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その、年寄は年寄なりに教えて、「こうやるんだ」って、できないことはやってもらって、行政は応援してね。「特区」にして会社にして、そうしたら水産のやり方が確実に変わります。これはチャンスなんです。言葉で説明してもダメです。漁師は見て覚える。やって見せないと。養殖をやってる人も辞めていく人が多い。そうすると減っていく一方で、どんな店もお客さんが減ってしまいます。それじゃあ町に元気が無くなってしまって尻すぼみです。
だから、「おー、えれぇ儲かった!」って、刺激を送って、若い人を引っ張ってきて、みんなで真似すれば良いと思います。加工屋でも漁師でも、持続性のあるやつでないと、人は引っ張れないと思います。
「特区」にして、会社にして、方法を変えていくには、船も設備も変えていかなければならない。富山の定置網、ホタルイカの定置網で、船に海の水を凍らせて魚を冷やしながら漁をするっていうのを聞いたことがあります。そこでは、26歳の1年の給料が1000万円だって。それならみんな喜んでくるよ。酒も飲まない、たばこも吸わない、文句も言わないなんて最低。これ以上はもう言わない(笑)。
でも、外で稼ぐのは男だ。均等法はダメ。女の人は財布を預かって、男はもう手に金をつかんでないと馬力が出ない。それも1人でやるんじゃない。ここで食堂やるんだって、魚を獲る人、作って売る人、買う人、三拍子そろわなければうまくいかない。1匹狼ではダメなんです。大事なのは「つながり」だと思います。
3年待っててね。また美味しいうに丼を作るから。この(魚竜館の)建物も、全部壊してもいいんだけれど、ある程度目印として残して、全部なくしてしまうと、どこがどこだかわからなくなってしまうと思うんです。畑だったのか、家だったのか・・。大工さんと話したら、5千万円くらいで復活できるって言われました。6千万円でできたら安いもんです。そうしたら、化石だけでなく、大きなスクリーンで津波や被災の様子を映したり、写真とかも展示したら良いんじゃないかと考えています。特に2階のテラスは素晴らしい景観が広がっているので夏はビアガーデンを開きたいと思っています。
これからは、泊浜の自宅も流されたし、高台に工場も兼ねた自宅を建てたいとも考えていますが、工場を入れるには敷地が狭いので迷っています。今度家を建てるとしても、絶対に海の見えるところです。娘には怒られるんだけどね。
山になんて引っ込まねぇよ。海が見えるところがいいよ。あったりめぇだ。
震災から2日後、長男が死んだと噂で聞きました。
私の長男は、役場に勤めていたので、震災当日も産業課の課長に同行して田束山で樹木の調査をしていたそうです。
地震の直後、すぐにジープで山を降りて志津川の役場へ向かいました。その後、近くの防潮堤の水門を締めに行って防災庁舎に登り、そこで津波に流されて亡くなったんです。
後日、防災庁舎で生き残った歌津町出身の2人の職員が私の家にやって来て、涙を流しながら「私もあの日、屋上にいました。典孝君もいらっしゃいました」と報告をしてくれました。
震災の時は、ここ(魚竜館)で営業中でした。地震が来たら津波が来るっていうことは頭に入ってるから、日ごろから避難訓練もしていて、まずは、そこの庭の先の広い所に集まる、それから平成の森へ逃げる。あの時はお客さんもいたし、揺れが収まるのを待って皆を逃がすまでは、冷静にできました。
その時は娘も孫もいたので、私は揺れてる間は孫を抱いていました。娘も孫も従業員も平成の森の高台へ逃がしました。ここは、1メートルくらいの水門があって、そこを閉めると車が出られなくなるんです。だから、漁協の車も自分の車も全部出して空き地に移動させて、最後に誰も残っていないのを確認して、後はもう流してもしょうがないやって、AED(自動体外式除細動器)だけ取って、一番最後に私と家内がここを出ました。
私は、どうしてもどうなるのか、どの程度のが来るのか、津波をこの目で確かめたかったので、すぐそこの道路の上に登りました。そこなら道路からすぐ山に登れるから大丈夫だろうって、消防団や漁協の人たちと一緒でした。
