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牛は2頭飼っていました。うちは肥育といって食肉牛、メスの黒毛和牛です。これは、仔は産ませませんから、仔牛は馬喰(ばくろう。馬や牛専門に売り買いする人)さんから買うんです。当時は、農協も牛の売買はやっていませんでしたからね。馬喰が車に仔牛を3頭ぐらい載せてくるので、そこから買うんです。牛の産地とか、そんなことは分からないれど、「ああ、この牛なら良いなあ」というのを選んで買うわけです。エサは生の草を刈ってやる。土手の草は全部牛にやってました。1尋(ひろ。手を広げたぐらいの長さ)くらいの藁で、刈った草を丸く束ねて「六丸(むまる)」を作る。六丸を1段と呼ぶんですが、それで牛2頭を1日食べさせられる。毎朝5時に起きて1段刈って、一度には運べないから、背中に背負って3往復する。途中から、一輪車が出て少しは楽になりましたけれど、これを、草のある時期は毎日ですから、若いだけに辛かったですよ。
農学寮を卒業してからは、家の手伝いを始めました。私を待っていたのは養蚕と和牛です。私のいちばんの青春時代なわけですが、毎日5時起床の生活ですよ。帰ってくるのも夕方5時。養蚕も、春、夏、秋、晩秋と4回取るので、なかなか忙しい。年に4回、種苗業者から蚕の種、つまり小さな幼虫を1回40〜50グラム仕入れて育てます。私の頃は旧式だから、桑の葉っぱだけを摘んで蚕に食べさせていました。だけど近年は、桑を畑に植えて剪定して、葉の付いた枝ごと切って蚕棚に並べて食べさせる条桑育(じょうそういく)なんです。蚕がいるところに枝を並べて、蚕が桑の葉を全部食べたら、枝ごと換える。それを1日2回くらいやるんです。昔に比べると、ずいぶん楽になりました。
タコはだいたい、アワビの開口終わった頃に網や籠で獲るんです。アワビは11月からです。だいたい年に5回か6回ぐらい開口するんです。それも天候見ながらですから、天候が悪ければその年は4回のこともあるんです。逆に天候が良ければ6回までは行けるね。この開口の時もみんなで漁に行くんです。
アワビを獲るときは、潜り漁は禁止なんですよ。網も禁止。獲りすぎるから。終戦後なんか網ですくって獲るもんだから、アワビの数がいっぱいだったんですよ。獲るのはいいけど、全部身を剥くから、獲るより人手がかかったんですよ。そんなふうに、みんなが乱獲をするってわけで、それ以降はみな、カギで一個ずつ獲るようにしたんですね(図1)。こういうカギでね。深いところで5メーター6メーター、浅いところで2メーターあるね。
ウニの季節は6月から7月です。私が若い時、ある年はひとりで、ウニを60キロくらい獲った事もありました。そのときは、朝6時からだいたい10時までずっと漁をしてましたね。
アワビは今でもやります。去年はひとりだけど採りましたよ。最近はなかなか数量が少なくなってねぇ。その年の開口を通して、10キロくらいでないかな。去年の相場はキロ7500~7600円でしたね。
農業より、やっぱり海の方、アワビやウニ、ワカメのほうが収入になったんですね。しかも、アワビだってワカメだって家族の多いところは、よその家より余計に獲るわけですよ。5人も6人も行って採ることもあるから、その分、収入がちがうわけです。
だから、開口には、健康な人はみんな行きますね、母さんだって婆さんだって、その家にいて、健康な人はみな一緒に行くんですよ。船に乗る人数は、家によりますが、何人乗りだろうがかまわないんです。ひとりで行く人もいれば、3人乗って行く人もいましたしね。
家業は本業の林業が主体で、山を約120ヘクタール所有し、昔は馬も1頭飼っていました。その他には田畑が1ヘクタール以上あって、この田畑を借りて耕して生計を立てている方たちが近所に住んでいました。麦を畑で作っていた時代です。
叔父は、馬の世話のため、朝の草刈り作業に行く時は、木の弁当箱(ひつこ)にご飯と味噌や梅干を入れて持って行ったそうです。
昭和28(1953)年8月23日、乙女座生まれです。家業は林業。父は歌津町議員も務めていました。6歳上と4歳上の姉が2人います。
現在の住まいは、築58年の木造建築です。林業という仕事柄、お客様より良い材木を使うわけにはいかないので、柱には栗の木なども使用しています。昔ながらの造りにこだわった田の字造り(平面を4部屋に区切った形が「田」の字に似ていることから)の家です。広い土間に大きな部屋が4つ、その部屋の両側に廊下があり、奥の離れへと続いています。田の字造りというのは、ふすまを開放すると大きな広間にできるので冠婚葬祭を家でやる時代には大事な機能でした。
