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道路に面したところに店先があって、そこの窓から、祖母が雁月(がんづき)という練り菓子、ういろうより少し固いような菓子を作って、売っていましたね。泊浜とかそのほか浜の方の人たちが、山の方に田畑を持っているので、そこに行く途中に馬を休ませて、タバコ(おやつ)にその雁月を買って食べる人もあったんでしょう。高さが2センチくらいで値段は5円くらいじゃないかな。けっこうね、それで小遣いを稼いだように記憶してますね。
雁月の材料は、主に小麦粉と砂糖で、粉を溶いて砂糖を入れて、そこに炭酸か何か入れ、缶に入れ、蒸かし釜で蒸かすんです。白砂糖なら白っぽく、黒砂糖を使えば黒っぽくなる。
遊びでよくやったのは、「メンコ打ち」、僕らの言葉で、「バッタ打ち」でしたね。私はあんまり得意じゃなかったんですが。
小さいバッタが大きいバッタをひっくり返すんだから、どういう物理的現象で風がいくかわかんないけど、何人か、そういう上手な人いましたね。
僕の得意は、座金(ざがね)の丸っこい奴をね、どこから購入したのか、友だちからもらったのか、みな持ってんですよね。その丸い座金を離れた場所から投げて、メンコに当たってひっくり返ればいいという遊びでした。僕もミカン箱いっぱいになるくらいメンコが溜まったし、石油一斗缶半分くらい持ってた人もいましたね。あまり夢中になると、パチンコなんかと同じでね、もう何も考えませんから、勉強のこともね。
もうひとつ、忘れられないのは酒蔵。酒屋さんが1軒あって、友だち3人ぐらいと、そこの高い蔵にね、スズメがいろんなものを運んで来て巣をつくっているところに、はしごを架けて登って、スズメの子を、赤ちゃんを捕るんですよ。
高さは2階の屋根の下あたりです。雨どいの所とかに巣がありました。子どもというのは、みんな、それは自然なことなんですが、高さに対する恐怖がないんですよ。「このはしごが倒れたらどうしよう」とか、「屋根から落っこちたらどうしよう」とか考えないんですねえ。
なんで捕るのかって、その鳥を焼いたり煮たりするわけじゃなくて、自分の手で取り上げて、それだけで満足なんだね。持って帰らないですよ。そこに、自然にほったらかして。僕だけじゃなく、多くの友だちがやりました。それは昭和の初めあたりでしょうね。小学校低学年くらいです。
小学校に入ってから、夏休み近くなると、海水浴場を青年会が世話してくれて、海岸から40メートルぐらい離れた場所に、海中に、木でやぐらを組んでくれました。それが楽しみでね(笑)。「あ、夏が来た」と思ったものです。磯の潮が引いてから10~15メートル、それらしく泳いだら、やぐらの家に行って休んだりして過ごしました。
この季節はもちろん母親などが、夏用の白と黒の合わさったような着物を出してくれました。僕が6年生のときは、洋服着たのは2人ぐらいしかいないものね。主流は着物でしたよ。
父の実家は半農半漁でした。この辺はたいてい半農半漁でしたね。農業はお米ですね。漁は今のような漁師ではなく、磯漁です。天然もののアワビ、ウニ、あるいは海藻をとって、生計の足しにしていました。今よりも若干値段は安かったかもしれませんが、数量はありましたからね。ね。
アワビなんかは磯で1メートル50センチくらいの深さに、8センチから10センチ位の大きさのものが獲れました。アワビは3.3センチ以上の大きさを獲りなさいってことが決まっていたわけです。
家内もね、15年前、20年前はアワビの開口になると漁に出かけて行きましたよ。
昭和17(1942)年ごろ東京を引き払い、こちらに戻ってきました。
1年間漁業協同組合に行って、そして小学校国民学校の今でいえば、代用教員の「助教(じょきょう)」に任命されて、月俸28円を頂くことになりました。
教員生活は、戦時中の昭和18(1943)年4月1日、地元伊里前の国民学校から始まりました。昭和31(1956)年まで勤めたんですから。13年間いました。それから同じ町内の、家内の出身学校の名足小学校、そこに11年いて、昭和42(1967)年に、去年廃校になった荒砥小学校に赴任し、そこに4年間いて、最後は志津川小学校に8年間いまして、昭和54(1979)年の3月に辞めました。
