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菊を作り始めたのは平成元年(1989)年からです。私より6歳下の及川隆君(JAの元組合長。志津川農協に大学卒業後に就職、花の栽培研修で訪欧後、その成果は「JA南三陸」の主力商品「黄金郷」のブランド菊として開花した)に「菊儲かっから一緒に作んない?」って言われたのがきっかけです。彼は頭の回転も速く、きっちりと物事を考える人で、農協の組合長をやって、42歳の若さで亡くなるまで、私とは兄弟のように接していました。
本格的に菊一本にしたのは平成3~4(1991~2)年のことです。それまではトマトと掛け持ちで栽培していました。菊専用にしてからまだ15~6年しかたってないんです。ホウレンソウは一時やめたこともありますが、菊の単価が下がってきたので、また作るようになりました。
ビニールハウスは3か所あって、12百坪の広さがありました。平成13(2001)年に息子が短大を卒業して農家をやるって言って建てたハウスでした。
これが10年足らずで、あの津波によって、2千万の土地がパーですからね。家を流されてもいいですが、仕事場を失うというのは辛い。確かに生まれ育った家だから未練がないと言えばうそになるけど、建て替える気持ちを持っていたので、勿体なさは無い。しかし昭和47(1972)年からコツコツと投資してきた40年間のハウスの蓄積ってやっぱり大きいんですよ。試行錯誤してやってきたから。ここで本格的に野菜から菊に切り替えたのは私が最初だから、なおさらです。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
昭和52(1977)年ごろからホウレンソウは市場に出荷していました。当時夏場にホウレンソウを出荷する人はいなかったんです。ホウレンソウはもともと冬の作物ですから。作物には、長日性作物と短日性作物との2つがあって、長日性は日が長くなって花咲くもの、単日性は日が短くなって花芽が付くものです。ホウレンソウは典型的な長日性なので、夏、種をまいて17、18cmぐらいになった時に花芽を取り去って市場に持って行ってみたら、市場で受付のやり方を聞いている間にそれが売れてしまったんです。なんと(250g1束あたり)400円の高値で売れたんです。当時の400円ですよ。それは当時、「先取り」と言って欲しい人が先に持って行ってしまう方法でした。そんな時代もありました。
それから野菜研究会という組織を立ち上げて、最終的には100人以上の組織になりました。後に農協内にホウレンソウ部会を作って会長をやって、夏場のホウレンソウ出荷を定着させるよう努力してきたんです。
本格的に野菜を市場に出荷し始めたのは昭和55(1980)年、大冷害の年でした。米の収入はゼロでしたが、国からの補償金で何とかなりました。しかし、それをきっかけにもう田んぼは儲からない、ということで、ハウス栽培に切り替えたんです。息子も生まれた時だし、百姓を継ぐ気持ちもあったから、借金をして昭和56(1981)年に750坪の土地にビニールハウスを建てました。そこは道路よりも1m以上低い土地だったので180万円かけて埋め立てて、その上にハウスを建てたんです。その時女房には話さずにやったので、今でも「相談してくれなかった」って女房に言われますね。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
三陸ホウレンソウは、海から吹く冷たく湿った三陸特有の季節風、山背(やませ)を上手く利用して作ります。ホウレンソウは暑いとうまくできないんです。だけど、三陸は夏でも山背が吹くので、ビニールハウスの天井だけビニールをかけて、両サイドは開放してやれば、うまく育つんです。ビニールは日光も80%くらいしか通さないので、屋根だけ張ってやると夏でも冷たい風が吹き込んで暑くならない。夏物のホウレンソウは、なかなか出ないんですよ。品物も、仙台の山元町のように暖かいところで作るものとは違うんです。葉が肉厚で、いいホウレンソウができる。自然をうまく利用しているんです。
私の実家は伊里前にありました。前町切(まえちょうぎり)の場所よりも下。敷地は380坪ほどあったでしょうか。お祖父ちゃんの代から農業一本の家系で、今も、山林40町、水田1町、畑5反歩はあります。馬2頭、牛2頭を飼って、昭和60(1985)年ごろまでは桑畑も2、3反歩ありました。蚕を飼って生糸も取っていたんですよ。でも、平成4(1992)年、私が町長になる直前に、桑は全部抜いて、銀杏を植えたりもしました。その後は、30反くらいを使ってハウス栽培でイチゴやホウレンソウを作りました。
最初はお母ちゃんと2人でイチゴを始めたんですが、だんだん腰が痛くなったので、最後はホウレンソウをやりました。大きな農家ではありませんが、昭和30年ごろには8反歩の農地があったので、歌津駅から自宅まで他人の土地を通らずに帰って来ることができたんです。その土地に、やがて鉄道が走り、役場や商工会、仙台銀行、駐在所などができた。鉄道のトンネルを掘って出た土なども、全部田んぼに埋めました。敷地の中に何でも揃っていて、それは便利でした。ちなみに、漁業権はお祖父ちゃんが亡くなったときに使うこともないだろうと手放したそうです。
うちは親父の代から半農半漁でした。親父は私が15歳のとき、44歳で亡くなったんです。母は今80歳。元気に農業やってますよ。ホウレンソウを蒔いていて、今日も畑に出掛けていきました。もうね、動いてなきゃだめなんですね。週に1回は熊谷流の踊りに行ってますね。好きなんだね。
この踊りは、公民館主催で社会教育の関係でやっているんですが、80歳になる人が、老人ホームの慰問に行くんですよ。自分が慰問される歳なのに、「慰問に行ってくるわ」って出かけていく。あんまり元気なんで、私の方が先にあの世に逝っちゃうかも知れない、と思うことがあります。母には「順番間違えんなよ」と言われていますが、こればっかりは分からないですね(笑)。
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