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俺は高校は行かなかったからね。みんなが高校さいくときに、農業の傍らに、馬を引いて山さ丸太出し行ったのよ。山から、切った材木をそのままソリに積んで馬にひかせて。「地駄引(じだび)き」って言うんだけどね。それを中学校終わってから、足掛け11年やったのかな。
農業の方は季節的にある時とない時があるんだけっども、その合間に地駄引きをしたんだね。
馬は自分の家の馬で、この地域には当時は十数頭いたった、その中の1匹だったのよ。北海道から来た馬で。品種はヨーロッパ産の「アングロ・ノルマン」っていう、そういう引き馬に適したので、馬そのものには名前もなにも言わないこったね。ペットではないんだね。
馬の世話は俺だけでなく、あと家のみんなで、草を刈ったりなんかして世話やったの。そういう生活を昭和30何年までやったんだね。
運搬する木材は、杉だの松だの、いろんなもの。いまみたいに雑木林っていうと杉と松。杉と松の比率は昔とそんなに変わってねえと思うね。松の場合はある程度、自分で植えなくてもほれ、自然に生えるし、杉の場合はほとんど植林してるからね。
前の町長さんが青空工場を推進してね。今みたいに木材の価格が安くなるって誰しも思わないから、とにかく山野率が80何パーセントの東和町、切ったら植えてと政治的にもそういう政策だったんじゃないですか? 例えば補助金出したりね。そんなで、植林やったから、今いたるところに杉が生えてるわけさ。杉なんてのは切ってしまえばちょこっとは生えてくるけれども、きちんとした林にはならないわけだ。松の場合は種を鳥が持っていくか、何が持っていくか自然に生えるけどね。
材木を運ぶ馬橇(ばそり)は、丸太を積むぐれえの丈夫なもんだから、ボルトを留めてしっかり作って、滑りやすいようにソリの鼻を削ってさ。松じゃなく、加工しやすい杉で作るの。
1日山4往復、午前中2回、午後2回って歩くんだもの、岩の上、石の上ガラガラ歩くし、重い物積んでるから、馬橇が疲弊するわけだ。それが1週間続くと使えなくなるから、また作って。毎週毎週、そういうふうにやるわけ。
材木の置き方
馬橇の材木を積む面には、鉄の鋲が打たれてんだ。ここに丸太の前側を積むわけだ。その上をチェーン掛けて、ジャッキでガッチャガッチャ締めてね。鋲で止まってるから、材木が抜けない。
丸太の後ろっ側は引きずんの。引きずる木は下の皮のところだけが減るけども、他の木は大丈夫。
引く材木の長さは、13尺=393.9cmは安定感があるけど、6尺=181.8cmだと不安定だね。
馬を進ませるときには、叩かなくてもね、声かけただけでこう、動いてくね叩くぐらい積まないから。毎日ね。
運賃
1尺(3.03cm)×10尺(30.3cm)=91.8cm2が1石っていったから、それを3石積むわけね。
1石800円だったら、地駄引き1回につき、3石×800円/石=2400円ですか。そいつを4回やると言うとだいたい10,000円になるんだ。
普通の鱒淵で働く人の平均日給は、250~300円だからね。だから相当の働きはしたわけさ。
ただ、むろん、馬さもほれ飼育にお金がかかるからね。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
戦争は日本が負けて終わったでしょ。「これは大変なことになってしまった」と思ったっけ。
みんなで泣いたりもしてたけど、それでも戦争が終わってみんなが故郷に帰って来ることが幸せだったねぇ。そして、歌津の方でも志津川の方でも演芸会が始まったの。私もあちこちの演芸会に行っては、少しでも演芸のまねごとをするのが楽しくて。
「日本よい国、東の空に」と歌いながら、道中囃子(どうちゅうばやし)といって、私が考えた踊りを志津川の青年たちに教えたこともあったよ。学校からずうっと松林が続いてて、その松林は今は津波で流されて一つもなくなってしまったけど、そこを練り歩くときのお囃子だよ。そして、佐沼の青年団の人たちが来ました。会長さんは都会に行って帰って来た人で素敵な方だった。
「何でもやる気になれば」「あらゆることをやらなければ」と思って一生懸命やったんだ。目が赤くなってもやるの。人様にお見せする限りは、下手なものをお見せすると恥ずかしいから、頑張らなければね。
13人家族で暮らしたこともあったからね。それも、1カ月、2カ月のことじゃないんだから。うちの父さんが海から魚を獲ってきて、米に換えて持ってきても、すぐなくなってくるんだ。家族が1人2人だったらいつまでも残ってる量でも、13人だとあっという間になくなるでしょ(笑)。