教職時代で一番嬉しかったのは、代用教員の「助教」から正規の「教諭」になったことでしたね。それまで数年かかりました。また、その後昭和34(1959)年ごろ「小学校教諭一級普通免許状」というのを貰いました。短大を出ても2級免許状しかもらえないのです。もちろん、長い期間かけて、大学の講座とか公開講座とか、あるいは宮城県教育委員会主催する講座とか受けて、単位を取ったのです。その時の2つは嬉しかったですね。
津波のときは、伊里前から隣町の志津川に買い物にいくつもりで、歌津駅の待合室におりました。志津川は電車賃で200円の区間です。家内が3年間くらい寝たり起きたりしていた頃に、僕が炊事をしましたから、自分で調理ができるんです。なので、買い物のために志津川町まで行くのに、14時43分の気仙沼ゆきの列車に乗ろうと思って待っていました。すると「列車が始発から、点検のため15分遅れになっている」という案内があって、そのときあの地震がありました。
で、僕はチリ地震津波(1960年)、昭和8年津波(1933年)の体験がありますから、ホームというものは石を積んであって、プラットホームあって、屋根あって、高いもんですから、待合室からそこへ逃げようと思ったんです。そしたら女の駅員さんが2人来て、「山内さん、危ないから、ホームさ行ったらダメだ」って。僕は1週間に1回、多い時は2回くらい駅に来ていて、回数券を買うから、名前ぐらいわかるんですね。リュックサックを背負ったまま、両腕を女の駅員2人に挟まれて、屋外に出されてね、「早く外さ避難しなさい」と。そのうちにまたも震度7の大物の揺れが来て、電信柱がいかにも倒れそうになり、遠くで雷みたいな音が鳴っていました。この87歳が、もうタイルと舗装の上、地べたに這おうと思うくらいにすごかったんです。
そうして、みんな車を避難させる目的で、運転手ひとりの車が、数十台列をなして、次々に志津川高等学校の高台目指していくわけです。その中で、1台止めて乗せてもらおうと思うんだけど、車間距離が接近してるから、急に停めたら衝突してしまいそうでした。運転している人の中に知ってる人もちろんいないから、停められないでいたんです。そしたらね、お隣の人が「山内さん、早く乗らい(乗りなさい)」って。
お隣の菅原整骨院のお姉ちゃんが、自分の軽乗用車を避難させようと思って、自分だけ乗ってたの。隙をねらって乗せてもらいました。志津川高校まで歩いたらやっぱり4〜5百メートルの距離があったから、荷物を捨てたとしても、心臓も弱っていますし、体が持たなかったと思いますね。幸運にも乗っけてもらって、高台の志津川高校の屋内体育館に避難することができました。
津波が到達するまでは時間少しあったから、その高台から南の方向をみんなが見てるので行ってみると、津波が押し寄せてくるのが見えました。川を上る波が溢れて、こっちの方の道路とか、田んぼの方に流れて来ていました。もし列車がちゃんと来ていたら、少々の遅れくらいで発車していても、途中で脱線したりひっくり返ったりで、僕はおそらく死んでたでしょうね。
私は、満州引き揚げの前に日本へ戻り、そして東京大空襲の前に東京から田舎に引き上げてきていましたし、強運だと思いますね。
だから、大津波で死ななくて、肺炎なんかで死んではだめだと自分でも思ってるんです。
結婚して2~3年後に、2番目の弟が出稼ぎに行って、大謀網(だいぼうあみ)漁(沖に仕掛け、魚を囲い込んで出られなくする漁法)で成功して、当時のお金で1500円も稼いできたんです。安いお家が一軒建つほどの金額でした。当時弟は結婚する前で18歳か19歳でないだろうかな。一緒に住んでたんですが、自分が生まれたこの家を改築するのを金銭的に助けてくれたんですね。
1500円を当てた大謀網というのは、岩手県の要谷(ようがい)というところの網元へ弟が出稼ぎに行ってしていたんですね。1回の漁でそれだけ稼いだのでなくて、夏から秋の3カ月くらい働いてのお金だね。主にマグロですね。季節によって冬はタラね。
名足の人と、歌津から弟を含めて2人、出稼ぎに行ったんですね。歌津の1500円を当てたもう1人の人はその後動員されて、空襲で焼夷弾か何かを受けて亡くなったそうです。
友だちから聞いたのですが、1500円を当てたあと、泊浜や高台の方角に田んぼある60あとさきのお爺さんが、うちを通過する時に馬を引っ張りながら、「1500円当たった家はこの家だよ」と言いながら歩いて行ったってことを聞きましたね。
3期目で、市町村合併の話が出て、合併協議会の委員に就任しました。
当初は合併するにあたって、気仙沼含めてもっと広域でするのがいいなと考えていたんですが、最終的には、志津川と合併することになりました。
