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震災から2日後、長男が死んだと噂で聞きました。
私の長男は、役場に勤めていたので、震災当日も産業課の課長に同行して田束山で樹木の調査をしていたそうです。
地震の直後、すぐにジープで山を降りて志津川の役場へ向かいました。その後、近くの防潮堤の水門を締めに行って防災庁舎に登り、そこで津波に流されて亡くなったんです。
後日、防災庁舎で生き残った歌津町出身の2人の職員が私の家にやって来て、涙を流しながら「私もあの日、屋上にいました。典孝君もいらっしゃいました」と報告をしてくれました。
震災の時は、ここ(魚竜館)で営業中でした。地震が来たら津波が来るっていうことは頭に入ってるから、日ごろから避難訓練もしていて、まずは、そこの庭の先の広い所に集まる、それから平成の森へ逃げる。あの時はお客さんもいたし、揺れが収まるのを待って皆を逃がすまでは、冷静にできました。
その時は娘も孫もいたので、私は揺れてる間は孫を抱いていました。娘も孫も従業員も平成の森の高台へ逃がしました。ここは、1メートルくらいの水門があって、そこを閉めると車が出られなくなるんです。だから、漁協の車も自分の車も全部出して空き地に移動させて、最後に誰も残っていないのを確認して、後はもう流してもしょうがないやって、AED(自動体外式除細動器)だけ取って、一番最後に私と家内がここを出ました。
私は、どうしてもどうなるのか、どの程度のが来るのか、津波をこの目で確かめたかったので、すぐそこの道路の上に登りました。そこなら道路からすぐ山に登れるから大丈夫だろうって、消防団や漁協の人たちと一緒でした。
津波は、本当にすごい力でした。バリバリドドドーンって。魚竜館の隣の新しい漁協の建物が影も形もなくなるんだから、こりゃあどうしようもねぇって・・。第二波、第三波って続いて、第三波なんて第一波の時に私たちが見ていた場所より2メートル以上も上に水が来て、車なんて、みんな流されました。家内は、第一波を見て怖くなって、先に裏の山へ登ったので別々でした。
今、ここの前の広場は瓦礫の第一次の仮置き場ですが、次にどこへ持っていくのか? 場所も決まっていません。ここの2階は奇跡的に化石や展示物が残って東北大学に運ばれて仙台の博物館に飾られるそうです。魚竜館の建物は、ボランティアさんに掃除してもらいました。もう、中はきれいになってます。ここは、一番眺めの良い所だったんです。水が澄んだら海の全部が見えます。今は滅茶苦茶濁ってます。 普通は12月になると、歩いていると海の奥の方まで透き通って見えるんですよ。
2番目の高校生の孫は、志津川で、いつもは地震になると学校は子どもを直ぐに帰すんだけど、あの時は学校が子どもを出さなかったから助かりました。
帰るつもりで駅へ行っていたら・・・。志津川駅も津波で流されたからね。
あの日は寒いからカーテンを体に巻いて寝たそうです。志津川からここまで歩いて帰ってきたの。地震の後3日目の朝から歩き始めて、山伝いに来て、後ろから来たトラックに途中まで乗せてもらって、前を見たら剣道の先生の車がいたから、今度は先生に声をかけて歌津まで送ってもらって、ようやく帰って来ました。大きな男の孫もその女の孫も、2晩帰って来なかったから、もうこれはダメだから、「行方不明」と書けって、避難所で責められたんです。本当にその時は辛かった。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
一番大きい孫は、気仙沼の船のエンジンを直す会社で働いていました。気仙沼の鹿折(ししおり)という所です。津波が来て夜に火事になった所です。いや〜私、死んだと思ったんだー。だって、海と道路一本隔てただけの会社です。後は堤防があるだけ。