シラスを網でとって干して、大きな南京袋にいっぱい詰めて、自転車で商いに行ったなあ。本当にうちの父さんも苦労したから、私は実家を離れられなくなったの。
商いというものはありがたいものだよ。海のものがあれば、それが米にもなれば、菓子にもなれば、何かになる。
私は行商に出るのが好きで、いろいろ歩き回ったの。昔のことだから食料もない頃で、魚や海草を獲ったら市場に持っていって、その他は神社に祀ったり、行商に出て売ったり、お米に取り換えてもらったりしたんだ。
行商に出ると、近所のお寺の養蚕の神様に石を積む人たちが9人くらい来ていて、私が行けば魚もすぐ売れてなくなって、ありがたいことだった。タダではもらえないからってお米をくれたこともあった。魚を持って行って、お米を持って帰って、大変だったけれど、私たちも助かったもんだよ。
うちの父さんの昔から知り合いで、農家するときに馬を借りてきてね、馬追もしたよ。
馬というものは、人の何倍も働いているから、かわいそうでな。飼料なんか背負わせて行ったけども、それを降ろしてあげると食べさせたくなるのさ。そして、かわいそうだからって食べさせたら、今度は馬が私の根性見て、食べさせなきゃ動かなくなるの。私って本当にへんてこな人だけど、優しいことは優しいんだよ。(笑)
実家は農業。ああ。おめぇたちに言ってもわかんねぇなあ。その頃は機械も何もないから、田を起こすのにも、荷物を積むのにも、馬を使ったのさぁ。農家はどこにも馬がいたの。お父さんは、その馬の、荷物を積む荷鞍の、その中に入れる「タバサミ」(鞍薦(くらこも)というが、この地方では「タバサミ」とも呼んでいた)っていうのを作ってたの。ガバでね。ガバっていうのはね、因幡の白うさぎのガバだよ、♪ガーバにく~るまれ♪って、あの。穂が綿にくるまれとって、綿(わた)みたいになるの。ガバっていうけど、ガマだね。なんとなくわかる? それでね、自分で荷鞍を作って、それを売ってたの。
うちのお父さんは荷鞍のタバサミを作ってお金を取って(現金を稼いで)たけど、その頃、お金取り(労働力を提供して賃金をもらうこと)っていうのはそんなに無かったの。それが、昭和8(1933)年、二十一浜にね、津波が来たんです。そのあと、堤防を拵(こしら)えんのが土方で、それやって金取りが始まったんだって、聞いてたのさ。私はそんときは子どもだから、そんな「金取り」の意味なんか考えなかった。うちのお父さんは、農家やって、農家の仕事が終わったらば、荷鞍のタバサミを拵えに行商に出っから、土方はやんないの。農閑期に何もしない人は、二十一浜の堤防の土方に金取りに行ったね。
農家はね、毎年、荷鞍を左右とも、両方、新調するの。毎年のことだから、農家の家々では、タバサミの材料のガマを刈って、乾かしておいたのを置いておくの。
冬に農作業をしなくなると、お父さんは登米だの横山だのに出て、ずうっと家を空けて出稼ぎです。毎年(まいねん)毎年(まいねん)、ずっと、タバサミを作り作り、一軒ずつ行くんだ。お金もらって、そのお金でどこかに泊まりながら行商するんです。出稼ぎは、柳沢から始まって、大盤峠を越えて、横山(登米市)まで行ったんですよ。自動車が通んない前、昔だからね。雪も降ったそうです。横山にたどり着く頃には、お正月、昔は旧のお正月だから2月になるんですよ。
家業は本業の林業が主体で、山を約120ヘクタール所有し、昔は馬も1頭飼っていました。その他には田畑が1ヘクタール以上あって、この田畑を借りて耕して生計を立てている方たちが近所に住んでいました。麦を畑で作っていた時代です。
叔父は、馬の世話のため、朝の草刈り作業に行く時は、木の弁当箱(ひつこ)にご飯と味噌や梅干を入れて持って行ったそうです。
チャグチャグ馬コ
同じ家で育ったから、喧嘩しながら一緒になったのよ。その当時は、船さ、ちょっとぐらい乗ったかなぁ。私と一緒になってからは、家の仕事をやりましたから、こうして今でも一緒だからね。機械が無かったから、馬っこね、馬っこでもって田んぼをしたの。
馬のクツワに竹つけて、前を引っ張るわけだ。マンガ(馬鍬)つけたりしてね。馬は大きいの。力のあるやつね。「チャグチャグ馬っ子」知ってる?
チャグチャグ馬コ
盛岡市 新民謡
馬コうれしかお山へ参いろ
金のくつわに染めたずな
(チャグチャグ馬コがもの言うた
ヂャ〜もいねがらおへれんせ)
去年祭りに見染めて染めて
今年や背中の子と踊る
おらが馬コは三国一よ
嫁コしゃんとひけ人が見る
さつき柳の北上川へ
鈴コチャグチャグ音がひびく
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