農共済で経験しましたが、合併というのは、規模の小さい方が大きい方に吸収されてしまうものでした。志津川と歌津は、人口などの規模からいくと、3対1。歌津は志津川の3分の1しかありませんでした。経験上分かるんですが、志津川はそのころ財政状態があまり良くなかったので、私は合併協議会では歌津が不利になると主張していました。ああ言えばこういうで、やりあいましたが、とにかく最後はいうこともなくなってきました。けれど、農共済にいたときから津波の文書への影響を見ていましたが、本吉支所が志津川にあって、津波で壊滅的な被害を受けたんですよ。農共済でも、その時は「津波で流されて資料がない、いろんな何がない」となって「何をしているんだ」と感じたこともあって、町役場はあの場所では駄目だよ、と。志津川の役所も昭和35年のチリ津波の頃をみているはずだから、町役場の場所はこれでいいのか、役場は高台に建てないと駄目だよと、合併協議会があるたびに、そう言ってたんですよ。最後はその役場問題になったわけですよ。「役場は高台に移転されなくては合併しないぞ」と主張しました。議会は当初、15人いた議員のうち、合併賛成は4人しかいなかったんです。ところが、歌津町民のほうから、合併賛成の7000人にも上る署名を集めてきたんです。この署名を突きつけられたときは、ガクッと来ましたね。「ああ、町民は合併を望んでるんだ」と。つまり歌津町議会は反対、地域の方は合併に大賛成だった。地域の方に恩義のある議員が、ほとんどの方が合併賛成と言っているのに、折れざるを得ないでしょう。「ああ、それではもう仕方ないな」と。ただし、高台移転の意見は捨てなかった。そして今のベイサイドアリーナ、あそこに立てろと主張したんです。そんな話も今更ですよね。
とにかく平成17年(2005年)に、歌津町と志津川町は合併して南三陸町になりました。合併してもまた議員になれといって推してくれる人もいましたが、そのころから、体調を崩して、肝臓の手術をしました。見てください、ここがすごい傷なんだ、ほら。そんなわけで議員は辞めました。
歌津の吉野沢に当時、楠原・三浦という2つの瓦工場(こうば)があったんですね。そこに1日百円で働き始めました。12月に佐沼から帰ってきてすぐでした。
その当時日給百円は、まあ、普通だったんじゃないですかね。弁当持ってね。働くことで、夜は定時制高校に通うことができたんですよ。そこは親しい友だちなんか行ってたもんで、つないでもらったんですね。当時は仕事をさがすのでも、職業安定所なんていうのもなかったような気がします。人を通して仕事に行ったような記憶がありますね。
工場には家から、学校の隣のね、バラックみたいなとこから通いましたね(笑)。1年くらい勤めたかなあ。昭和25~6年頃のことです。
思えば、私は志津川で大火にあって、移り住んだ歌津では戦争で何もなくなって、そしてようやく「いいな」と思ったときに津波でこんなに辛くなって、ずいぶん良くない巡り合わせの生涯だなあって気がしています。
まあ、そのうちに、伊里前契約会の小野寺弘司君に出会って、歌津の三嶋神社の祭典に関わるようになり、ついには神社の氏子総代にさせられてしまって(笑)。50代40代後半からかな。事務局長みたいなことさせられてね。三嶋神社に行くとわかりますが、表の急な階段がありますね、参道はあれしかなかったの。でもそれでは神社が壊れた時困るから、裏参道つくりましょうということで、みんなから募金を集めて、3月にやっとできたとたんにこの災害です。裏参道はこの神社の再興には役に立つと思います。
戦争は日本が負けて終わったでしょ。「これは大変なことになってしまった」と思ったっけ。
みんなで泣いたりもしてたけど、それでも戦争が終わってみんなが故郷に帰って来ることが幸せだったねぇ。そして、歌津の方でも志津川の方でも演芸会が始まったの。私もあちこちの演芸会に行っては、少しでも演芸のまねごとをするのが楽しくて。
「日本よい国、東の空に」と歌いながら、道中囃子(どうちゅうばやし)といって、私が考えた踊りを志津川の青年たちに教えたこともあったよ。学校からずうっと松林が続いてて、その松林は今は津波で流されて一つもなくなってしまったけど、そこを練り歩くときのお囃子だよ。そして、佐沼の青年団の人たちが来ました。会長さんは都会に行って帰って来た人で素敵な方だった。
「何でもやる気になれば」「あらゆることをやらなければ」と思って一生懸命やったんだ。目が赤くなってもやるの。人様にお見せする限りは、下手なものをお見せすると恥ずかしいから、頑張らなければね。
