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日本鋼管から鱒淵に戻ってからは、林業には戻らず、畜産農家に変身したんだね。今度は乳牛なんだね。昭和41(1966)年あたりは乳牛プラス家畜商の免許を取ったね。
家畜商っていうのは、3日ぐらい講習受けて、供託金2万だか3万だか納めて、そしてあと免許証貰って、あとは、かたいこと書いてある冊子読めって貰う訳だ。(一定の講習を受講し、法務局に供託金を納めて営業開始許可が下りれば、すべての家畜の売買等の業務に携わる家畜商としての営業をすることができる)
これからはやっぱりこういう畜産関係でなければわかんねえかな、っつうことを自分では思ったので、こういうふうな道に踏み込んだのさ。
市場出した牛もあったのさ。ウチの屋号は「峠(とうげ)」っていうんだけども、当時ほれ、この辺は「三井、三菱、峠畜産」って儲かった儲かんねえ別として、他に事業がなかったのさ(笑)。
そのときまだ親父が生きてやったからね。親父っていうのは真面目に、カラカラと馬車を引いて歩いた人だから、そういう馬喰好きとか山師好きとかいうのがなかったんだね。
だけど、俺(おら)のずんちゃん(祖父)って人は炭窯の指導して歩いた人で、子どもの頃は鉄砲打ったりして、どっちかっていうと俺の性格に近かったんでねえべか。そのずんちゃんが縁故の関係の人からの借金で、家だの土地が抵当に入れられてたの。親父はコツコツと働いて借金かえして、抵当を解除してもらったような人だからね。その親父が言ったのは、自分に回って来た借金のこともあったんだけっども、「何をやってもいいけど、人様からだけはうしろ指さされるなよ」っていうのが、一言、まだ心に残ってるんだけどね。
それでその道に入って、あとは近辺歩いたのさ。今の三陸とか、本吉とかね。家畜車。したら、ところどころでお世話する人がいるから、そこに行ってお茶飲みをなんかしたりしてね。そしてまあ、暮らしたんだね。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
小学校8年(国民学校初等科6年、高等科2年)を終えた僕は、家が貧しいもんですから、満州の南満州鉄道に行きまして、会社の養成施設の「大連鉄道学院」に2年間学びました。そこで1年目は有線電信を学び、2年目は運輸関係、列車に乗るほうを学びました。
卒業して勤務したのは、奉天(ほうてん)と大連(だいれん)の間の「許家屯(きょかとん)」駅でした。駅務員と称し、有線電信の係になったんです。大連と許家屯間は距離にして20キロくらいですかね。学校のあった大連には、配属後もしばしば行きました。大きな町ですよ。
許可屯は、周辺から果物がとれました。また、隣町に熊岳城(ゆうがくじょう)という、安東(あんとん)などとならぶ有名な温泉地がありましたね。熊岳城駅から歩いて10分くらいの、ここの温泉に休みに入るのが楽しみでしたね。
僕は休みになると、許可屯からふたつ先の熊岳城に行き、「馬車(マーチュー)」という、タクシー代わりの馬車に乗ってね、5~10分行くんです。
その温泉には傷痍軍人なんかよく来てましたね。そして砂湯に入ったり温泉場の湯の方に入ったりしてました。
あとね、その方たちから、検閲があるせいか、田舎の実家あての郵便物を「これ出して置いて下さい」と、よく頼まれましたね。
熊岳城の斜め横の方向に、望小山(ぼうしょうざん)という山があって、高さは地上から数えれば50メートルか、70メートルしかないような、なんでもないような饅頭型の山でしたが、伝説の山なんですよ。科挙の試験を受けるために、北京かどこかに勉強に行った息子を思って、母親が毎日のように望小山に登って祈り続け、待ち続けていたという有名な話があるんです。それで息子が何年待ってもね、まだ科挙に合格しないのか、帰らないでね。ついにそこで亡くなったと。
当時の満州の読本や、内地でもね、うんと出版されたはずです。
近所にね、鉄筋コンクリートの2階建ての洋式の「熊岳城ホテル」というのがあったけれど、用事もないから行かなかったですね。温泉に行く時はいつも、満州は寒いから、温まる飲み物を買って飲むんです。それに、コンビニはないけども、日本人が作ったいわば売店のようなものが、熊岳城駅にあったんですよ。そこに、お稲荷さんとのり巻きのね、詰め合わせが、プラスチックと似たような容器に入って売られていました。それを買って行きましたね。その頃が一番楽しかったですね!
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