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本吉にはこの頃、中学校なんてなく、佐沼と気仙沼に一つずつしかありませんでした。下宿です、遠くて通えないの。高等女学校ってのはね、この界隈では登米高女っていうのが一つしかなく、あと矢吹の高田っていうところにもうひとつあるだけ、あとは仙台にしかない時代でした。
同級生で気仙沼の中学校に入ったのは私ひとりで、歌津でも3人目だったし、佐沼の中学校に入ったのは、私のころでは過去3人しかいなかった。他の人は小学校出れば、家の手伝いなんかしていましたね。
海の仕事は農作業の合間にするんです。8月今頃はちょうど、ワカメの開口も終わるころ。5月6月から8月にかけては天然ワカメの開口、ウニの開口で忙しくなってくるんですよ。
開口は、漁業組合が決めるんですよ。採るものの育ち方もみて、海が平らな日を選んでから、「あしたは天候がいいから、ワカメの開口」って、毎年のように連絡をするんです。そうすると、地元のみんな、朝早く、3時ごろから起き出して、船に乗ってワカメ刈りに行くんです。採る場所が家によって決まってるとかはありません。「あのへんはいいワカメいるんじゃないか」と狙いをつける場所は、その人によって違うんです。
私はおじいちゃんにつれて行ってもらってやったんですよ。上手でした。ワカメは草刈りガマでなくて、竹の先にカギをつけたものです。
海面下3メートルか、深いとこで5メートルぐらいのところでワカメを刈るんです。学校は開口になればお休みします。「明日は開口だから休みます」って届けて。学校の方でもそのことをわかってるからね。小学校6年生くらいから開口の日には手伝いに行きましたね。開口のためにしょっちゅう学校を休んでるじゃないかって?戦争当時はね、食料もなく、食べるのが大変だから(問題にならない)。開口の前の日に、明日はアワビの開口だからということで、名前を書いてくるんですよ。開口に行かない人は休めないですよ。開口に行く人だけです。行かない人は学校に行くんです。
私が育った家は農家なんですが、米や麦、豆、ソバなどを栽培していました。その当時は、広さとしては中の上くらい、田んぼと畑で一町二、三反ぐらいやってたと思いますね。海岸が近いもので、漁業権も持っていたので、農業のかたわら、海の方もちょっとやりましたね。このへんはウニやアワビの産地だし、夏の始めのワカメや、春になればヒジキ、海苔などの海藻も採れるんです。
3月になったら畑の仕事が始まります。麦のあとのかさを取ったりします。麦蒔くのは、9月から10月ですが、翌年の3月頃、雑草を取ったり、麦踏みしたり、手入れをしたんです。
麦踏みというのは、冬に土が凍って、春になると溶けて、根が浮き上がってるから、土をかぶせて足で踏むんです。麦の収穫は7月頃だね、お盆の前に収穫終わりますから。お米は5月頃に植えるんですね。4月頃に苗をみな、各家庭で作ってね。収穫は10月頃ですね。この辺りの冬は、稲の収穫が終わると翌年の3月頃まで畑が凍ったりするので、農業はお休みなんですね。
震災当日の2時46分、家内は家に居ました。私は裏にいて、そこの空き地、公民館のところにいました。最初はゆるゆると、長く続いて、横揺れでした。家を見てて、倒れないかなと・・。自分は立っていられませんでした。車に寄りかかっていたけれど、ズルズルとしゃがみこんでしまって、家からは50メートルくらい離れているので、少し弱くなってから歩いて家に戻りました。とにかく長く、長く続きました。
家はつぶれずにすみましたが、家の中が、棚から物が落ちたりしていたので、それを片付け始めると、津波警報が出ました。それから直ぐに大津波警報に変わって、とにかく避難しようとなり、家内が体調を崩しているので「車で送るか?」と聞いたら、歩いていくというので、家内を先に家から出して、私はもう一度家の中を見てから、トラックでここまで(小学校)避難しました。トラックに長靴とか防寒着とか積んで、もう少しいろいろ積んでも良かったんだけど、やっぱり人気がなくなってくると気持ちの悪いもので、とりあえず気のついたものを積んで逃げました。揺れが強いから、上へ上がって、ここの上で海を見ていました。
見ていると、沖のほうから波が、白波が高くなってきて、見ているうちにここも危ないから、「もっと上へ上がれ」って、お互いに声を掛け合って、みんなで中学へ上がりました。その時は車を置いて。ここに20〜30台あったと思います。私は近くに停めてあったので車で上がりました。
最初に、防波堤と防波堤の間から波が入ってきました。一番先に流された家は、その波に流されたんだと思います。その最初に流された立派な家が、この直ぐ下で壊れました。その後は、家のほうが心配で、そちらを見ていました。まるで将棋倒しみたいに、海から波がどおってきて、どす黒い色でした。段々段々家が流されて、自分の家が流れるのを見て、後は見ていません。津波は何回も来たんだけれど、私は1回を見ただけです。自分の家が「わ、流れたな」って。家が、1軒の家の屋根がこの小学校の校庭まで流されて上がったと聞きました。
