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私が育った家は農家なんですが、米や麦、豆、ソバなどを栽培していました。その当時は、広さとしては中の上くらい、田んぼと畑で一町二、三反ぐらいやってたと思いますね。海岸が近いもので、漁業権も持っていたので、農業のかたわら、海の方もちょっとやりましたね。このへんはウニやアワビの産地だし、夏の始めのワカメや、春になればヒジキ、海苔などの海藻も採れるんです。
3月になったら畑の仕事が始まります。麦のあとのかさを取ったりします。麦蒔くのは、9月から10月ですが、翌年の3月頃、雑草を取ったり、麦踏みしたり、手入れをしたんです。
麦踏みというのは、冬に土が凍って、春になると溶けて、根が浮き上がってるから、土をかぶせて足で踏むんです。麦の収穫は7月頃だね、お盆の前に収穫終わりますから。お米は5月頃に植えるんですね。4月頃に苗をみな、各家庭で作ってね。収穫は10月頃ですね。この辺りの冬は、稲の収穫が終わると翌年の3月頃まで畑が凍ったりするので、農業はお休みなんですね。
ごはんはね、麦を一杯食べました。そこに米を混ぜて、それでも量が足んなくて大根を足したのね。なんていうの、カテ(いわゆる「かてめし」のこと)っていったのかな。とにかく鍋に麦も、大根も入れて、そこに米も入れる。だから、米だけ炊くんならば簡単だけども、そういうのも入れっからね。あの頃と今は、本当に変わったね。麦なんか見あたらないよね。なんであんなに麦食べたんだろうねぇ。米と麦、どっちが美味しいって、米が美味しい! 米はお正月だけ。米のごはんはお正月だけで、その他は、お盆におこわなんかするからね。今の人たちは、おこわなんか珍しくも何も無いのにねえ。
「お正月はいいもんだ 雪のようなご飯食べて 油のような酒飲んで お正月はいいもんだ」 だっけか。そういう歌があったんだよな~あ。
(お正月の歌は口伝えで伝承されており、いろいろな歌詞があるようです)
ずっと昔は、酒っこもお正月しか飲まないんだよ。普通には飲まない。それはずっと昔の事だよ。今は、子どもたちも私も弟たちも、よそにてんでに(ばらばらに)暮らしてるから、寄る(集まる)というと、みんな酒っこが好きなの。だから私もおすばて作りに来い来い、っていうけどもね、話の相手はさっぱり。飲むことばっかり(笑)。
あっ、餅が一番ごちそう。餅が一番のごちそうなの。なんか喜びごとなんかがあると餅つくのね。それが一番のごちそうなの。あとはお正月は、粟餅だの、小豆餅だの、いっぱい作るんだな。餅もちつくとき米だけでなく、そういうのを入れたんだね。お正月じゅうお昼には餅焼いて食べたんだな。
お米食べるようになったのは、この頃でねえっぺかなあ? いつ頃か忘れたよう。ずっと昔のことは覚えてんけどね、今のことは忘れるの。あらあらあら。
だけんども、子どもが田束山さんの遠足だの、お祭りだの、どっかさ行くといえば、みんながするように、おにぎりさ梅干いれて白いごはんを食べさせたけど、ふつうは麦が入ったの食べたね。
あの頃は、畑に麦、いっぱい蒔いたんだよ。それで麦のあとに豆蒔いたから、畑が遊ぶ隙が少しもないんだよね。畑には、粟だの、きびだの、そんなのも蒔いたんだけど、干して、そいで粉にするまで、手がかかるから好きでなかったんだよね。
米は、昔はこんなに米とれなかったんだよね。肥料もそんなにしなかったし。今は米がいっぱい穫れっから、このように避難しても米あるもの。
今では、麦をひとつも蒔かないのよね。味噌もうちで作らないから、そんなに豆も蒔かないし。ゆで豆するのに、青豆で食べるだけ蒔くのね。今考えてみると、あの頃は、どこの家でも、畑っつう畑に麦蒔いて、その後に豆蒔いて、本当に少しも畑の遊ぶ隙ないの。そんで機械ないから、みんな鍬(くわ)を使って手でやったの。うちには馬は無かったの。まわりにそんなに農家がなかったし、田んぼもなかったから。
歌津では半農半漁の家が多く、商店は少ないですね。とくに最近は、郊外に大型スーパーなどができたため商店街は苦労したことと思います。この先も、伊里前に新しい商店街ができることはないと思います。漁師よりは農家の方が多く、だいたい6、7割は農家だと思います。お互い、もめ事もなく仲良く付き合っていますよ。
ちなみに、昭和30(1955)年以降は、国が予算を出して全国的に麦作りを推奨しました。このあたりの畑は、みんなハマの方、海岸寄りにあります。山の方は“タカ”、海の方は“ハマ”って言うんです。畑を区画整理して、トラクターの購入にも補助金が出ました。当時は、漁業が上手くいっていなかったので、みんな政府の補助金事業に乗って、畑を大きくし、機械を買って麦を作ったんです。しかしその後、麦の値段が安くなって、畑では食べられなくなりました。そこで、再び海に戻りましょうと、ワカメの養殖やホタテ漁をやるようになったんです。漁業で、収入が得られるようになると、畑はどんどん荒れてしまいました。
食事も、米がないから、「つぶし麦」って言って、麦を竹の竿と木をつないだもので打(ぶ)って、ふるって、お母さんたちがついて、食べられるようにしたんです。
米だって、脱穀する機械がないから、昔は、千歯こきって言って、稲を束ねて半分くらいにしてね、ギザギザでこいで、押して、落としてから、米と糠にして・・・。今は田んぼから直ぐに機械に入れたら白米になるけれど、そういうことはなかったんです。そういう作業は、みんな手の仕事だったんです。
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