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華足寺は本当にみなさんに見てもらいたいの。
私たち子どもの頃には、お祭りがあるっていうと、授業は午前中だけで、あとはお山(華足寺)さ登ってええってことになってたからね。それだけ学校っていうのは、地方のお祭りってことで、私たちは行事に参加させられてたんだね。学校帰って山さ登って、あと、馬に蹴っ飛ばされないように注意されてね。そういう時代でした。
演芸会はね。ここ何年だよな。5年ぐらい前からこの地元の人たちがやるようになった。というのは、前は踊る人たちを、他から頼んで来て貰ってたのね。そして、こちらで舞台をかけてやって、踊り終わった時に御礼として10万円だかをやったわけだ。そういう催しをなんとか鱒淵でやんねえかってことになって、部落で3人だか5人だか寄って後援会を組織して、その人たちの手によって演芸会が始まったわけさ。
演芸会に出る人は、歌とか踊りとか、自分たちで練習して。そして謝礼として、半分の5万円を貰うわけ。だから経費が半分になったわけだ。私も後援会の顧問だかにされてるようだけっども。
お祭りが第4日曜日になったっていうのは、平成24(2012)年度から、去年からだね。今までは4月の19日と決まってたの。何曜日だろうと動かせなかったわけ。ところが、やっぱり若い人たちがなんとか日曜日にしてけろ、という声が多かったもんで、「お参りに来るのは鱒淵だけじゃないから、1年くらい余裕けろ」と。一関だの伊豆沼からだのお参りに来てる人たちに今年からお祭りがいつになりますよ、ってのを案内出してやらないとね。
そんなこんなあったから、1年間だけ延びかして、平成24年から春の大祭は4月の第4日曜日、秋の大祭は10月の第4日曜になったわけだ。4月の第3日曜日っていうと、まだお山の桜が咲かねえのさ。それで桜が咲く時期がいいんでねえか、ってことで、第4にしたわけ。第4日曜日でも1週間ぐらい違う時あっから、必ずしも桜がその時期に咲く訳ではなかっど、今までの調査で第4のほうが桜の花が見られるということで。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
議員になったのは、自分でもわかんないんだけっど、自分で好(す)き好(この)んでやったわけでなくって、とにかく鱒淵の先輩議員の後継者に推されるままになってしまったんだね。
平成5(1993)~17(2005)年まで、3期12年やったね。そんな大変じゃないよ。議員だからってなにも真剣にあれするわけでねえし、資金があるわけでねえし。
ただね、弥惣峠(やそうとうげ)から入谷(いりや)の道路(志津川入谷から弥惣峠を越えて東和鱒渕・米川方面にぬけるルート)が通行止めのままなのは、歌人じゃねえけど、頭来たからさ、市長さぶつけてやろうと思ってさ、歌にして。
尽くせども 尽くし足りぬか
弥惣峠(やそうとうげ)
雪かきされずに行き来できぬとは
昭和25年1月
登米市長様
尚衛
というのはね、平成19(2007)年に鱒淵の地域振興協議会ってのを発足させたんだけどね、区長さんとか肩書に「長」の付く人たち16人でひとつの会を作って、裏観音様の道路づくり(華足寺の参道の整備事業)から始まったのさ。
それでそいつでまあまあの成果が出たんだね。当時登米市から出た補助金が39万1000円ですか、その中でいろんな資材を調達したけど、そのお金では飲み食いなんかできないわけさ。それをわれわれ声かけた者が出し合ってやりました。250円弁当だけどね。奉仕だから。無報酬だからね。
そういう風にうまくいったもんだから、平成23(2011)~24(2012)年に今度は弥忽峠と入谷を結ぶ3.5kmの整備に立ち向かってやったのさ。土日だけっても、みなさんが協力してくれてねえ。2年間で約200人が入谷への道路をきれいにする奉仕作業したのさ。土日の朝8時なら8時に集会所に寄ってそして4時半まで働いて貰ってね。2年間で約200人が、道幅さ覆いかぶさってる杉の板さ、それから道路を砕石したりとかいろいろ奉仕活動をやったんだね。だけっど、そこは登米市の道路なんだ。開通の時は布施市長も来て、記念写真撮ったりなんかしてやるのに、なんか今は通行止めみたいな形になってるのさ。ぜんぜん除雪しないから、登れねえわけだ。そして、「除雪の対象にはこの道路は入っていない」って、こう蹴られたから、すっかり頭さ来てね。さっきみたいなことが自然とでてくるわけね。あれだけ尽くしても尽くしたりねえのかな、と。ガクンと来るんだねえ。
