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3月11日は志津川の高野会館の3階で、老人クラブの演芸会があったんで、それを見に行ったんですよ。ちょうどもう終わる頃に地震が来たんで、会館の職員がね、「津波来るから、どこさも逃げてはダメ、出てはダメだ」っていうわけです。だけどね、やっぱり逃げた人もいるわけです。
残った30人は、3階にいたから4階、屋上に上がりました。上がった瞬間にそこまで波が来ました。そして、屋上のさらにその上に機械室があったので、細い階段を上って、そこにみんなで入って行ったんです。
狭いからね、座ることもできないで立ちどおしなの。機械室に水が来て、電気が切れてしまったから、冷たくてもう大変。ずぶぬれだからね。足踏みしたりして、それでも、自分の足に全然、感覚がなかったんですよね、もう、自分の足だか、何だか・・・。頭が痛くなってくる、体は・・もう、どうにもしようがなかったんです。
もう波は一度で終わりではないんですよ、行ったり来たり何回も来たんです。7回ぐらいは来た感じがしましたね。一晩中いて、朝になって、昼も過ぎて、食べ物もお水も何もないまま、そこで過ごしたんです。どこも逃げるところなんてないんです。瓦礫で一杯で、歩くところもなかったんです。
幼少期はどんなって、家は商売してたから、食べるものも不自由しなかったし、山から、海から、毎日遊んでばかりおったんです。竹馬で山駆け回ったり、海駆け回ったりしてね。今でもね、運動会なんかで、竹馬に乗って駆けて見せたりすると、みんな、ビックリしますよ。(年取って)みんなヨタヨタってなるんだけどね。
潜水の資格を取り、船を持ってからは、漁が半分、潜水半分でした。歌津では当時潜水をする人はいなくて私が初めてでしたから、獲り放題です。海に潜れば、もう大量に獲れるからね・・。漁協の付き合いの関係で、夏場はウニを獲りました。
潜水じゃないと竹竿で1個ずつ獲る、それも深さは10メートルくらいまで。自分は、農業は嫌いだったから、なんとかして量を獲りたいと思ってね。
海岸線が36キロメートルあるんですが、そこをどう獲っても良いってことになって、当時は禁漁区とかなかったんです。ウニっていうのは、鉤で獲るには、6月・7月の2か月間で漁をします。県条例でね。だけど、ほら、その時期を終わった後に潜水で獲るんだったら、8月・9月になっても獲れるんです。深いところのウニは、その時期もまだ卵を持たないから獲れる。獲れる、獲れないというのは、ウニの状態で決まります。
ただ、時期を外して獲っていたら、そこを指摘されて、「密漁ですよ」なんて言われて、「じゃあ、どうすればいいんですか?」って聞いたら、「届け出さえすればいい」って、「何とかなりますよ」って・・(笑)。それで、9月いっぱいまで、期間を延ばしてもらいました。県条例が変わったわけです。潜水をやる人は他にはいないのよ。私1人だけです。
お次は船です。漁協に監視船のような小さい船があって、せっかく作ったのに引き上げていて使わないので、「おれに、貸せや」って借りてみたら、使っていない船だったので、エンジンが壊れていて使い物にならなかった。「しょうがねぇなぁ」って時に、今度は船に乗るのに免許が必要になるって情報が入ったんです。それまで、ただ船に乗ってる分には免許なんていらなかったのが、「これからは免許が必要になるぞ」って、参事さんが、一緒に飲んだ時に言うんです。
それで、自分でも調べたら、5t以上の船に、ある期間乗った経験があれば1級の資格が発生するってことがわかったんです。しかし、歌津で漁師の半分以上は5t以上の船に乗ったことがない。歌津には5t以上の船がない。自分で浜に引き上げるから、大きくても3~4t。大きな船は造らなかったんです。「だったら自分が造ればいいか!? じゃあ、作ろう」って。事務の手続きは参事さんに頼んだんですが、できてきた書類を見たら7tってなってる!! 「なんでこんな、大きいの、面倒くさい」って思ったけど、「まあ、いいや」ってなって、自分で借金して造りました。