「津波が来るから早く逃げろ〜」って会社の上の人に言われたんだけど、パソコンで、ここに何千万円っていう会計があって、自分には責任があるから「これ、どうするんですか?」って。「そんな物いいから、逃げろ!」って言われて車で逃げて、まだ2年目で気仙沼の市内はそんなに詳しくないから渋滞に巻き込まれて、空いてる方へ行ったらお魚市場に出て、そこの屋上も津波の避難場所に指定されていたから、車を降りて駆け込んで・・・。危機一髪で助かったそうです。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
津波に流された日は、ちょうどマツモの開口日だったの。午前中はマツモを採りに海へ行っていました。それと、銀行から100万円を下ろしてあって、孫の車の保険をかけようと思っていました。
海から帰って来て、寒い日だったから、コーヒーを入れようとしていた時に地震が来ました。ワゴンで逃げたから、トラックも、せっかく採ったマツモも、100万円も、全部流されてしまいました。
鉄道の鉄橋があるところからちょっと手前に田んぼがあって、国道45号線の橋があるでしょ? その橋の下から津波が来たの。津波っていうのは、下がモジャモジャになってくるのね。1回目の津波が一直線になって来た時、私たちは幼稚園の上まで避難していました。そこから見ると、ナイアガラの滝みたいになって真っ白になってダーッて寄せてきたの。
でも、堤防もあるし水門もあるから大丈夫、ウチの手前は線路もあるんだから・・・って。そうしたら、そんな物は一つも役に立たない。水門もなにも、その上を越えて、線路も越えて、大きな波だったんだね。1回目で郵便局が流されました。
そうしたら次にウチのトラックが流れて、「あれ、なんだ?」って思ったら、ウチの船が流れて、その次の波が来たら、1度目の波で下が洗われてるから浮いたんだろうね。歩道を作って1年、立派な歩道だったんです。歩道は壊れないで、波がその歩道にバーンって当たってウチの2階の屋根を越えていったの。その勢いで、浮かされた格好になってウチも終わり。その波で小泉も全部終わり。
幼稚園に避難していたんだけど、ここも危ないから小学校へ行けってなって、小学校へ行けば中学へ行けって。もっと上へ上へって逃げました。今、上の方に家の残っている辺りまで逃げました。
中学へ戻ると、中学生の孫たちが地域ごとにプラカードを持って一生懸命やっていました。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
3月11日は志津川の高野会館の3階で、老人クラブの演芸会があったんで、それを見に行ったんですよ。ちょうどもう終わる頃に地震が来たんで、会館の職員がね、「津波来るから、どこさも逃げてはダメ、出てはダメだ」っていうわけです。だけどね、やっぱり逃げた人もいるわけです。
残った30人は、3階にいたから4階、屋上に上がりました。上がった瞬間にそこまで波が来ました。そして、屋上のさらにその上に機械室があったので、細い階段を上って、そこにみんなで入って行ったんです。
狭いからね、座ることもできないで立ちどおしなの。機械室に水が来て、電気が切れてしまったから、冷たくてもう大変。ずぶぬれだからね。足踏みしたりして、それでも、自分の足に全然、感覚がなかったんですよね、もう、自分の足だか、何だか・・・。頭が痛くなってくる、体は・・もう、どうにもしようがなかったんです。
もう波は一度で終わりではないんですよ、行ったり来たり何回も来たんです。7回ぐらいは来た感じがしましたね。一晩中いて、朝になって、昼も過ぎて、食べ物もお水も何もないまま、そこで過ごしたんです。どこも逃げるところなんてないんです。瓦礫で一杯で、歩くところもなかったんです。
まさか家が流されるなんて、思ってもみません。赤崎の方に1回目、2回目と津波が来て、3回目の津波と言うんでしょうか、その次の波が町まで入ってきて、その波で、ウチの脇の物置に入れてバイクとかがスポーンと出たんです。おばあちゃんのラクーター、息子が去年買った50ccのバイク、おじいちゃんのバイクも、ものの見事にスポーンと「あ、流れた」って感じでしたね。その後、鉄道の上から津波が落ちてきた。