普通引き潮があるんだけれども、引き潮がなかった。沖のほうから壁みたいに水が来ました。2回目は大きかったと聞いていますが、段々暗くなって寒くなってきたので、みんな中に入りました。
「縦の糸はあなた、横の糸は私──夫婦の自分史」千葉貞雄さん・きちよさん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和4(1929)年生まれ
子どもの頃からアワビの開口日には、子どもも海に行って捕りました。半農半漁です。漁業組合に入っている組合員でないと捕ることはできません。アワビは当時も良い値段になりました。家内はベテランで、アワビを一山ずつ持ってきて貝から剥いて、身は取って、わたのほうをバケツに入れてもらってきました。私も開口日には時間休をとったり年休をとったりして漁に行きました。たくさん捕れたら組合に出して、その分は利得になります。家で食べることもできます。買って食べるよりは自分で釣って食べるほうが、せっかく権利を持っていますからね。
漁師にならないで勤めをしながら、遊びの時間に釣りに行く。そのうち船を持って、船でアワビ捕りや釣りに行きました。行って捕る。副業というより遊びです。本漁師ではないから、余計なことはできませんでした。ワカメ養殖を少しやったことがありますが、1日ついてやる仕事はやりませんでした。
漁へ出るために半休や年休を取るのは、休みをやりくりしたり、代わりに出てもらったりしました。アワビの開口なら1時間あれば帰ってこられる。捕ってくれば、後は女房に預けて、また勤めに戻りました。
「縦の糸はあなた、横の糸は私──夫婦の自分史」千葉貞雄さん・きちよさん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和4(1929)年生まれ
勤めた当時は、電報の配達も仕事でした。まだ三公社五現業の前の逓信省(ていしんしょう)の時代です。電報は夜に多いので、宿直もありました。電話の取次ぎも仕事でした。呼び出しなんてまだ無い時代です。「どこそれさ行って、電話かけるように頼んでけろ」なんて電話がかかってくると、それを知らせに行くとか、サービスですね。戦時中、私が勤めた頃は、電話も役場と漁業協同組合と農業課の3つしかありませんでした。
空襲警報もまず郵便局に知らせが来て、それから役場へ知らせて、サイレンを鳴らす。まずは志津川の郵便局へ連絡が来て、そこから枝葉に分かれたんだね。
電話も段々増えてくると、一度に数が重なると、シャッターが下りて、警察と役場の電話しか使えなくなるとか、そんなこともありました。後は、電話が混んで通じないので、「特急」とか「急報」とか「普通」とか料金が違うんです。早く電話をかけたければ料金を高く出して「特急」、そうすると「普通」の人より先になる。そういう時代でした。
「縦の糸はあなた、横の糸は私──夫婦の自分史」千葉貞雄さん・きちよさん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和4(1929)年生まれ
戦争が終わってからは、とにかく食わなければならない。物価は上がる、金はあっても物は無いと言う時代だったので、私のような給料取りは大変でした。船に乗ってもらえる金は、じゃんじゃん値が上がりました。私が100円給料のとき、船乗りは一晩で1000円くらい取ってくるとか・・。私が月に3000円のとき、サンマ漁に1回行って3万円です。北洋とかソ連の鮭を獲る船だと、1軒の家から3人が1回行くだけで家が建ったような時代です。それくらい取れる。バカでもかまわない。とにかく船さえ乗れば、一人前。みんな中学終われば直ぐ船に行きました。義務教育なんて、勉強なんてどうでも良いという、そういう時代です。今大体50代から60代の人は、中学を終わったら海へ行って船に乗りました。その頃は船も多かった。船に乗れば、戸倉小浜みたいに立派な家が建った時代です。
歌津には、役場と農協と漁業会とか、官公庁の勤め口はそれくらいしかなかった。銀行は戦後しばらくしてからです。だから、皆、海へ行くか、会社や工場のある東京や仙台へ行くか・・そんな風でした。
「縦の糸はあなた、横の糸は私──夫婦の自分史」千葉貞雄さん・きちよさん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和4(1929)年生まれ
私の子ども時代は、食糧難だから、食べ物がないとき。今食べている梨もない。畑へ行って大根を盗んで食う・・そんなのが遊びだった時代です。大根は生もなにも、なんでも生で食べたね。
サツマイモを食べてるのは良い方。大根の葉っぱだの、そこらにある草っぱ、葉っぱがあるものを採ってきて食べたり、今の人たちは食べれないだろうね。肉もないから、山にいるウサギを捕って食べたりね。