私が25、26歳までは、このあたりは土葬だったんです。奥の床の間のある部屋の神棚の下に二間の押入れ(お母様のご希望)と、離れへの通路にも少し収納がある程度で、家の広さの割には収納が少ないと思います。学童期は「自分の部屋」に憧れましたね。長机を持っていろいろな場所に置いてみるけど、広い空間に独立した空間を作ることが難しくて、よそに遊びに行くと小さいながらも子どもだけの空間があるのがうらやましかったものです。
この家に祖父母、両親、姉2人、自分の7人家族。そして、離れに叔父叔母夫婦と、その子ども、つまり従兄弟が3人の5人家族の2世帯が住んでいました。あとは、うちの土地を借りて、うちの仕事の手伝いをしていたおばあさん、おじさん、そのおばあさんの兄弟、住み込みの方のご夫婦の6人が住んでいましたから、全部合わせると同じ敷地内に3家族がファミリーだったんです。そのうち2家族が、ここで一緒に食事をしていました。家長が座る場所「横座(ヨコザ)」に祖父が座り、次には父母が座って、正座して全員そろって食事をしました。こうして大勢でご飯を食べることが、とても自然で当たり前でしたね。ガス釜じゃなく、薪(まき)を使って竈(かまど)で米を炊く時代です。薪は、冬の前に、父と叔父さんと、大勢手伝いに来てもらって、斧で薪を割って木の小屋に確保していました。昔は囲炉裏端でいぶしていたから、柱のあちこちが真っ黒になっていたので、張り替えています。
私の祖父(じい)さんは、自分がこうと決めたら決して妥協しない人で、歌津の町長を2期務めました。その昔、牧野家は牧之内城の城主だったんです。私で22代目。普通は、家系は3代で滅びるといいますから、まあ、よっぽどうまくやって来たのでしょう。私はそんな意識はありませんが、祖父さんの時代は少しはあったかもしれない。刀もあるんですよ。それは、流されないように持ってきました。当時から代々引き継がれてきた大事な刀なんです。
私は、昭和13(1938)年8月23日に、歌津で生まれました。親父は私が生まれてすぐ、19歳で出兵し、シベリアで抑留されました。ウラジオストックの近くの強制労働施設で働かされ、そこで病気になって、昭和22(1947)年に28歳の若さで亡くなりました。たぶん、病院にも入れてもらえなかったんでしょう。その年のうちに死亡通知の広報だけが家に届きました。お骨も何もなかったそうです。だから、私は親父の顔は覚えていないんです。物心がついた頃には、すでに戦地に行っていましたから。
この地域は大きく分けて、南部、中部、北部とあったんです。歌津、志津川、小泉が中部、大谷から気仙沼まで北部。地域には昔から決まった青年団があったから、クラブもあったけどもそっちには入らないで、青年団に入りました。歌津町青年団です。青年団というのは、たくさんやる仕事があって、一生懸命やりました。
主に体育関係だね。毎年9月あたりに、青年団で仙台まで行って、体育大会をするんです。私はリレーに出ていたのですが、青年団に入る前、学校にいたときから1番走者でした。スタートは大変だからね。1番走者ばかりやらされました。
自分たちが練習していたグラウンドが狭かったの。校庭が1周200mしかなかったんです。だから、コーナーがすぐに回ってくる。だけど、仙台の競技場は1周400m。200mのコースばかりでやってきたから、どこでハネて(一生懸命やって)いいかわかんなくて、勝手が違って、呼吸(ペース配分)が分からなかったから、やっぱり負けてしまった。直線コースだけは一生懸命やっていたんですが先頭になった人は追い越せないんですね。
あとは、算盤(そろばん)をしたり。
私は若い人に算盤も教えました。免許は何級も持たねえけども、読み上げ算、掛け算、割り算、暗証でね2桁までやった。中央でそろばんの競技会があって、集まってみんなでやったんです。競技会に出ると、先生に「お前なぁ、そろばんが上手いから、上海(しゃんはい)銀行さ行け」って言われたこともある。だげっともお袋1人残して上海に行かれねぇから、行かないでしまったのさ。
歌津が村だった頃は、私(おらい)のおばあさん(お母様)は、寺子屋っていうところに通っていて、4年で終わり。学校に4年生までしか行かない時代です。ずっと前さ。私らの生まれる前のことです。明治生まれだものおばあさん、今生きてたら100歳超えてますよ。