テレビでも映してたよね? 高いところから落ちてくる力ってあるじゃないですか? その落ちる力と、45号線の橋と橋台の間から上がってくる水と両方で、ウチは家の基礎をベタコンって全部コンクリートで一つになっているやつだったから、そこから家がまるごと浮かされた感じになったんです。
「えっ? 家が浮かされた。流れてる」って。おじいちゃんもおばあちゃんも、「こういう時は泥棒が来るから家を見てなきゃ」って、「ふ〜ん」って見てたら、「あ、ウチの船、流れてきた」って。「きゃー」とか、そんな声を上げる余裕は無かったですね。
それで、私たちが見ている場所も危ないから、車を置いて逃げるように言われたんだけれど、親は足が痛いから、最後でいいから、とにかくみんなが行った後から車で行こうって、途中で歩けないおばあちゃんたちも拾って小学校まで行きました。それで、そこもダメってなって、もっと上の畑に車を置きました。
おばあちゃんたちは一度車を降りたんだけど、とても寒くていられないと思ったから、車の中に入ってもらって、私が外で様子を見ていました。あの時、軽トラだったらどうにもならなかったでしょうね。軽トラも土手の下の方にコロッと落ちたところまでは見ました。まだ見つからないですね。
その日は12時までお店で仕事をして、床屋ですね、マツモの開口だったので、1時〜2時は海にいました。開口の日にどこで採るか!? 場所は自分たちで決めるから、12時ギリギリまでお客さんをやって、海へ行って場所を探して、サイレンが鳴るんです、合図です。で、2時まで。いつもは終わりもサイレンが鳴るんだけれど、その日は鳴らなかった。でも、「だいたいもう2時だよね? 物も無いし・・・」って大きなゴミ袋に2つくらいを軽トラックに乗せて家に帰って来ました。
寒かったんですよ。それで、こたつにあたって、テレビを見ているうちに地震です。採ってきたマツモは根っこを綺麗に取ってから出荷なんです。「根っこ取んなきゃね〜」って、母に言われたんだけど「テレビが今好いところだから、終わったら〜」なんて話をしました。
1回目の地震では津波が来ると思ってなくて、水槽のこぼれた水を拭いていて、そうしたら2回目の地震が大きかった。テレビが切れたんです。で、テレビの大元が切れたと思ってないから「何で、こんな時にテレビ消すの? こういう時は逆に点けなくちゃ」って言ったら、「いや、何もしてない。切れたんだ」って。「えっ!? じゃあ、電気来なくなった?」そんな感じでした。
外を見たら幼稚園の上に消防車がいる。普通なら「避難してください」とかサイレン鳴らすはずの消防車が上にいる・・・。ウチはペアサッシだったから、外の音が聞こえないんです。家自体は全然壊れていなかった。なんか、静かで、よくわからないから、怖いし、危ないかもしれないって、庭にあった軽トラでワゴン車のところまで行って、ワゴン車に乗り換えて家まで乗ってきて、「まあ、とりあえず避難しましょう」って。
3月11日の地震の日は、その前に3カ月ほど、血小板が足りなくて高熱がでたり震えがきたりする症状で、入院していました。その時から足が不自由になってしまったの。痛いから注射したりしてね。
地震が起きたのは退院してから1カ月も経たないあたりだったね。茶の間にいたところで地震が来た。家の瓦がガラガラって音立てて落ちてきて、たまげた(驚いた)でば。外に出られなくなった。
家は本格的な母屋づくりで、阿部井組という腕のいい大工に頼んで、44年前に建てた、良い材料で建てた家だったんです。普通、瓦は7〜9段で作るけっども、化粧瓦を12段で作ってたんです。赤瓦で、みんなが真似たんだ。柱には松やひのきなど自分の山の木も使っていて、あんまりたくさん材木を集めてたんで、材木屋と間違われたりしました。どこも手を入れる必要もなくて、しっかりとした造りの家だった。家の中には中廊下があり、どこの部屋も通らずに行き来ができました。ずっと綺麗なままで、伝統的なつくりの家をわざわざ見に来る人もいたんだね。そこを4年前に、トイレやお風呂などの水回りや襖などにお金をかけて、バリアフリーに直したばかりだったんです。