津波は、本当にすごい力でした。バリバリドドドーンって。魚竜館の隣の新しい漁協の建物が影も形もなくなるんだから、こりゃあどうしようもねぇって・・。第二波、第三波って続いて、第三波なんて第一波の時に私たちが見ていた場所より2メートル以上も上に水が来て、車なんて、みんな流されました。家内は、第一波を見て怖くなって、先に裏の山へ登ったので別々でした。
今、ここの前の広場は瓦礫の第一次の仮置き場ですが、次にどこへ持っていくのか? 場所も決まっていません。ここの2階は奇跡的に化石や展示物が残って東北大学に運ばれて仙台の博物館に飾られるそうです。魚竜館の建物は、ボランティアさんに掃除してもらいました。もう、中はきれいになってます。ここは、一番眺めの良い所だったんです。水が澄んだら海の全部が見えます。今は滅茶苦茶濁ってます。 普通は12月になると、歩いていると海の奥の方まで透き通って見えるんですよ。
山形県の立川町(現・庄内町)にいる造形作家に、町づくりの相談をしたこともあります。その方と出会ったのは、歌津にアザラシが迷い込んだ時のことです。タテゴトアザラシの赤ちゃんで、「ウタちゃん」と名前までつけて大騒ぎになった。かわいいアザラシを見ようと、毎日、5千人くらいの人が来たんですよ。東京はもちろん、わざわざ九州から来た人もいました。テレビ局もNHK以外は全部取材を受けました。私も「いやあ、こんなところに迷い込んできたのは初めてです」などと、いろいろ話をしました。でも、アザラシは3日でいなくなってしまったんです。そこで、川にアザラシの像でも作ってやれば、観光客を呼べるのではないかと考えました。
すると、子どもたちとの交流事業をしていた立川町に、仙台大観音を作った東京の美術大学を出た人がいるという。早速、出かけていって、本物そっくりのアザラシを3頭くらい浮かべたらいいんじゃないかと相談したんです。そうしたら、彫像には70万円もかかるというんですよ。それで、諦めました。そうでなくても、議会にはいろいろと叱られていますからね(笑)。
この魚竜太鼓を作るには、いろいろありました。東北博覧会の後に、歌津でも創作太鼓を作りたいということで、佐藤正信さん(民族歌舞団ほうねん座代表)という方にお願いしました。
太古の海に泳いだ魚竜がモチーフだから、私たちにとって母なる海だ、海はふるさとなんだと、ということで頼んだら、正信さんは最初、魚竜の2億7500万年前のイメージが浮かばず、「魚竜は海にいるもんだ、なんとか漁師と結びつけられないものか」と思って、定置網やってる親戚の船に乗せてもらって漁師が網を下ろすのを実際に見て、イメージを描いたんです。
創作太鼓でも歌津魚竜太鼓の特徴は、起承転結で1つの物語を作って、その物語にそって太鼓を叩く、「見せる」太鼓。でも正信さんは「聞かせる」太鼓を作った。そこに、漁師の太鼓なので、「どや節」という歌が入るんです。「おーおーよいところ」って歌うんです。そして最後の太鼓の叩きあげでダッダダダッダダ・・と盛り上がって行く。
物語は、最初は漁師が海へ漁に行く。そして沖で魚と戦い、そして魚を獲って大漁で帰って来るわけです。陸(おか)ではみんなが帰りを待っている。「魚竜太鼓」と「田束の夜明け(作詞は牧野さん)」その頃は創作太鼓自体が珍しく、魚竜太鼓が有名だったので、あちこちから出演依頼が来ていました。だからトラックに積んでどこへでも運んだんです。
これは初代の太鼓、地味な太鼓、地味なはっぴですね。今の魚竜太鼓はこんなふうではありません。白い派手なはっぴでですね。
私は平成の森の仮設が当たって、そこに入るまで、気仙沼の長男のところ避難してたんです。息子とお嫁さん、それと孫3人と暮らしていたんですが、6月1日にここに当選して、入ったわけです。だから体育館のような避難所暮らしはしてないんです。この仮設に住んでる人は、だうたいもう、ほとんど部落の近くの、はなしの通じる人達ですね。よその部落から来た人もいるけれど、だいたい部落ごとにまとまって入ってように思います。
ワカメの養殖をやっているうちに、今度はここをずっと埋め立てをして、加工屋さんを集めて加工団地にしようっていう話が出ました。それだったらいいなって、「いいよ、いいよ」って申し込んだんですが、途中で計画がストップしてしまったんです。魚竜の化石が見つかったからです。それは天然記念物になりました。先に舘崎の浜で見つかって、色々調べたら、ここにもあるって話になって。
