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今回の大津波でなぜ私が生き延びたか。それは孫に助けられたからなのです。
震災の直前、2人いるうちの小さい方の孫が「爺(ずん)ちゃん、温泉さ行って、1週間ゆっくりつかっておいで。お母さんと一緒に12日に迎えに行くから」と言ってくれ、私は鳴子中山ラドン温泉に行き、安閑としてお湯につかってたんです。ところが11日にあの大地震があり、温泉宿も行ったり来たりになったんです。10日の晩には58人の宿泊客があったんだけれども、もうみんなちりぢり、ばらばらに帰ってしまって、残ったのは私も含めて4人だけになりました。テレビで津波の様子を見たのですが、まさか家族が亡くなっているとは思わなかった。
当時戸倉の部落には98戸の家がありましたが、今回の津波で残ったのは高いところにあった1軒だけで、52人の方が亡くなったのです。一家で5人も亡くなった家もありました。うちでも、前日の10日、小さい(ちゃっこい)方の孫が岩手県一関市の昭和病院から、母親の顔が見たいからと戻って来ていたのですが、2人とも津波で流されてしまったのです。また、姉は同じ戸倉の西戸(さいど)というところに嫁いでいましたが、今回の津波で、姪と一緒に亡くなりました。そして祖父が書き残した記録は流失してしまったのです。
私も、迂闊だったなあと今さらながら後悔していますが、「ここまではどんなことしたって津波来ないよ」ということを孫に言っていたのです。「来たらば逃げろ」ということは言わなかったのです。これは私の一番の後悔です。
亡くなった孫たちのためにも、私はこの祖父から受け継いだ慶長津波の伝承をなんとしても町役場に届けなければ、死んでも死にきれない思いなのです。
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