ばんつぁん(奥さま)は兄の家に手伝いに行っていて、帰って家を見たとき、潰れてしまったと思ったって。
津波の来る少し前から雪が降ってきました。ドーンという鳴り物が2回起こり、20分ぐらいして津波が来たんです。知り合いの若いお姉さん2人が足の悪い私を迎えに来て、家から高いよその畑まで連れて行ってくれた。
この津波で、石浜神楽の踊りでずっとお姫様(娘役)をしていた人は、隣のお爺さんだったの。ところが、今回の津波で流されて亡くなったの。お姫様っていうのはユルくねぇ(簡単じゃない)からね。ちゃんと稽古するからね。振袖を着て女役をやるんで、普段も股を開かず歩く人でした。
小鯖に40年も50年も住んでて思うのは、私たちも家を流されたったら、やっぱり、ここには住みたくないですよね。最低でも気仙沼。病院のそば。そういうところを選びますよ。いくら子どもが仙台にいるたって、仙台まではとても・・。私たちの水に合わないから。この津波のあとも、やっぱり、ずいぶん多くの方が唐桑からも離れるんでないですかね。
昔のように子どもがあれば必ず、その子どもが跡継ぎしたもんだが、今はそうじゃないから、結局年老いた親が1人暮らしか2人暮らしになるわけだ。だから、まず、実際にその身になんないから、まだここにいるんだが、家が流されたったら、たぶんここにいないとおもいますよ。どうせ暮らすんだったら、お店が近いとか、病気になってもお医者さんに走って行けるとかね。何十年住んでなんでいまさら、って言われるべが、やっぱりねえ。
だからボランティアの人たちは、唐桑にしてみればなんてありがたい、こんな人の嫌がる瓦礫とかゴミとか、一生懸命汗水流して働いてくれるなんて、なんてありがたいんだろう。ほんとに感謝、感謝です。もしこんなことがどっかであったら、唐桑の人たちは進んで行くような人たちがほんとにあるんだろうかって。ないんでないかなあって。ボランティアの若い人たちに「お婆ちゃん、お婆ちゃん」って言われると、「なんとこの孫たちは・・」ってね(笑)。
ほんと、こんな津波なんてね、誰も予想しなかった。
津波のあった日は、お爺さんが気仙沼市立病院に入院してたんで、息子と見舞いに行って。「病院の食堂でお昼食べてんか」「そうしたほうがいいよね」って、お昼食べて、そしてジャスコで買い物して、それで帰って行ったの。
そしたら、安波(あんば)トンネル潜ったところで地震に遭ったんです。すんごく揺れてハンドルとられて大変だったの。とにかく動けなくなるくらい揺れたから、そして、みな信号が消えてしまったし、「あっ! この地震はただの地震で無い、津波が来っから、高台だ!」って私が騒いだんです。
車が前さも繋がるし、後ろもずっと繋がってしまったけれど、なんとか動いてね、そして高台の高校(東稜高校かと思われる)まで上がって行って、今晩の食べるおかず、パンだのいろいろ買ってたから、そんなの食べて、車の中で一晩過ごしたんです。
次の日、「唐桑に帰りたいんであれば、誘導して上げますよ」って方がいたんです。「もう一晩高校の体育館でお世話になるか・・」って言ってたんだが、そういう人が現れたもんで、「どうしても帰りたいな」って思ったんです。飲んでる薬もないし、「お願いします」って、誘導する車とうちの車ともう1台御崎さんのお姉ちゃんと3台繋がって、やっとのことで近所まで来たのね。それでも瓦礫があって家まで来れないから、親類の家で2晩目泊まって。「ごはんまだ食べないで来たの? おにぎり作ってたから」ってごちそうになって、お茶も貰って、「立派な布団でなくたっていいよ、その辺にあった布団でいいよ」って2晩目泊めて貰ったんです。