昔は、船を作るなんていったら、大変なものでした。3日3晩お酒をふるまってね。船は、船を作る船大工にお願いするんです。夜中に神様っていうか船への「御神入れ(ごしんいれ)」をするんです。三島神社ではなくて、大工さんがします。「御神入れ」は、昔から夜です。夜誰もいないときにやるんです。船で。船を作ってる大工さんがね、1番船の先っちょの、ロープ結わえる柱みたいなところに穴を掘って、そこに入れて、また、ピタンと蓋をするんです。何を入れたのかは、誰も見たことがない。そこにあるのはわかってるけど、何が入っているのかはわからないんです。うちの船を作る時も、やっぱり見なかったですね。船大工は、ふつうの大工とは違います。今もいるだろうけれど、船の材料が違ってきてるから、今は「御神入れ」なんてことはしないと思います。
船が完成したら、みんなでお餅を撒いてね。みんな酒を飲んでもらって、その代りに、旗を作ってもらうんです。船名旗と日の丸は自分で用意して、大漁旗は作ってもらいます。船に旗を揚げる時は、一番上が日の丸ね、その下が船名旗ね。歌津には田束山(たつがねやま)って山があるので、その名前をもらって「田束丸」というのが船名です。船名旗の下は、いただいた大漁旗です。大漁旗にはそれぞれ旗を作ってくれた方の名前が入っています。
そうして、小型船舶の免許、小型船舶1級の資格を取りました。
昭和40年代は漁業の色々が変わった時で、大きく変わったのは、その船舶免許と漁業権の2つですね。色々変わるとかっていうのも、漁師ばかりの付き合いじゃ、わからないんです。参事さんや、知り合いから、様々な情報が入ってくるんです。情報を教えてくれるからね。一番大事なことだと思います。制度が変わる、何が変わるっていうのはね。
早く情報をキャッチしたから、うまくすり抜けたというのではないと思っています。「時代に乗っていった」っていう感覚です。漁師っていうのは、基本的に、みんながどうやって魚を獲っているのかな?っていうのを見て体で覚えます。だから、どうしても漁師は漁師の中しか見てない。私はもう、いつも外を見てたから、だから、その違いかもしれないと思います。
契約会は、江戸時代から続くこの地方の相互扶助のような組織です。伊里前契約会は、元禄6(1693)年に歌津の伊里前で先祖が町割をしたときに組織されたといわれます。伊里前は、私の先祖が兄弟3人で作ったんです。牧野家は、志津川の朝日館(あさひたて)と中舘(なかだて)の中間に、牧之内城という城を構えた戦国時代の陸奥領主の武士、葛西家の一族の末裔なんです。兄弟は3人で町を区分し、切り出した山の斜面の山側を上町切(かみちょうぎり)、海側を下町切(しもちょうぎり)としました。ちなみに、牧野家の山から降りてくると役場がありますね。その役場の脇にあった蔵も牧野家のもので、資料置き場としてずっと役場に貸していました。こうした記録は「検立書」に保存されています。
契約会ができた当時は33世帯の組織だったそうです。一時は80世帯までになりましたが、跡継ぎがなかったり移転したりで世帯が抜けて、現在、77世帯になっています。農業より漁業が多く、約7割は漁業ですね。
そのうち74戸が津波で流され、今、残っているのは全部高台の家です。ちなみに、牧野家の本家はうちなんですが、たとえば、私が嫁をもらったら代理で下町切が本家になります。下町切に何かがあれば、今度はうちが本家です。そうして上町切と下町切の家が入れ替わりながら、その役割を果たしてきました。
契約会会員の権利は、家の長男が嫁をもらうと親から引き継ぎます。息子に引き継いだら親は引退で契約会には参加できません。いくら祭りが好きでも、だめ。年寄りは去るんです。こうして代々、新陳代謝を繰り返し、受け継がれてきました。息子がいなかった場合、嫁をもらわなかった場合は、引退せずに、いつまでも会員として参加することができます。しかし、最近は長女の婿も会に入れるようになりました。私の場合は、父親が早くに亡くなったので、一緒に住んでいた叔父が会員になり、私が働くようになってから、別家に出しました。
