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米は作って売るためのものでした。いいお米は売って、家では、普段はふるいにかけられた後の屑の米を食べるんです。10人家族で米の量も半端でないわけさ。お正月とか、祝い事のときだけはいい米を食べました。麦は、(売る為のもので)少ししか作っていませんでした。
おかずは味噌汁と野菜の漬物、そして魚。魚は川も海もあるから、たくさん食べましたよ。お袋が野菜を売って、その帰りに何か買ってきたもんです。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
その頃はお米が無いでしょ? こっちではお米が無い。あっちは米処だからお米はある。だから、お魚とお米を物々交換です。
ところが当時はお米を持っているのがお巡りさんに見つかると捕まったんです。帰り道でお巡りさんに会うと困るから、あそこにお巡りさんがいたというのがわかると、魚箱と自転車を隠して自分たちも隠れて、お巡りさんがいなくなってから帰って来るんです。遅い時は、帰りが夜中の1時だ2時だということもありました。それでも、お米を欲しい人たちがお父ちゃんの帰りを待っていましたね。そんなわけで、私たちは、お米は食べさせてもらえました。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
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