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昭和8(1933)年と、昭和35(1960)年のチリ津波と、今度の津波は3回目。昭和8年の津波でも、私は家も小屋もみんな流されたんだ。やっぱり今度のように雪が降ってね。
津波の前には志津川(南三陸町)に住んでいました。今回の津波のとき、息子は船に乗っていたんだって。地震が起きてすぐは息子も一緒で、今家が1軒残ってる、山の方の隅っこのほうに車を2台とも運んで避難しました。もう時間が無くて、たくさん蓄えておいた食糧も少ししか持っていけないまま、車に積み込んだの。まさかそこまで津波が来るなんて思いも寄らなかったよ。車を置いてから、息子は船を見にいくって行ってしまいました。長女も一緒に逃げて来てたけど、私には分からなかったけど、そのとき伊里前(いさとまえ)(南三陸町歌津)のほうから波がこっちに来てたの。そこから車で波に追いかけられるようにして逃げたよ。
途中で娘に「そこの農協のところでいいんじゃないか」って言ったんだけど、娘は「ダメだ、ダメだ」って言って、もっと高いところに逃げたの。船を持っている人の土地があってそこが平らになってたから、そこに車を入れさせてもらって。後ろを振り返ったら、田の浦(南三陸町歌津)の方から来る波と、伊里前の魚竜館のほうから来る波がぶつかって、まるでもう噴水! たった今通ってきた農協のところも、清水浜は一気に、すべてが流されてしまった。もう、すごい、すごい! 一緒に見ていた人のなかに「私(おらい)の家が流される!」って言っている人もいました。
一度波が引いたときに、うちの孫が波の様子を見てたら、誰かが走ってきて、周りをぜんぜん見ないで自分の車の方に行くので、「そっちに行ってはダメだから、いいから、行きましょう」って言って引っ張ったんです。危なかったんですよ。車はようやくそのへんに引っかかっていて、そこから通帳がぶら下がっていたのを取ろうとして落ちかかっていたんだね。孫が「助けて、助けて」と叫んだので、それを聞いた娘がそこに行ってその人を引っ張り上げたんだ。
自分の住んでいたところでは130戸も家が流されて45人もの人が亡くなったの。だから、流されてしまった部落のところを通ると情けなくて涙が流れに流れてしまうよ。この仮設住宅の上のほうに1カ月いて、鳴子温泉に行っていくらか体を休めてに1カ月行って来たの。そのときも息子は働かなくちゃならなくて。「漁協の方で今働かねぇと、クビになってどこさも行くところが無くなる」って言って、鳴子から志津川の瓦礫の中へ通っていたよ。2日ぐらい、志津川のどこかの家に泊まって、また鳴子に行って、行ったり来たり大変だったねえ。
田束山に経塚遺跡というのがあってね、それを見つけてほっくり返したら、無断でやってしまったので、県からしこたま怒られてしまいました。多賀城の歴史資料館の館長が来て、掘ったものを、ガーゼに包んで持ちかえったあと、「お前たちは、無断発掘したけれど、重要なものを見つけた。功罪相半ばするから、不問に付す」というわけで告発されませんでした。
この田束山経塚の発見者は伊藤教授となっており、今でも経塚は、仙台の多賀城の歴史資料館に展示されています。
それからそこで見つけたガラクタを、うちにもって来ることができたので、家内と二人でセメダインでくっつけてみたんです。そしたらこんな壺になりました。
ある日新聞記者が来てね、自宅に保管してあった壺を見て、拾ったもの無断で持っていると「ネコババ、犯罪だよ」というので、急いで警察に届けました。警察では、「これは文化財に認定する」ということになり、戻されてきました。それで、魚竜館に津波で流されるまで飾ってあったんですよ。
