家の人が付いて行って自転車を押してね。子どもたちを2人くらい連れて行きました。一生懸命働いたお父ちゃんでした。行商です。商売相手は個人のお客さんでした。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
この地域は大きく分けて、南部、中部、北部とあったんです。歌津、志津川、小泉が中部、大谷から気仙沼まで北部。地域には昔から決まった青年団があったから、クラブもあったけどもそっちには入らないで、青年団に入りました。歌津町青年団です。青年団というのは、たくさんやる仕事があって、一生懸命やりました。
主に体育関係だね。毎年9月あたりに、青年団で仙台まで行って、体育大会をするんです。私はリレーに出ていたのですが、青年団に入る前、学校にいたときから1番走者でした。スタートは大変だからね。1番走者ばかりやらされました。
自分たちが練習していたグラウンドが狭かったの。校庭が1周200mしかなかったんです。だから、コーナーがすぐに回ってくる。だけど、仙台の競技場は1周400m。200mのコースばかりでやってきたから、どこでハネて(一生懸命やって)いいかわかんなくて、勝手が違って、呼吸(ペース配分)が分からなかったから、やっぱり負けてしまった。直線コースだけは一生懸命やっていたんですが先頭になった人は追い越せないんですね。
あとは、算盤(そろばん)をしたり。
私は若い人に算盤も教えました。免許は何級も持たねえけども、読み上げ算、掛け算、割り算、暗証でね2桁までやった。中央でそろばんの競技会があって、集まってみんなでやったんです。競技会に出ると、先生に「お前なぁ、そろばんが上手いから、上海(しゃんはい)銀行さ行け」って言われたこともある。だげっともお袋1人残して上海に行かれねぇから、行かないでしまったのさ。
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