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私たちは、その後、「つつじ苑」っていう養護院に避難したの。狭いところにこうやって寝たけれども、畳の上に寝たから、まずはよかったのね。畳1枚か2枚に3人か4人くらいで寝たんです。おしっこで夜起きても、足の踏み場がないけど、暖だけはとれたからね。
女の人たちはかまどを作って、カマとかを拾い集めて、米は応援してもらってきて、そこでご飯を炊いたり、おつゆを作ったり、畑に行って、白菜とか野菜とってきて食べたりしたから、あそこでは良かったんだ。大きいカマがあるからそれにお湯をくんで、顔を洗うとか、なんかほら、寒い時だから、水じゃ大変だからお湯を沸かしたり。いろんなことをやったね。湯飲み茶わんとか探せばいっぱいあるから。洗えば、済むものだから。つつじ苑で助かったのさ。
でもやっぱりあそこに避難しても様々ね。朝ご飯つくらないで、自分の家に何かないかと思って、探しに行ったり、避難先ではろくな手伝いもしないで、ご飯出ればご飯食べて、また自分のものを探しに行って。そういう自分のことしか考えない人たちが何組もあったの。「かばねやみ(※宮城の方言で、本当はできるにもかかわらず、なんのかんのと理由をこじつけてなにもしないこと、またそういう人)」だね。私たちは箸(はし)もなにもないから、竹を切って、竹で箸つくって、そういう応援ばかりしてました。韮(にら)の浜の人たちにも何十本も箸を作ったら、「記念だから、しまっておく」って語った人もいたね。米だって隠しておいたの、すぐには背負ってこれないからって置いといたら、3日もたてば横から穴開けてかっぱらって食べた人もあったし。でもだいたい盗んだ人わかるのね。500円玉入れておいた貯金箱も4個流されて、1個あった~!と思ったら中身抜かれてね、他は拾われて見つかんない。
支援は医療関係の人たちは早かったね。そして3日目か、4日目か、長野からトラックで第1便来て、炊き出しやってもらった。その人たちが今度、炊き出しをしているうちに話し合って、話がすすんで、材料全部長野からもってきて、山に小屋を作ってもらった。
終戦後、登米郡の南方に日立の疎開工場がいろんな機械を持ってきて農機具を造り始めたんですね。そこがいいからって紹介してくれた人がいて、そこで仕事を始め、2年くらい働きました。そのうち、小泉小時代の恩師の千葉ツトムさんが、「学校の先生になってみねえか、試験受けてみねえか」と勧めてくれたんです。「うん、悪くもねえな」と思って(笑)。そして試験受けたら、運よくパスしました。21~2歳ごろでした。当時は、小泉に学制発布で新しく中学校ができたころで、そこへ行きなさい、というわけで中学校の教員になったと。それから40年も経ってます(笑)。
教員になったときの辞令や、履歴書、等級の辞令には給料まで書いてあったんですが、そういうのもみんな津波に流されてしまったので、あまり覚えていないです。初任給はたしか、300円だったかな。
教科は理科でした。それがね、ある方に、「ひとつの教科でしか教員免許状もってないのは『かばねやみ』だ」。つまり、あんまり勉強してねえやつだと言われたんですよ。「バカなこと言うな」って言ったんですよ。「よし、その頑張って他の免許をとる」と心に決めました。そして技術家庭と美術で免許を取りました。その後は主に理科を教えながら、その学校によって人員が足りない時などに技術や美術を担当したりしていました。
最初に配属になった小泉中学校に10何年と一番長く勤めましたが、その当時教え子だった人はほとんどいい年配になっています。その次がお隣の本吉町の津谷中学校に9年ほど勤めました。本吉町の気仙沼市の支所に行くと、教え子が役所についていたりします。で、そこに行くとお茶しようと語られる(誘われる)もんだから、「なんだおめ、仕事しないで駄目じゃねえか」って言うのに、「いいからお茶っこしよう」と言う(笑)。教え子と居るのが一番楽しいですね。
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