この地域には、魚竜化石以外にも、アンモナイトやナウマンゾウを発見した先生が発見したと言う、皿貝化石というのもあります。歌津には古い化石があるんだ!って、みんなにPRする、現地保存と普及の役割が「魚竜館」にありました。
加工団地の話が中止になって、化石も出て、「あれあれ?」って思っているうちに、「魚竜館」に直売所を作るっていう話になって、10人くらいで、漁師というよりも加工屋さんが集まって、直売所を始めました。
30歳位から、方向転換して、ワカメの養殖を始めました。私は中学の時に母親を亡くしているので、家には女手がなくて、おじいさんは2人いたんだけど、おばあさんがいないから、籠に子どもを入れて子守をしながら家内は仕事をしていました。
船は一段落していたんで、「人生を方向転換する! 次は、ワカメをやる!」となったら、今度は冷蔵庫が必要になりました。というのは、いくら大量に採れても漁協には売れない。だから、1回茹でて、塩蔵ワカメにして、冷蔵庫に入れて、1年間かけて売っていく。そのためには、大きい冷蔵庫が必要っていうわけなんです。
ワカメが2000箱入る冷蔵庫を2つ作りました。昔だから、大きくて、部屋2つ分くらいありました。それから、ワカメを茹でるための釜。大きなボイル釜も用意しました。ワカメの採れる時期には、自分で採ったり、買い付けたりして、人を頼んで、大きい釜で茹でて塩をまぶして箱詰めして冷蔵庫に保管して、それを1年かけて栃木県とか業者さんに直接売るようにしました。
ちょうどその頃、ワカメの養殖の権利についても制度が変わる時で、今までは勝手に漁場を使って良かったのが、その時点で既にやってる人じゃないと、養殖の資格が得られないということに制度が変わったんです。昭和55(1980)年頃ですね。県条例だから、宮城県の制度だと思います。歌津地区は、漁業権っていうのは漁協から権利を借りてるっていう感じなので、その情報は、例の参事さんが事務をやっていて、彼が教えてくれたんです。
ワカメを、少し前から始めていて、後2・3年すると漁業権の新規参入がなくなって漁場が変わらなくなるからって聞いて、私が一番後に来て、船が大きいから、遠くの、一番遠くの沖のところをずっともらったんです。船のない人が湾の中の方をもらうんです。実は、ワカメは遠い方が良いワカメが採れるんです。だから、何十箱もワカメが採れたんですよ。それを見て、大きな船を造って真似をした人もいましたよ。それに、ワカメは、うまくやると1年に2回採れるんです。12月に1回採って、4月にもう1回。これなら、50tが100tになる。同じ面積で、2倍です。
魚竜舞の準備金として、県からは何千万円もの支援がありました。それを使って、さっそく歌津の若者を中心に、役場の職員や一般の方も入れて練習が始まりました。その時のリーダーが、今回の地震直後に防災センターでマイクを握り、住民に避難を呼びかけたことで有名になった三浦毅さんです。演出は、仙台出身で劇団四季の元団員、浅利慶太(あさりけいた)さんの下で日生劇場の子どもミュージカルも指揮していた梶賀(かじか)千鶴子さん。彼女の代表作「ユタと不思議な仲間たち」は、梶賀さんが20代の頃の作品で、青森の八戸か三戸が舞台だそうです。
梶賀さんは劇団四季を辞めてから、仙台で「SCSミュージカル研究所」を立ち上げ、ミュージカルを上演しておられたんです。そこで、東北放送の部長が頼んで、歌津に来ていただきました。
梶賀さんは、仙台から毎週やって来て、役場近くの保健センターで練習を見てくださいました。役場の職員、消防署の人や歌津市民、合わせて総勢約15人の大人が参加しました。
ここはね、ウニもたくさん獲れます。いっぱいとれるから、むき身で出荷するくらい。歌津は全部剥いて塩ウニですね。水揚げの少ない所は、とげ付のまま出荷します。
実は、歌津で一番獲れたのは、アワビなんです。目方に換算して、年100tくらいアワビが獲れました。そいつを剥いて、中国へ輸出していました。殻を剥いた後、アワビの殻が屋根より高くなった、それくらい獲れたものです。
