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私が子供の頃、うちでは米、大麦、大根、白菜を作ってました。家で食べる分を採って、残りを農協に売って。私が生まれたこの辺の人たちは、食べる分は自分とこで採ってたんじゃないかと思います。
海のものも豊富でしたからね。自給自足できる感じですね。海藻、アワビ、ウニ、あとはタコ。そういうのがいっぱい、獲れたんですよ。ええ、ごちそうです。
私の子ども時代は、食糧難だから、食べ物がないとき。今食べている梨もない。畑へ行って大根を盗んで食う・・そんなのが遊びだった時代です。大根は生もなにも、なんでも生で食べたね。
サツマイモを食べてるのは良い方。大根の葉っぱだの、そこらにある草っぱ、葉っぱがあるものを採ってきて食べたり、今の人たちは食べれないだろうね。肉もないから、山にいるウサギを捕って食べたりね。
「縦の糸はあなた、横の糸は私──夫婦の自分史」千葉貞雄さん・きちよさん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和4(1929)年生まれ
子どもの頃のおやつといえば、豆もちもうまかった。いっちゃん、かんちゃんと3人でかくれんぼして、かんちゃんがオニになっちゃって、「まーだだよ」って言っている間に、ふたりで「食ってしまおう!」って・・。食べてるところを見つかって、「お前ら何やってんだー!!」ってね(笑)。
豆もちとか、すみもちとか、草もちとか、きな粉を絡めたものを、ばあちゃんが出してくれたりしました。また、同級生のおばあちゃんが、畑で作ってくれた瓜を冷やして食べさせてくれたのを覚えています。だから、本当におやつと言えば手作りのものでした。芋を茹でたものとか、遊びに行った家のおばさんが子どもたちに出してくれているのが、3時のおやつだった時代です。
それから、柿をくすねたりも・・「あそこの柿は甘いから食べよう!」ってかんちゃんが言うので食べてみたら渋柿で、「ウワ~!!」って口から出したり(笑)。そのあと、その渋だらけの口をどうしたかって言うと、今度は人様の家の大根をくすねて食べたり・・。そういうことを大人は黙って許してくれた時代でした。いっちゃん、かんちゃんとは、本当に3人でよく遊びました。
ごはんはね、麦を一杯食べました。そこに米を混ぜて、それでも量が足んなくて大根を足したのね。なんていうの、カテ(いわゆる「かてめし」のこと)っていったのかな。とにかく鍋に麦も、大根も入れて、そこに米も入れる。だから、米だけ炊くんならば簡単だけども、そういうのも入れっからね。あの頃と今は、本当に変わったね。麦なんか見あたらないよね。なんであんなに麦食べたんだろうねぇ。米と麦、どっちが美味しいって、米が美味しい! 米はお正月だけ。米のごはんはお正月だけで、その他は、お盆におこわなんかするからね。今の人たちは、おこわなんか珍しくも何も無いのにねえ。
「お正月はいいもんだ 雪のようなご飯食べて 油のような酒飲んで お正月はいいもんだ」 だっけか。そういう歌があったんだよな~あ。
(お正月の歌は口伝えで伝承されており、いろいろな歌詞があるようです)
ずっと昔は、酒っこもお正月しか飲まないんだよ。普通には飲まない。それはずっと昔の事だよ。今は、子どもたちも私も弟たちも、よそにてんでに(ばらばらに)暮らしてるから、寄る(集まる)というと、みんな酒っこが好きなの。だから私もおすばて作りに来い来い、っていうけどもね、話の相手はさっぱり。飲むことばっかり(笑)。
あっ、餅が一番ごちそう。餅が一番のごちそうなの。なんか喜びごとなんかがあると餅つくのね。それが一番のごちそうなの。あとはお正月は、粟餅だの、小豆餅だの、いっぱい作るんだな。餅もちつくとき米だけでなく、そういうのを入れたんだね。お正月じゅうお昼には餅焼いて食べたんだな。
お米食べるようになったのは、この頃でねえっぺかなあ? いつ頃か忘れたよう。ずっと昔のことは覚えてんけどね、今のことは忘れるの。あらあらあら。
だけんども、子どもが田束山さんの遠足だの、お祭りだの、どっかさ行くといえば、みんながするように、おにぎりさ梅干いれて白いごはんを食べさせたけど、ふつうは麦が入ったの食べたね。
うちでは、葉タバコ、米、野菜を作っていました。いろんな野菜を作っていました。大根、白菜は当然のこと、ニンジンも作ってましたね。
今のように野菜を市場に出荷し始めたのは昭和52(1977)年からのことで、その前はすべてお袋がリヤカーで売り歩いていたんです。だから毎日現金収入がありました。1日売れば少ないときでも5~6千円入ってきました。そのお金は日々の生活に使いました。タバコと米は年に1回の清算でした。
そのほか酪農をしていました。酪農は親父と長女と2人で牛を4~5頭飼っていたんです。昔の乳価は高くて、月1回の清算で、そのお金で物置を立てたり土地を買ったりしていました。
昔は野菜と酪農を同時に営む人は多かったんです。養蚕やってた人もいました。しかし、中瀬町では海で生計を立てている人はいませんでしたね。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