3日目にようやくここに来た。坂道は上がるに上がられないから、山の方回って、這って上がってきたの。そしたら、コップ1個も倒れてなかった。「もう、ガラスも何もかも落ちてんでねえか」って覚悟して来たけど、何にも壊れてない。あとで見たらお爺さんがこけしのような飾りものを、みんな倒れないように留めてたの。それでも茶碗も何もひとつも倒れてない。ここ、地盤が硬いんですよ。なんか、とんがった石が入り組んでいるところなのね、ここは。
3月11日は、税金申告が終わって、片付けをして、我々夫婦と息子と3人で家にいました。地震が来たとき、廊下の壁と壁の間に腕を広げてつかまりました。古い家だから潰れるんじゃないかと思いましたが、補強したから地震では大丈夫でした。物も殆ど落ちなかったのですが、店の酒なんか落ちて割れてしまいました。家はやっぱり補強してあると違うなと思いましたね。
子どもたちは高台の学校に行っていたので、良かったんです。家のすぐ近くに海円寺というお寺があったので。軽乗用車に2人で、まずそこに逃げましたが、地震が収まってすぐに警報が出たので、すぐ上の保育所まで車で登りました。息子はそこから志津川小学校まで逃げたんです。
私は呑気屋だから、とにかく自分の愛車が津波を被っては惜しいと思って、「ここなら絶対大丈夫だな」って思える高台まで持って行って、自宅にトコトコ戻り、記念硬貨だの何だの、アルバム、カメラ、ビデオ、米まで全部2階に運んだんです(笑)。「まだ、津波来ねぇんだな。おかしいなぁ」とは思いましたが、最初、波の高さは6mという放送だったんです。情報は変わっていったけど、こちらは停電だし、携帯も電波が全く駄目で、情報が分かんなくなってしまったんです。それから、誰が叫んだか分からないけど、「来たっ!」というが聞こえました。「それじゃあ逃げましょう」って、トコトコすこし高い場所に登って津波を眺めたんです。
そうしたら、「おお水来たぞ!」と言う間に、道路沿いに水が来て、追われるようにだんだん高いところに逃げてったんです。そして、木の間から、自分のうちが波を被り、潰れ、そしてうちの近く全部が「ビリビリビリビリ」って音を立てて潰れていく様子が見えました。私も本当に、あと3分逃げるのが遅かったら終わりだったんだなあと思いました。
我々は街の中だから海岸の様子は全然分からなかった。家の中で津波が来るのを待ってた人も沢山いるわけです。うちの前には45号線が入っていますが、その奥の役場の方に行ったところの部落は、うちから500メートルぐらいの距離なのに、チリ地震の時、津波が来なかったので、そこの人たちは逃げないでいたんです。津波が来てから騒いでも、余程足の速い人でないと間に合わない。皆、流されていってしまったんです。
逃げる前は、折角集めた趣味のものなどが濡れると勿体無いと思ったから、みんな2階に上げたんです。最初っから津波が40分後に来ます、って言われればね、車にみな積んで逃げたのに、とは思いました。けれど、頭に北海道の奥尻の津波のことがあったんです。津波は震源が近ければ「5、6分で来る」っていうことが。だから「急げ」となったわけです。
その判断が大事。町側は津波が何分後にくるのか、全然発表しなかったんですよ。後から聞いた話だけど、浜の人たちはね、津波の前に水が引いたから、津波が来るまでに30分かかるなどと分かったそうです。娘に聞くと、東京では津波到達時間の発表があったそうです。ラジオなんか持って逃げている人はそんなにいませんでした。逃げる時は必死で、家に2台も3台もあるラジオを持ってく余裕がないんです。その余裕というのはどっから来るかというと、情報なんですよね。
あの日の情報は、「逃げろ、逃げろ」の一点張りでした。もし「到達は何分後」とか、「何を持って逃げろ」とか言われれば持って行ったと思います。地震が終わったか終わらないかの内に慌てて逃げたから、丸裸ですよ。文字通り裸一貫。80年働いて何もなくなってしまったんですから(笑)