ほんとに必要な道路なのさ。ここのね、鱒淵っていうところは250~60軒あるんだけども、70何軒のひとがまだ行き来しなけりゃならねえほどの縁組なのさ。
その人たちのここ行った場合と、ちょうどね、ここの道路から弥惣の頂上まで3.5kmしかねえのさ。して、あっちも3.5km。林際のさんさん館にたどり着くんだけどね。そいつがこっち「ぐるーっと回ってくると言うと、27.7kmあるのさ。米谷(まいや)回って行くと。約4倍でしょ? だから、それだけ短縮なんだけっども、そういうことを市長にも言ってやったんだけっども、除雪する道路さ入ってねえんだ。弥惣(やそう)線が、わずか3.5kmが。その人たちがなんぼ苦労してるかわかんねえからね。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
俺は高校は行かなかったからね。みんなが高校さいくときに、農業の傍らに、馬を引いて山さ丸太出し行ったのよ。山から、切った材木をそのままソリに積んで馬にひかせて。「地駄引(じだび)き」って言うんだけどね。それを中学校終わってから、足掛け11年やったのかな。
農業の方は季節的にある時とない時があるんだけっども、その合間に地駄引きをしたんだね。
馬は自分の家の馬で、この地域には当時は十数頭いたった、その中の1匹だったのよ。北海道から来た馬で。品種はヨーロッパ産の「アングロ・ノルマン」っていう、そういう引き馬に適したので、馬そのものには名前もなにも言わないこったね。ペットではないんだね。
馬の世話は俺だけでなく、あと家のみんなで、草を刈ったりなんかして世話やったの。そういう生活を昭和30何年までやったんだね。
運搬する木材は、杉だの松だの、いろんなもの。いまみたいに雑木林っていうと杉と松。杉と松の比率は昔とそんなに変わってねえと思うね。松の場合はある程度、自分で植えなくてもほれ、自然に生えるし、杉の場合はほとんど植林してるからね。
前の町長さんが青空工場を推進してね。今みたいに木材の価格が安くなるって誰しも思わないから、とにかく山野率が80何パーセントの東和町、切ったら植えてと政治的にもそういう政策だったんじゃないですか? 例えば補助金出したりね。そんなで、植林やったから、今いたるところに杉が生えてるわけさ。杉なんてのは切ってしまえばちょこっとは生えてくるけれども、きちんとした林にはならないわけだ。松の場合は種を鳥が持っていくか、何が持っていくか自然に生えるけどね。
材木を運ぶ馬橇(ばそり)は、丸太を積むぐれえの丈夫なもんだから、ボルトを留めてしっかり作って、滑りやすいようにソリの鼻を削ってさ。松じゃなく、加工しやすい杉で作るの。
1日山4往復、午前中2回、午後2回って歩くんだもの、岩の上、石の上ガラガラ歩くし、重い物積んでるから、馬橇が疲弊するわけだ。それが1週間続くと使えなくなるから、また作って。毎週毎週、そういうふうにやるわけ。
材木の置き方
馬橇の材木を積む面には、鉄の鋲が打たれてんだ。ここに丸太の前側を積むわけだ。その上をチェーン掛けて、ジャッキでガッチャガッチャ締めてね。鋲で止まってるから、材木が抜けない。
丸太の後ろっ側は引きずんの。引きずる木は下の皮のところだけが減るけども、他の木は大丈夫。
引く材木の長さは、13尺=393.9cmは安定感があるけど、6尺=181.8cmだと不安定だね。
馬を進ませるときには、叩かなくてもね、声かけただけでこう、動いてくね叩くぐらい積まないから。毎日ね。
運賃
1尺(3.03cm)×10尺(30.3cm)=91.8cm2が1石っていったから、それを3石積むわけね。
1石800円だったら、地駄引き1回につき、3石×800円/石=2400円ですか。そいつを4回やると言うとだいたい10,000円になるんだ。
普通の鱒淵で働く人の平均日給は、250~300円だからね。だから相当の働きはしたわけさ。
ただ、むろん、馬さもほれ飼育にお金がかかるからね。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
華足寺では33年に一回御開帳ってあるんだって。それがいつかは私も定かではありませんけども。で、これは言い伝えなんだけどもね。親父から聞いた話では、坂上田村麻呂将軍のしゃれこうべがあるってことなんですよね。ご開帳の時には、私みたいな総代の人が、いっぱい外から見に来た人に説明するわけだ。
