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華足寺では33年に一回御開帳ってあるんだって。それがいつかは私も定かではありませんけども。で、これは言い伝えなんだけどもね。親父から聞いた話では、坂上田村麻呂将軍のしゃれこうべがあるってことなんですよね。ご開帳の時には、私みたいな総代の人が、いっぱい外から見に来た人に説明するわけだ。
その当時、ある人が説明して、「これが坂上田村麻呂のしゃれこうべです」となったわけだ。したら、ある人が、「田村麻呂って人は、おっきな人だと思ったけど、ちっちゃな人だったんだね」って言ったっていうんだね。そしたらその人が、とたんにね、「これは幼き時のしゃれこうべです」って冗談で言ったんだって。そしたらその人も「ああ、そうすかね」って引きさがったっていうんだね(笑)。今の人たちはすぐに「だれ~」って反感こめて言うっちゃ。昔の時代は良かったなって、ね(笑)。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
延暦21年(802)坂上田村麻呂が東征の際、戦没者の霊を慰める為、死んだ愛馬をこの地に葬るため堂を建てて本尊に馬頭明王を安置したのが始まりといわれています。開山は坂上田村麻呂の霊を弔う為大同2年(807)建立されたとあります。ご本尊が鱒渕馬頭観音大菩薩という動物憐憫の観音さまということで全国の馬、牛などを扱う人びとから信仰されています。本堂庫裡には古い絵馬や奉納された競馬や共進会での牛馬の写真などが数多くかけられています。
鱒渕には、華足寺(けそくじ)があって、そこには馬の神様が祭られています。
昔はここは蝦夷地で(武士の勢力)争いが絶えない場所でした。この地に伝わる伝説があります。坂上田村麻呂が乗ってきたのが郷黒(きょうごく)という名馬で、新幹線なみに速いと言われていました。この地で馬が死に、村人たちが丁寧に葬ったのですが、夜になると異様な光が村人たちを照らしました。穴を掘ると、馬の亡骸は一寸八分の馬頭観音に化身していたのです。それが馬頭観音様、という言い伝えです。
ほかにも、地名にまつわる伝説は多く、1200年前の絵日記があって、坂上田村麻呂将軍がこの地を制定するときに悪童がいてその場所が悪童ヶ原という場所になりました。坂上田村麻呂一族が敵を追って、次々と3本の矢を放った場所が「一の矢」、「二の矢」、「三の矢」などという地名に残っていたり、悪童が這い上がる坂を「這坂」、郷黒が岩にひずめの足跡を残した岩があり、その地域を「馬の足」と呼んだりするのです。
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