最終的には志津川小学校の避難所に皆集まりました。裏が山になっているから山越えをして小学校に集合したんです。そこから、水もなければ食料もない。薬も持ってこなかったので、飲めませんでした。5日間くらい薬がなかったんです。1週間くらい経った頃、眼下のお医者さんに頼んでなんとか薬を出してもらいました。金を払うといったんだけど、「お見舞いだからいらない」って受け取ってもらえませんでした。
1日目はあきらめというか開き直ったって気持ちでしたね。誰も泣かないし、みんな笑ってましたよ。
犬はいましたね。猫はいませんでしたが。
あきらめムードではありましたが、ただあんまり心配はしていませんでした。小学校の校舎にはタンクがあって、水だけはあったから、大事にして飲みました。ただ、寒くて寝られないんです。食料は当日は何もありませんでした。ビスケットをポケットに1つや2つ持っていたような人もいたけど、殆どの人は何もなしです。次の日の11時頃、やっとおにぎりが届きました。
たばこは吸えなかったのですが、2日くらいは吸えなくても大丈夫ということを経験しましたね。みんなで体育館にいたので、余震がずっとあったけど、みんなでいたら怖くないという気持ちでした。でも、全然眠れませんでした。ただ横になるだけです。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
地震の揺れの後、「津波来るかな?」って海を見に行ったんです。そうしたら、かなり水の引きが速いものだから、「こりゃあ、いかん」と。上の娘のところに女の子の孫が2人いて、1人が気仙沼の高等学校へ通っているので、その孫が心配で軽トラックに乗って迎えに行こうとしました。
途中で津波が来て、山に潜り込んで、潜るって言うより、登ってだな、それで、なんとかかんとか高校まで行ったんだけれど、孫はもう帰った後でわからなくて・・。それで諦めて帰ってくるのに45号線は全く使えないから、知っている山道をグルっと回って戻って来ました。
後から聞いたら、気仙沼のジャスコに居たそうです。そこが危ないからと、私たちの子どもが通った旧宮城県鼎が浦(かなえがうら)高等学校(現在の気仙沼高等学校)で一晩過ごして、それから今度は気仙沼西高校へ行ったということです。怪我がなくて良かったです。
下の助産師の娘は、車で流されたそうです。自分の仕事場に向かっている途中で流されて、連絡の取りようがなくて、携帯電話も何も効かなかったですからね、半分あきらめていました。
そうしたら、私が避難した場所がたまたま発電機を起こしてテレビを点けたら、ウチの娘がテレビに写ったんですよ。瓦礫の中で助けを求めている姿でした。「ああ、これ助かったんだな」って、一応安心しました。
3日後に帰って来て、体が半分以上黒くなっていました。一晩海の中で瓦礫に揉まれたからね。体格が良かったから、今度ばかりは「お前スタイル云々じゃなくて、体格良くて良かったな」って、家族で笑い話にすることができました。
娘が低学年の頃は小学校にプールが無かったんです。だから、小さい頃はウチの前の川で泳ぎ、そうして海でも泳いで泳ぎを覚えました。高学年になって小学校にプールができたら、水泳大会で優勝したり記録を持っていたりしていたのが、今回幸いしたかなぁと思います。
家には婆さん(奥様)1人が残っていました。家の裏の山を崩れないように固めていたセメントの壁に、避難する時用に階段を作ってあったので、その階段を登って逃げたそうです。それで女房は助かりました。登って逃げて山の上から見ていたら自分の家がパーっと流されていくから、手でこう捕まえたくなったそうです。
上の娘は、もう1人の孫が専門学校の卒業式だったので、仙台に行っていました。その仙台からの帰りに地震と津波です。石巻から柳津(やないづ)の近くまで来て、そこで津波をかわすことができたんですが、もう少し早い時間に帰り始めていたら、途中で津波に呑まれていたんじゃないかと思います。タイミングが良かったと思います。おかげ様で、家族全員助かることができました。