その当時、ある人が説明して、「これが坂上田村麻呂のしゃれこうべです」となったわけだ。したら、ある人が、「田村麻呂って人は、おっきな人だと思ったけど、ちっちゃな人だったんだね」って言ったっていうんだね。そしたらその人が、とたんにね、「これは幼き時のしゃれこうべです」って冗談で言ったんだって。そしたらその人も「ああ、そうすかね」って引きさがったっていうんだね(笑)。今の人たちはすぐに「だれ~」って反感こめて言うっちゃ。昔の時代は良かったなって、ね(笑)。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
総代の仕事っていうのは、華足寺には秋、春のお祭りがあるんだけど、どんな風にしたらいいか、経理や、ポスターを何枚作る、新聞広告に出す、あるいは文書で直接個人に配る、とか、それから今回みたいに震災で文化的なものが壊れた時に、どのような方法で修理するかとか、そういう華足寺に関するいろんな相談ごとだね。
ただ、同じ華足寺でもご住職が個人でやることがあんのさ。例えば、節分会とか、総代に関係なく、和尚さんの個人的な考えでもってやると。
表面は同じようだから、「なんでその時は来なかったんだ」とみんなによく言われるんだけど、それは総代に関係なく、ご住職が独自にやるって格好になってるわけだ。だから収支、なんぼ入って、なんぼ出てったとか総代にもわかんねえわけだ。
年2回やる華足寺のお祭り(大祭)のことに関しては総代がタッチできんだね。あとのことは例えば元旦とか、どんと祭とかってのは、ぜんぜんわかんねえっしゃ。
大祭にはご住職以外に近隣のお坊さんと互いに行き来するんだね。ここは真言宗だけど、登米市の神社仏閣が42、その中で曹洞宗が24だべか。真言なんかは少ないんだよね。
昔は馬をみんな飼ってたから、馬を祀っているこのお寺には方々からみんな来たんで、鱒淵地区は昔は春のお祭りで1年の生活を賄うことができるってね。
有料で参詣に来る人の自転車預かりをしたり、山にある笹に和尚さんの書いたお札をつけて手作りの飾りものに仕立てて売ったり、「追い馬」といって画用紙に馬を書いて、それを黒とか赤とかのいろんな色にして、くるくる巻いてひとつ300円位でいろんなところで売ってるわけだ。1軒ばり(だけ)でなく、何軒もやってたね。
それから、喧嘩もよくあったね。今の消防団ってのは非公務員だけれども、昔は公務員で、酒飲むと喧嘩だったのね。茶店(ちゃみせ)あるでしょ。いまみたいにご近所がやかましくないから、茶店を出して、茶碗さ豆腐を出してね、肉を挟んで、そしてそこに酒っこを出す。そこで飲んでだんだん喧嘩になって。
馬が少なくなって、先代住職の苦労ってこともあったんだね。ぜんぜん採算がとれなくてね。採石場で働いたりね、マイクロバスの朝晩の送り迎えにいったりね。そうしながらね。競馬がこれからの時代はあれだからって競馬場の厩舎周りをしたりね。そういう時代もあったのね。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
華足寺のお供えは伊勢の神宮の流れを汲んでお膳を捧げるんだねえ。献膳係の中に「献膳係」っていうのがいてね。お祭の形式的なことを守り伝えている人がいるんだね。
オイカワエイシさんって今度総代になって貰ったんだけどね、献膳長でやってもらってる人がいるんだね。3人いるのね、献膳ってひとが。そのうちの総代になって貰ったんだから。昭和13年生まれのかただね。私より1つ上。
献膳の内容は、全部写真におさまってあるんだけども、非公開ってなてんだね。なるべく写真撮らせねえんだ。例えば大根の太さがなんぼで、長さがなんぼでって全部それを測って記録したんだね。お膳が17あんだけども、1の御膳さ何付ける、2の御膳さ何つけるって、白菜とかいろんなもの買ったりとかね、米を分けておいたりする。
それから、我々献膳の係はお膳を捧げる時は、紙っこを三角に折って口に咥えるんだね。お話をしたり、神さん居るんだからお膳に不浄な息もふきかけんな、っていうことなんです。
ところがそんなこと最初から指導してないもんだから、人が足りないからってにわかに頼んだ若い者がちゃんとしてなくて、去年の秋には雷落としたけどね。やっぱりこういう言い伝えというものは、大切だね。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