自慢ではないけれども、相当深いところまで潜っても潜水病にかかったことはありません。一番深いところで、40メートルくらい潜ります。ふつうは2~30メートルくらいです。
で、ふつう奥さんが船の上で空気を送るんだけど、うちは家内が船酔いするから弟がその役目でした。
それで、ウニを潜水でも獲っても良いことになったら、獲れる量が半端でないの。島の周りも、ウニがうようよ・・。値段もだんだん上がってきた時で、潜れば海が時化ても安定して獲れるし、一度、9月に台風が来て水が濁ってどうしようもない時も、月に15日くらいしか漁ができなかったことがあるんだけど、それでも他の船は全く獲れないんだから、ずいぶん稼ぎました(笑)。
一番多い時は1日で1200キログラム獲ったこともあります。数字は自慢話に聞こえるから細かくはいらないよ。とにかく獲れました。それでも、今みたいに滅茶苦茶な獲り方はしていませんでしたよ。ここは獲ったから、次はあそこって具合に、1年で順番に回って獲りました。
漁協と契約していたので、船には、雇った人2人、自分、当時2つあった漁協の職員がそれぞれ1人ずつ2人で、合わせて5人乗り込んで、売り上げは、船の上で自分と2つの漁協で3つに分けます。振り込みなんてない時代の話です。漁師の「いたこ分け」って言って、船の上に積む板の上にその日獲れたものを並べてその場で分けるんです。現金ですね。雇った人の人件費も、2つの漁協と私とで分担して払いました。
人が亡くなると、朝から買い物と称して座りこんで必要なものを買っていくんです。小さい時からそれを入れる箱を作ったんだけど、一式、木地蔵、(死出の旅に出る)わらじ、「死人(しびと)もの」と言って、亡くなった人が着る衣装のさらし木綿の反物などの一切をうちで売ってたんですね。昔は人が亡くなると、「みんな縫い物に来てください」ていって、死に装束を縫って着せてやるんです。
そんなわけだから、歌津全部のどこで誰が亡くなったというのが、うちではすぐわかるわけですよ、役場の次ぐらいの速さで。
商売をうちでやってたときには、家族みんなでご飯食べたことはなかったですね。お客さんがひっきりなしに来たりなんかして、忙しかった。このあたりには1軒か2軒かしか店がなかったらしいです。
昭和35(1961)年のチリ地震津波のときは、家にいなかったんで、経験していないんです。その時は用事があって、おっかあの実家の岩手の東山に行ってたんですね。家は大丈夫でしたよ。海面から家までの間が高さ3メートルぐらいあったからね、すれすれまで津波は来たけど、大丈夫だったんです。
明治29年の津波の話はおっぺさんに聞いてました。その頃は、護岸工事なんか全くしてなかったから、みんな海岸に家を建てていたんですね。だから津波で歌津村では800人くらいは亡くなったようですね。家も270か280戸くらいが流出したんです。おっぺさんはそのころ若かったから、海岸の桑畑があったんだけど、そこの桑の木の、太い幹の上の方に登って助かったって話もききましたね。
昭和8(1933)年の津波の時は、明治の津波の事をみんな聞いてたもんだから、家の前に石垣をずうっと造ったものでした。伊里前地区は石垣をみんな高さ3メートルくらい作っていましたからね。だから、あんまり被害がなかったらしいんです。伊里前は亡くなった人がただ一人だって聞いてますね。ただ、歌津町の外れの、浜の方の、工事しないで石垣も何も無いところの家が60何軒、流出したという事もきいています。
チリ地震の津波のあと、その石垣をコンクリで固めて、さらに3メートルくらい高くした、その防波堤が今回の津波でみな取れてしまって何もないんです。
明治29年の津波のあと、みんな高いところにいったんだけどね、家の実家があったところは、大体海岸から25メートルぐらい上がったとこなんだけどね、それでもそのへんまで波が来たんですよ。今度の津波で。だから25メートルくらいの高さがあったんですね。
やっぱり年寄りから津波のことは昔からいろいろ聞いてました。直接おっぺさんからも「津波あったら、高いところ、早く逃げろ」ってね。今度の津波でもね、船がもったいないからって、いったん逃げたんだけど、また、ロープを持って、船を縛りに戻って、2人でもって流された人が近くにいました。