契約会では10人1組で「期(ごう)」を作り、一期組、二期組…と呼ぶのが習わしです。みんなで旅行に行ったりすると、「おう、組長!」なんて呼び合うものだから、仲居さんが驚いていました(笑)。私も2年くらい、組長を務めました。その時に、魚竜太鼓を作ったり、旅館に泊まったり。県の商工部と交渉してなるべく予算をかけないように工夫もして、宮古や東京ドームへも行きました。
歌津では半農半漁の家が多く、商店は少ないですね。とくに最近は、郊外に大型スーパーなどができたため商店街は苦労したことと思います。この先も、伊里前に新しい商店街ができることはないと思います。漁師よりは農家の方が多く、だいたい6、7割は農家だと思います。お互い、もめ事もなく仲良く付き合っていますよ。
ちなみに、昭和30(1955)年以降は、国が予算を出して全国的に麦作りを推奨しました。このあたりの畑は、みんなハマの方、海岸寄りにあります。山の方は“タカ”、海の方は“ハマ”って言うんです。畑を区画整理して、トラクターの購入にも補助金が出ました。当時は、漁業が上手くいっていなかったので、みんな政府の補助金事業に乗って、畑を大きくし、機械を買って麦を作ったんです。しかしその後、麦の値段が安くなって、畑では食べられなくなりました。そこで、再び海に戻りましょうと、ワカメの養殖やホタテ漁をやるようになったんです。漁業で、収入が得られるようになると、畑はどんどん荒れてしまいました。
この頃はまだ東北本線は蒸気の汽車が走っていました。私は昭和40(1965)年頃、各駅停車に乗って上京したんだけど、そのころ蒸気でしたよ。夏なんか上野から乗ってきて暑いな、って窓をあけたら、風がまともに来て、炭のカスが頭から飛んでくる。洗わなきゃ泥んこになるんだね(笑)。仙台から12時間くらい掛かるんですが、夜発って朝着くように各駅停車でいくんですよ。急行でなく。ここから仙台まで、その頃は気仙沼線がなく、気仙沼から仙台までバスが通ってたんで、4時間かけて、バスで行ったんです。道路はボコボコでした(笑)。
バスがその頃の一番の交通手段だったから、歌津の集落から外に出る時は、ほとんどバスでした。仙台の方に行くバスは午前中の2本だけで、夕方にも2本ありました。だいたいこの辺に夕方5時に着くような便でした。
三陸ホウレンソウは、海から吹く冷たく湿った三陸特有の季節風、山背(やませ)を上手く利用して作ります。ホウレンソウは暑いとうまくできないんです。だけど、三陸は夏でも山背が吹くので、ビニールハウスの天井だけビニールをかけて、両サイドは開放してやれば、うまく育つんです。ビニールは日光も80%くらいしか通さないので、屋根だけ張ってやると夏でも冷たい風が吹き込んで暑くならない。夏物のホウレンソウは、なかなか出ないんですよ。品物も、仙台の山元町のように暖かいところで作るものとは違うんです。葉が肉厚で、いいホウレンソウができる。自然をうまく利用しているんです。
ツェッペリンってわかりますか? ドイツの飛行船、ツェッペリン号ですよ。1929(昭和4)年の夏、日本に来たときに、この海岸を通っていったといって、兄貴たちが家を飛び出して見に行っていました。みんな「ツェッペリンだ、ツェッペリンだ」っていうんだけど私はそのとき、四つか五つの頃で、あんまりちっちゃくてね、誰にもついて行くこともできなかった。ツェッペリンはこの海岸をずっと霞ケ浦から来たんですよ。
イチゴ栽培も、今はずいぶん楽になったけど、当時は手がかかりました。温度の管理は換気扇で、暑くなったら開けて、涼しくなったら閉めてと、しっかり見張って面倒を見なければいけません。今は自動でやってくれる機械がありますけれど、昔はそんなもの、ありませんからね。生き物を飼うのと同じなんです。だから、イチゴの時期はほとんど出かけることができませんでした。
昭和40(1965)年ごろからは、毎年、東京などに出稼ぎに行くようになりました。娘の生まれた頃です。4月頃からだいたい10月、アワビの開口の頃までいて、開口に間に合うように帰ってくるんです。4月から半年は確かに長いです。6カ月働いて90日失業保険を貰い、終わればまた働きたいってそういう巡りになる。1年の残りは漁業で生活するんです。