俺のあだ名は「尚(なお)ちゃん」っていって、世間がちゃんをつけて呼ぶんだね。やっぱり総理大臣とか何とかさ、うんと目上の人には普通「ちゃん」ってつけねえから、「ちゃん」をつけるっつうことは、子どもの頃、近所で名前を呼ばれてたやつをそのまま大人になっても呼んでんだ。この辺はそういうのがあるね。
鱒淵には「5ちゃん」って、「ちゃん」付けで呼ばれたこの地区で名の通った人が5人、いるんです。俺も「尚ちゃん」でその中に入ったんだねえ。もう亡くなった人が多いんだけども、年の順から、こういう人たちでした。
「飲兵衛まんちゃん」は、私が若い時、同じ馬を引いて山仕事をした正直な先輩で、大の酒好き。
次は「助平(すけべい)喜ちゃん」。この地区に喜ちゃんと言われた人が5人いたから、誰を指したかは不明です。
3人目は「法螺(ほら)吹きカズちゃん」。県議2期、町長2期の大政治家だが、町有林にグリーンシャワーを計画したが実現できず法螺吹きカズちゃんと言われた。
4人目は何事にも(議員、農業委員)恐れず挑戦した明ちゃん。
俺が5番目で、山奥からに住んでいるが、年若いのに「礼儀正しい峠(とうげ=屋号)の尚ちゃん」ってね。
ほれ、5人の中で一番年若えわけだ。だからちゃん付けは、周りの人が考えて付けてくれるんだね。
その後、同じ議員(登米市との合併前の旧東和町町議会)したマサヨシさん、もう亡くなったんだけっどね。その方が「いやあ、俺んとこもなんとかその名さ入れてけっしゃろ(そういう名前を持ってる人の仲間に入れてくれよ)」っていうわけさ。今まで誰も「まっちゃん」なんて呼ばない、「マサヨシさん、マサヨシさん」って「さん」付けしてやったからねえ。しょうがねえから、(何の名前付けたらいいべかな?)って考えてさ、本人さ、「『金持ちのまっちゃん』で良いがすべか(でしょうか)?」って訊いたら、「いい」って言われて。「ちゃん」付けされた人の仲間に入りてかったって、なかなか入れなかったけども、最後にその人『金持ちのまっちゃん』って名がついたね。それでも、その人は「5ちゃん」には入ってないの。6番目だね。
それから「5さん」と言って、
1番は長年東和町長を務められた及哲さん。
2番目は木材会社を興した岩渕幸夫さん。
炭焼きから林業を興し、多くの人を雇った藤原東蔵さん、稲毛静吾さん、小山力夫さん。
この5人は、誰にもちゃん付けでは呼ばれず、みんな敬称のさん付けで呼んでいました。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
日本鋼管から鱒淵に戻ってからは、林業には戻らず、畜産農家に変身したんだね。今度は乳牛なんだね。昭和41(1966)年あたりは乳牛プラス家畜商の免許を取ったね。
家畜商っていうのは、3日ぐらい講習受けて、供託金2万だか3万だか納めて、そしてあと免許証貰って、あとは、かたいこと書いてある冊子読めって貰う訳だ。(一定の講習を受講し、法務局に供託金を納めて営業開始許可が下りれば、すべての家畜の売買等の業務に携わる家畜商としての営業をすることができる)
これからはやっぱりこういう畜産関係でなければわかんねえかな、っつうことを自分では思ったので、こういうふうな道に踏み込んだのさ。
市場出した牛もあったのさ。ウチの屋号は「峠(とうげ)」っていうんだけども、当時ほれ、この辺は「三井、三菱、峠畜産」って儲かった儲かんねえ別として、他に事業がなかったのさ(笑)。
そのときまだ親父が生きてやったからね。親父っていうのは真面目に、カラカラと馬車を引いて歩いた人だから、そういう馬喰好きとか山師好きとかいうのがなかったんだね。
だけど、俺(おら)のずんちゃん(祖父)って人は炭窯の指導して歩いた人で、子どもの頃は鉄砲打ったりして、どっちかっていうと俺の性格に近かったんでねえべか。そのずんちゃんが縁故の関係の人からの借金で、家だの土地が抵当に入れられてたの。親父はコツコツと働いて借金かえして、抵当を解除してもらったような人だからね。その親父が言ったのは、自分に回って来た借金のこともあったんだけっども、「何をやってもいいけど、人様からだけはうしろ指さされるなよ」っていうのが、一言、まだ心に残ってるんだけどね。
それでその道に入って、あとは近辺歩いたのさ。今の三陸とか、本吉とかね。家畜車。したら、ところどころでお世話する人がいるから、そこに行ってお茶飲みをなんかしたりしてね。そしてまあ、暮らしたんだね。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