「縦の糸はあなた、横の糸は私──夫婦の自分史」千葉貞雄さん・きちよさん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和4(1929)年生まれ
いま、志津川には同じような気持ちで仙台や東京から集まってきた人がたくさんいます。だから、それに参加して、私は百姓だから畑、遊休農地の活用を考えたいと思っています。そうは言っても、私たちも歌津の井の中の蛙ですから、いろいろな人の知恵を借りて全国展開をしていこうと考えているんですよ。
それから、歌津は味噌が美味しいんですよ。というのも、宮城には特産のミヤギシロメという大豆があって、昔は歌津の豆の値段が決まらないと市場の値段がつかないと言われるくらいでした。
とにかく、歌津は土が粘土質だから、どんな作物も美味しくできるんです。大豆も上質で大粒の豆が穫れます。それが、最近は漁業ばかりやって豆は作らなくなった。昔は、歌津の韮(にら)の浜から志津川の袖浜あたりの海岸線は、ずーっと大豆の産地だったんですよ。だからね、それを蘇らせたい。歌津には、昔、麦を作っていた畑が、ハマの方、海岸寄りにあって、草ぼうぼうに荒れた状態でそのままになっています。今でも3反歩か4反歩は残っているはずです。そこに、トラクターさえ入れればすぐに使えるようになります。土地の所有権の問題もあって、機械を通す道を作っておかなかったので、それができないでいるんですが、何とかならないかと考えています。
そして、ただ大豆を売るのではなく、味噌を作るんです。これは絶対にいいと思いますよ。美味しいし、雇用も生む。私も震災前には、黒豆を作って大きな桶で味噌も作っていました。その味噌がおいしいと評判で、以前は神奈川県の茅ヶ崎に住む親戚にもよく送っていました。その味噌で味噌汁を作っていたら、香りをかぎつけた近所の人に「どこの味噌か」と質問されたこともあるそうです。しかし、津波で私の家にあった2つの味噌樽は流されてしまいました。でも、おそらくどこかに種は残っているはずです。もし、この味噌を復活させることができたら、必ず歌津の名産品になるでしょう。
その日、私は志津川で議員の仕事をしていました。地震の大きな揺れがおさまって、時間を計算しながら、あそことあそこが越えられれば大丈夫と・・。車で家に戻りました。
震災後は、電気が止まってしまいましたが、薪ストーブと炭炬燵が役に立ちました。元はかんちゃんのお父さんが炭窯をやっていたんですが、震災でできなくなってしまったので、今は志津川の入谷地区で焼いたものを買っています。1袋2000円くらいかな。温かいんです、炭は。遠赤外線ですからね。暖をとることができて、助かりました。友だちが冷凍庫を持っていて、停電で溶けてしまうから、魚とか加工したものを「食べてくれ」と持ってきてくれたりもしましたね。
あと水は、全く汚れの無い川の水、それをポリ容器に入れて、従兄弟と交代で汲みました。まず、「水を汲ませてください」っていう多くの方が来たので、水槽をきれいにして、そこからバケツで汲めるようにしました。燃料が手に入ってからはポンプアップで汲み上げ出来るようになりました。
今朝も、気仙沼の鹿折(ししおり)まで行ってきましたが、まあ、驚きますよ。工場は焼けてメチャメチャだし、水も来ているし、あれでは寝ることもできません。半年経ってもあの状態とは、酷いものです。1回行ってみたらよく分かると思います。それでは、歌津の復興はどうするのか、という話です。
歌津は海と山の町です。とくに漁業は盛んなので、まず第一次産業を早く立て直したい。
でも、船を揃えるにも、ホタテや貝の動力船だと9トン級の漁船が必要です。そうなると、少なくとも5、6千万円はかかりますから、家を建てるより高くつく。しかも、それは船を揃えるだけの金額で、漁を始めるにも5、6千万はかかります。この地域で考えたら、ワカメや海藻、アワビなどを採る24尺くらいの強化プラスチックの船でも一隻何百万円。それにワカメの資材なんかを揃えると5、6百万円はかかるでしょう。それから、資材を置く土地も必要です。それなのに、土地はない、家もない。土地だけでもあればいいけれど、仮設住宅に入っている人はそれもないんです。しかも、2年の期限が過ぎたら、出て行かなきゃなりません。だから、早い段階で資金が必要です。神戸などの震災とは状況が違うんです。
しかし、「自然にはかなわない」。農業をやるにしても、今回の震災にしても、相手が自然では、どうしようもないですね。これは、吉川英治が書いた『宮本武蔵』を読んで改めて悟りました。武蔵は精神統一のために山にこもり、畑を開墾して自給自足の生活をしたんですね。そして、畑や田んぼは、自然から幾度となく被害を受けました。そのうえで、自然には勝てない、自然を利用しなくてはだめだと悟った。だから、佐々木小次郎との巌流島の対決でも武蔵は朝日を背負って立つ。そこで構えたときに、小次郎の目を朝日がくらますんです。私も、武蔵ではないんだけれど、やはり自然には勝てない、うまく利用することだと、つくづく思います。