寺子屋のあった場所は、今の歌津町の漁業協同組合のあったところで、組合が寺子屋の土地を買ったの。あそこで勉強したんですね。
小学校は後からできたんです。最初は雄飛小学校というのがありましたが、それが無くなって名足小学校っていうのができた。だれも名足を「ナタリ」とは読めねえべ。初めでの人は「メエソグ」「ナアシ」と読んで「ナタリ」とは読めねぇべさ(笑)。
こうして仮設に入って、家の中でゴロゴロしていてもしょうがないんだからと、みんなを誘ってグランドゴルフをやっています。実は、宮城県のグラウンドゴルフは歌津が発祥の地なんです。気仙沼市と唐桑と角田市に働きかけて、歌津を合わせて2町2市で宮城県のグラウンドゴルフ協会を立ち上げたんです。最初はグラウンドゴルフについての知識も無かったんだけど、見学して面白いもんだなぁって、それで立ち上げました。
先日も秋田に22名で行って来ました。私がグランドゴルフの会長をやっているから誘われて、それでみんなを誘って、そうしたら選手宣誓をして欲しいということになったんです。会は旧歌津町の人が多いです。
選手宣誓というのは、本来はそんなに色々しゃべるものじゃないんだけれど、全国の人たちにいっぱいお世話になって、それを少しお話しして選手宣誓してきました。全国から、グラウンドゴルフ協会からの義援金や支援金も集まってきていて、そういうことに対してのお礼もちゃんと言いたいなと思ったんです。ただ、レンタカーがないと相談したら、「迎えに行きますから」って秋田から迎えに来てくれて、それで参加が実現しました。
今度、10月の15〜16日に、山形の庄内町へ行ってきます。もともと友好都市で、1年交代で行ったり来たりしていたんです。今年はこちらが行く番だったのが、用具もみんな流してしまって・・。
震災後、そういう用具を贈ってもらったり、いっぱい元気づけてもらったりしたので、私を入れて4〜5人でお礼に行こうかと思っていたら、先方のグラウンドゴルフの会長から携帯に電話がかかってきて、それがちょうど秋田から帰ってきた翌日に電話で、「心配しないでいいから多くの人を連れてきてけろ。何人くらい来ますか?」と言われて、30人から40人の間かなぁって。
向こうとしては、大勢来てもらって癒してやりたいという風な気持ちでいてくれるんだと思います。山形への参加費は500円です。本当はタダでいいと言われたんだけれど、そんなことではダメだからと電話で話したんです。
山形の庄内市の立川町も山形のグラウンドゴルフの発祥地です。今は合併して庄内市になりましたが、当時は立川町で、町長さんとも知り合いです。この震災の後も、グラウンドゴルフ協会の人たちが中学の避難所でも色々送ってくれました。食べるもの、お雑煮を500人分位ごちそうになった時もグラウンドゴルフ協会の方々が中心になってやってくれました。立川町の町長さんも一生懸命中心になってやっていただいたので、本当に心強いもんだなと思って、今はどんなふうに返したら良いのかなと考えています。
この地区は、当時は半農半漁です。うちも田んぼも畑もやって、海では天然のウニやアワビやワカメを獲って暮らしていました。当時はまだ養殖はない時代です。
「かっこ船」っていう木を合わせた船に乗って、箱メガネで水中を覗いて竹竿(鉤)で獲る時代です。
私は、避難所には入らなかったんです。親類の家に1カ月近く。爺ちゃんの弟が歌津の名足浜にいるから、そこにお世話になりました。
それから、気仙沼の兄弟の家に半月位。その後ここの仮設住宅が当たったんです。息子夫婦は、細浦の親戚の家を借りていて、私と爺さんで、爺さんの弟の家へ、名足と気仙沼にお世話になりました。それで、ここの仮設が当たったから、1週間の間に入居しなさいっていうので、6日にここに入りました。
避難所と言われても、私は暮らすのは無理でした。腰が悪くて、骨粗鬆症で入院してたこともあるから、若い人と一緒の生活はできないと思いました。兄弟のところでは、毎晩湯たんぽを入れてもらって暖かくしてもらいました。
お嫁さんのお話 食べ物も避難所は1日2食です。やっぱり3食ねぇ。ここの仮設は、いくら兄弟の所と言っても、長くなると疲れが出るから「まあ、どこでもいいや」って申し込みました。1日も早くと思っていました。
地元にも仮設は建ったんですが、もう、こちらが当たったのでね。