私の生家は350年前から14代続く農家です。名字が無いのが当たり前の、名前だけの時代からありました。鱒淵という地域は、今は300軒くらい家がありますが、古文書の上では18屋敷から始まったとされ、我が家はその18軒のうちのひとつなのです。家が続く、ということは実は大変なことです。
震災直後、私は、(避難所になっていた)鱒淵小学校の夜のミーティングに毎日出ていました。向こうから「来て下さい」と言われたわけではありませんでしたが、地域の情報をどうしても交換したくて、毎日7時からの夜ミーティングに行ってお邪魔していました。そこにRQも出席していました。
RQに対しては、ここを拠点としていくならば、救援側対被災者・対避難者の関係だけに目が向いて、拠点とする地域の人たちとの関わりを大事にしないというのは間違いだと思っていました。事実、最初は地域の中には「RQって何だ? 早く出ていって欲しい」と思っている人もいたのです。だからこそ、私はRQの様子や避難民の様子が知りたくて、ミーティングに参加し、その様子を正しい情報として地域に伝えたかったのです。
震災後、4月3日に鱒淵に被災者が避難して来ました。鱒淵の住民は、「私たちは何をしてあげればいいのか」と浮足立ちました。この地域は行政頼みで、「言われれば動く」という慣習がありました。なので、被災者が避難して来た時も、私を含む近隣の4人の区長で話し合いをした時には、区長同志でも支援に対する姿勢に温度差がありました。私は「他の行政区に働きかけてみんなで協力して支援しよう」と言ったのですが、他の区長の中には「私は行政に従う。任せましょう。」という方や、「役場からお願いされたことをやればいいのでは」と言われる方もいました。そこで、私は自分でできる範囲でできることをやろうと決めました。先ほどお話した鱒淵小の夜7時のミーティングにも、そういった思いから通ったのです。
たとえば、私は「被災された方々が、ずっと何もしないで手持無沙汰でいるのはもったいないし、もともと農家の人たちが多いから、この鱒淵で共同でできる作業をしたほうがいいのでは」と思って、一緒に農作業をする提案をしました。トラクターで畑を耕す、肥料や種、ネギなどの苗木を一部もらったり、買ったりして、被災者のかたに農作業をしていただきました。
我が家では、長屋を片付けてミーティングルームを作り、そこには、私のささやかな小遣いで買い求めたジュースやビール焼酎、などを置いて「ご自由にいらして、お飲み下さい」としました。鱒淵小学校からミーティングルームまでは、いい散歩コースになっていて、ミーティングルームで一休みして帰っていただくのです。その中には避難民の方々の姿もありました。こんなふうに、今までやったことは私のできる範囲でやったことです。
RQとは時間が経つにつれ、「もらい湯」などのRQに対する支援活動が始まって、関わりが徐々に増えていきました。
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延暦21年(802)坂上田村麻呂が東征の際、戦没者の霊を慰める為、死んだ愛馬をこの地に葬るため堂を建てて本尊に馬頭明王を安置したのが始まりといわれています。開山は坂上田村麻呂の霊を弔う為大同2年(807)建立されたとあります。ご本尊が鱒渕馬頭観音大菩薩という動物憐憫の観音さまということで全国の馬、牛などを扱う人びとから信仰されています。本堂庫裡には古い絵馬や奉納された競馬や共進会での牛馬の写真などが数多くかけられています。
鱒渕には、華足寺(けそくじ)があって、そこには馬の神様が祭られています。
昔はここは蝦夷地で(武士の勢力)争いが絶えない場所でした。この地に伝わる伝説があります。坂上田村麻呂が乗ってきたのが郷黒(きょうごく)という名馬で、新幹線なみに速いと言われていました。この地で馬が死に、村人たちが丁寧に葬ったのですが、夜になると異様な光が村人たちを照らしました。穴を掘ると、馬の亡骸は一寸八分の馬頭観音に化身していたのです。それが馬頭観音様、という言い伝えです。
ほかにも、地名にまつわる伝説は多く、1200年前の絵日記があって、坂上田村麻呂将軍がこの地を制定するときに悪童がいてその場所が悪童ヶ原という場所になりました。坂上田村麻呂一族が敵を追って、次々と3本の矢を放った場所が「一の矢」、「二の矢」、「三の矢」などという地名に残っていたり、悪童が這い上がる坂を「這坂」、郷黒が岩にひずめの足跡を残した岩があり、その地域を「馬の足」と呼んだりするのです。
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