戦国時代には、歌津町のなかでも戦いがあったんです。魚竜化石のある館崎、あそこには昔、館城(たてじょう)という城があって、それと牧野家が戦って、勝ったらしいんです。そして、その勝利の日を三嶋神社のご縁日にしたのだそうです。魚竜館のところにある管の浜(くだのはま)の前の山際の道路のあたりは、昔は全部湖でした。だから沼深(ぬまぶかい)という屋号になったとか。そういう、いろいろな歴史が書かれてあったんだと、私の祖父ちゃんは残念がっていました。
その、年寄は年寄なりに教えて、「こうやるんだ」って、できないことはやってもらって、行政は応援してね。「特区」にして会社にして、そうしたら水産のやり方が確実に変わります。これはチャンスなんです。言葉で説明してもダメです。漁師は見て覚える。やって見せないと。養殖をやってる人も辞めていく人が多い。そうすると減っていく一方で、どんな店もお客さんが減ってしまいます。それじゃあ町に元気が無くなってしまって尻すぼみです。
だから、「おー、えれぇ儲かった!」って、刺激を送って、若い人を引っ張ってきて、みんなで真似すれば良いと思います。加工屋でも漁師でも、持続性のあるやつでないと、人は引っ張れないと思います。
「特区」にして、会社にして、方法を変えていくには、船も設備も変えていかなければならない。富山の定置網、ホタルイカの定置網で、船に海の水を凍らせて魚を冷やしながら漁をするっていうのを聞いたことがあります。そこでは、26歳の1年の給料が1000万円だって。それならみんな喜んでくるよ。酒も飲まない、たばこも吸わない、文句も言わないなんて最低。これ以上はもう言わない(笑)。
でも、外で稼ぐのは男だ。均等法はダメ。女の人は財布を預かって、男はもう手に金をつかんでないと馬力が出ない。それも1人でやるんじゃない。ここで食堂やるんだって、魚を獲る人、作って売る人、買う人、三拍子そろわなければうまくいかない。1匹狼ではダメなんです。大事なのは「つながり」だと思います。
3年待っててね。また美味しいうに丼を作るから。この(魚竜館の)建物も、全部壊してもいいんだけれど、ある程度目印として残して、全部なくしてしまうと、どこがどこだかわからなくなってしまうと思うんです。畑だったのか、家だったのか・・。大工さんと話したら、5千万円くらいで復活できるって言われました。6千万円でできたら安いもんです。そうしたら、化石だけでなく、大きなスクリーンで津波や被災の様子を映したり、写真とかも展示したら良いんじゃないかと考えています。特に2階のテラスは素晴らしい景観が広がっているので夏はビアガーデンを開きたいと思っています。
これからは、泊浜の自宅も流されたし、高台に工場も兼ねた自宅を建てたいとも考えていますが、工場を入れるには敷地が狭いので迷っています。今度家を建てるとしても、絶対に海の見えるところです。娘には怒られるんだけどね。
山になんて引っ込まねぇよ。海が見えるところがいいよ。あったりめぇだ。
震災の時は、ここ(魚竜館)で営業中でした。地震が来たら津波が来るっていうことは頭に入ってるから、日ごろから避難訓練もしていて、まずは、そこの庭の先の広い所に集まる、それから平成の森へ逃げる。あの時はお客さんもいたし、揺れが収まるのを待って皆を逃がすまでは、冷静にできました。
その時は娘も孫もいたので、私は揺れてる間は孫を抱いていました。娘も孫も従業員も平成の森の高台へ逃がしました。ここは、1メートルくらいの水門があって、そこを閉めると車が出られなくなるんです。だから、漁協の車も自分の車も全部出して空き地に移動させて、最後に誰も残っていないのを確認して、後はもう流してもしょうがないやって、AED(自動体外式除細動器)だけ取って、一番最後に私と家内がここを出ました。
私は、どうしてもどうなるのか、どの程度のが来るのか、津波をこの目で確かめたかったので、すぐそこの道路の上に登りました。そこなら道路からすぐ山に登れるから大丈夫だろうって、消防団や漁協の人たちと一緒でした。