13人家族で暮らしたこともあったからね。それも、1カ月、2カ月のことじゃないんだから。うちの父さんが海から魚を獲ってきて、米に換えて持ってきても、すぐなくなってくるんだ。家族が1人2人だったらいつまでも残ってる量でも、13人だとあっという間になくなるでしょ(笑)。
シラスを網でとって干して、大きな南京袋にいっぱい詰めて、自転車で商いに行ったなあ。本当にうちの父さんも苦労したから、私は実家を離れられなくなったの。
商いというものはありがたいものだよ。海のものがあれば、それが米にもなれば、菓子にもなれば、何かになる。
私は行商に出るのが好きで、いろいろ歩き回ったの。昔のことだから食料もない頃で、魚や海草を獲ったら市場に持っていって、その他は神社に祀ったり、行商に出て売ったり、お米に取り換えてもらったりしたんだ。
行商に出ると、近所のお寺の養蚕の神様に石を積む人たちが9人くらい来ていて、私が行けば魚もすぐ売れてなくなって、ありがたいことだった。タダではもらえないからってお米をくれたこともあった。魚を持って行って、お米を持って帰って、大変だったけれど、私たちも助かったもんだよ。
うちの父さんの昔から知り合いで、農家するときに馬を借りてきてね、馬追もしたよ。
馬というものは、人の何倍も働いているから、かわいそうでな。飼料なんか背負わせて行ったけども、それを降ろしてあげると食べさせたくなるのさ。そして、かわいそうだからって食べさせたら、今度は馬が私の根性見て、食べさせなきゃ動かなくなるの。私って本当にへんてこな人だけど、優しいことは優しいんだよ。(笑)
11月から2月の頃、夜になると大人たちが拍子木もって『火の用心』やるんです。そうやって火まわりしだんだね。そこに行って遊ぶんです。一緒に回ったり。焚き火を一番する頃だしね。その時代は火をおこしていたのは薪しかないからね。私も大きくなって家にいた時は拍子木持ってやりました。今はそういうことしないけど。
また冬場の遊びで思い出すのは、ケンケンで戦ったりするのがあったな。
何人かで組んで「殴り込みだ!」ってケンケンをして(相手を)転ばせたら、自分の陣地の中に戻ってきて、最後に何人残ったから勝ちだというような遊びをしました。ジャンケンするような余裕はないんです。殴り込みといっても、本当に殴ったりはしません。
また、そのころはサッカーもやりました。5、6年になってくるとね。野球をやりたくてもバットもない、杉の木だの栗の木だのの枝をバットにするような時代でしたから。最近です。バットだのグローブだのあるのは。サッカーのボールは、今みたいなサッカーボールじゃなくて、ただの赤いゴムのボールです。その空気がなくなると自転車屋の空気入れで入れたんです。今みたいなサッカーボールなんてないですから。
今度の災害でも、契約会の財産に山があるから、その山を提供して、昔のまま分散しないで、伊里前を再生したいという動きがあるわけですよ。仮設は2年たったら、どっかへ行かなきゃいけない。その前にね、土地を提供しておいて、造成して、元禄さながらに町割りをしてね、町を作って下さい、ということです。
そんなもの、どんどん進めていいはずなんです。そうでないとね、みんなが高台に行きたいって、てんでに勝手に行ったら町の形態も何もなくなってしまいます。町づくりをする必要がなくなってしまうんです。
ここにはもう、家は建てられないようですよ。今でも許可さえあれば家の権利はあるわけだから、建てたいし、千年に一度しかこんなでっかい津波は来ないと思いますよ。ちっちゃい津波は何度もくるけれど。6mの防潮堤なんかは、チリ地震の津波、あれに耐え抜くように造ったはずだったけれど、それが今度の津波でどこへ行ったか無くなってしまって、防潮堤を作る予定も何も無いようです。
本音を言えば、高台から下に降りて、昔の町並みみたいになるんだったら、そこに行って、町づくりをやってみたいですね。ただ、歌津はまだいいんですよ、志津川なんてあんな広大なところに一軒も家を建てるな、なんていったら、とんでもない話ですよ。代わりの場所がどこにも無いですからね。
伊里前の場合は、この近辺にも契約の山とかそういう共有地がいっぱいあるんですよ。だから、造成費用を国に出してもらえば、来年と言わず造成地は出ると思いますよ。そうでないと対応が遅くなればなるほど、(伊里前を離れたまま)帰ってくる人がいなくなりますから。