お米は食べられたと言っても、いろいろなものを混ぜて食べました。麦ばかりじゃなくて大根の葉の干したものや、ひじきご飯とか、サツマイモのご飯だとか、いろいろです(かて飯)。食べ物が本当に無い時代でしたから、学校のお弁当にはサツマイモを蒸かしたものや、きんとんを持って行きました。
きんとんってわかる? じゃがいもを煮て、皮を取ってすりこぎで潰してね、家族が多いから、お餅をつく臼に皮をむいたじゃがいもを入れてペッタンペッタン潰して少し粘りを出してから丸めて、花みたいにひねって格好をつけて。砂糖が無かったから先っちょに味噌をつけて、それを弁当缶に入れて持って行ったりしました。
家で畑もしていたから、小麦を蒔いて、小麦の粉で今ならホットケーキみたいなのを焼いて食べたりもしました。
砂糖といえば、戦後、小学校5年生くらいになると砂糖の配給がありました。その砂糖も、ザラメみたいな、目の細かいザラメって感じで、そこに毛布や南京袋のクズみたいなのが混じっているようなやつ。今なら大騒ぎでしょうね。その頃一緒にとうもろこしの粉も配給になったので、やっぱりお菓子を作ったね。作ったお菓子に砂糖をつけて食べて・・・。いろいろな代用食も作りました。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
ウチは両親が結婚する時に船を持って組合員になって、漁業権も持っていたので、夏はウニ獲り、11月はアワビ獲り。畑もあったので、大根とか白菜とか、そういう物を食べて、おかずって特別に考えたことはないですね。
私が小さい頃、昆布の開口と言うのもあって、その日は赤崎海岸に親が船で昆布を持ってくると、それを私と妹で伸ばして干して、夕方になったら全部まとめて家に持ってきて、そのままだと乾いてガリガリになっているから、少ししとらせて(湿らせて)長さを揃えて切り分けて、業者に買ってもらいました。
芝から出てきてからは自力で生活していくしかなかったから、ワカメでも昆布でも、現金になるものは私たち子どもも手伝ってやりました。
子どもの頃の楽しみといえば、やっぱり食べることなんですね。お腹がいつも空いていましたからね。山へ行って、くわご(桑の実の方言)とか、後は、茱萸(ぐみ)を採って食べるのが楽しみでした。
自然の恵みが多いとかそういうことではなくて、子どもの人数が多くて、皆が採るから競争みたいなもんですよ。当時は1クラスが40~50人。3組あって1学年150人くらいでした。
海にも、行きましたよ。潜って、タコを獲ったり・・。
そういうふうに遊んでいると、お腹が空いたり、喉が乾いたりするから、途中の畑に入って大根があれば、ちょっと無断で大根を頂いて食べたりしました。大根はね、土から顔を出している青い部分が甘いんだよ。お天道さまが当たっているところが青くなるでしょう? そこが甘いんです。で、そこを食べると美味しいの。下は辛いから・・。そういう時、犯罪意識とかそんな大げさなことは考えませんでしたね。今とは感覚が違いますね。とにかく、背に腹は代えられないと・・。
品種改良が進んでいないから、野菜なんかも今とは違います。美味しいというのが少し違うと思います。この辺は、梨とかリンゴもあまり無かったね。今は、ドンドン品種改良が進んで、種なしブドウとか出ていますけれど、当時喜んで食べていた物って、今ではあんまり売れないんじゃないかな?
柿は、当時からありました。甘柿と渋柿とありますね? 甘柿というのは、まだ木になっている青いうちから甘いんですよ。だから、そういうのは見逃しません(笑)。1つ無くなり、2つ無くなりしてね・・。その柿の木のある家の人たちの口には、ほとんど入らなかったと思いますよ。
「お正月は、お餅!」って思うだろうけど、お米がある人たちばかりじゃないから、もち米ばっかりじゃなくて、色々なものを混ぜて、豆を入れて豆餅とか、よもぎを混ぜて草餅とか。今は、わざわざそういう物を入れたほうが美味しいなんて言うけどさ。
で、もち米にうるち米(普段食べているご飯のお米)も混ぜるから、粘りのない餅になるんです。焼いても、食べると「ぼっきらぼっきら」って。ウチの弟は、「うる米餅はいらない」なんて言いました。ウチの弟だけじゃないけどね。
私たちは、蕎麦だって、とうもろこしだって、みんな作ったんだから。粟もヒエも。で、戦争中は「かてご飯」って、豆を入れたり、大根の葉っぱを干して刻んで、炊きこみにしてね。大根の茎からね、栄養にもなるし。今だって食べるには食べられるのよ。今だってやればやれるのよ。ご飯でもなんでもね。粟だのヒエだのは、お餅に入れてね、米がないから、白い餅って食べたことがなかったの。
お正月なんかは、米を挽いて粉にして餅にしてね、それが一番豪華でした。後は、よもぎを採ってきて干して擦って粉にして、それもまた米に混ぜて、もち米に混ぜて草餅にして、そんなのは一番豪華でした。食べられない人もいる時代です。それを作って皆で一緒にね、食べたんです。本当にいろいろなことをしました。今の草餅は色で入れたりして、本当の草では無いからね。
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