津波は、本当にすごい力でした。バリバリドドドーンって。魚竜館の隣の新しい漁協の建物が影も形もなくなるんだから、こりゃあどうしようもねぇって・・。第二波、第三波って続いて、第三波なんて第一波の時に私たちが見ていた場所より2メートル以上も上に水が来て、車なんて、みんな流されました。家内は、第一波を見て怖くなって、先に裏の山へ登ったので別々でした。
今、ここの前の広場は瓦礫の第一次の仮置き場ですが、次にどこへ持っていくのか? 場所も決まっていません。ここの2階は奇跡的に化石や展示物が残って東北大学に運ばれて仙台の博物館に飾られるそうです。魚竜館の建物は、ボランティアさんに掃除してもらいました。もう、中はきれいになってます。ここは、一番眺めの良い所だったんです。水が澄んだら海の全部が見えます。今は滅茶苦茶濁ってます。 普通は12月になると、歩いていると海の奥の方まで透き通って見えるんですよ。
ワカメの養殖をやっているうちに、今度はここをずっと埋め立てをして、加工屋さんを集めて加工団地にしようっていう話が出ました。それだったらいいなって、「いいよ、いいよ」って申し込んだんですが、途中で計画がストップしてしまったんです。魚竜の化石が見つかったからです。それは天然記念物になりました。先に舘崎の浜で見つかって、色々調べたら、ここにもあるって話になって。
この地域には、魚竜化石以外にも、アンモナイトやナウマンゾウを発見した先生が発見したと言う、皿貝化石というのもあります。歌津には古い化石があるんだ!って、みんなにPRする、現地保存と普及の役割が「魚竜館」にありました。
加工団地の話が中止になって、化石も出て、「あれあれ?」って思っているうちに、「魚竜館」に直売所を作るっていう話になって、10人くらいで、漁師というよりも加工屋さんが集まって、直売所を始めました。
祭りの前には、必ず田束山に登ります。神様をお迎えに行くんですね。祭り前日の午後には神社に行って、神輿の担ぎ手は神官に祈祷をしてもらい、神輿に魂を入れてもらう。そして、翌日、祭りの1日目の午後には神輿を出して、45号線をずーっと魚竜館まで行って、神輿をきれいな海の水と塩で清めるんです。昔は違う場所で清めていたと言います。担ぎ手は、口に白い紙を挟み、白装束と地下足袋を履きます。地下足袋も昔は草鞋です。奥さんが妊娠をしている人は担ぎ手にはなれません。
また、祭りの前は、松の枝や竹を切って神輿の歩くところを全部、清めて、各家の前に縄を張る。神輿行列が通る魚竜館から45号線に向かう沿道もず〜っとです。これが、ひと仕事なんですが、伝統だからやらないわけにはいきません。担ぎ手も疲れますから、神輿の休憩所を作り、そこでも軽くお神酒を飲めるようにしておきます。こうした準備が本当に大変なんです。でも、伝統ですからやらざるを得ないんですよ。
祭りの2日目は、朝の10時に、神社から暴れ神輿が降りてきます。私も担いだことがあるけれど、誰も止められないほどの勢いなんですよ。神社の階段の下では、お囃子が流れて獅子が舞うんです。
これは京都からの流れを汲むもので、5つのお囃子を繰り返し演奏する。勇壮な“通り囃子”は、聴くと心がうきうきしますよ。自分も祭りに出たような気になるね。そこに、神社の階段からロープで吊るされた神輿が、だーっと揺れながら降りてくる。これがクライマックスで、最高なんですよ。そして、神輿の列は夕方には三嶋神社の神館に向かいます。神館に近づいたらお囃子と獅子舞が入れ替わり、屋台を先頭にして神輿も神館に入ります。ただね、今回の津波で、この神輿も神館も、みんな流されてしまいました。
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