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総代の仕事っていうのは、華足寺には秋、春のお祭りがあるんだけど、どんな風にしたらいいか、経理や、ポスターを何枚作る、新聞広告に出す、あるいは文書で直接個人に配る、とか、それから今回みたいに震災で文化的なものが壊れた時に、どのような方法で修理するかとか、そういう華足寺に関するいろんな相談ごとだね。
ただ、同じ華足寺でもご住職が個人でやることがあんのさ。例えば、節分会とか、総代に関係なく、和尚さんの個人的な考えでもってやると。
表面は同じようだから、「なんでその時は来なかったんだ」とみんなによく言われるんだけど、それは総代に関係なく、ご住職が独自にやるって格好になってるわけだ。だから収支、なんぼ入って、なんぼ出てったとか総代にもわかんねえわけだ。
年2回やる華足寺のお祭り(大祭)のことに関しては総代がタッチできんだね。あとのことは例えば元旦とか、どんと祭とかってのは、ぜんぜんわかんねえっしゃ。
大祭にはご住職以外に近隣のお坊さんと互いに行き来するんだね。ここは真言宗だけど、登米市の神社仏閣が42、その中で曹洞宗が24だべか。真言なんかは少ないんだよね。
昔は馬をみんな飼ってたから、馬を祀っているこのお寺には方々からみんな来たんで、鱒淵地区は昔は春のお祭りで1年の生活を賄うことができるってね。
有料で参詣に来る人の自転車預かりをしたり、山にある笹に和尚さんの書いたお札をつけて手作りの飾りものに仕立てて売ったり、「追い馬」といって画用紙に馬を書いて、それを黒とか赤とかのいろんな色にして、くるくる巻いてひとつ300円位でいろんなところで売ってるわけだ。1軒ばり(だけ)でなく、何軒もやってたね。
それから、喧嘩もよくあったね。今の消防団ってのは非公務員だけれども、昔は公務員で、酒飲むと喧嘩だったのね。茶店(ちゃみせ)あるでしょ。いまみたいにご近所がやかましくないから、茶店を出して、茶碗さ豆腐を出してね、肉を挟んで、そしてそこに酒っこを出す。そこで飲んでだんだん喧嘩になって。
馬が少なくなって、先代住職の苦労ってこともあったんだね。ぜんぜん採算がとれなくてね。採石場で働いたりね、マイクロバスの朝晩の送り迎えにいったりね。そうしながらね。競馬がこれからの時代はあれだからって競馬場の厩舎周りをしたりね。そういう時代もあったのね。
「礼儀正しい尚ちゃん? ~佐藤尚衛・馬喰一代今を生き抜く~」佐藤尚衛さん[宮城県登米市東和町米川]昭和14(1939)年生まれ
源の姓はこの辺では自分の家を含めて3軒あって、源氏の流れを汲むという逸話があるんですよ。
平泉が栄えるより前の時代、11世紀ごろに、源義家(みなもとのよしいえ)一行が通過する時に一族の姉妹2人が足でまといなので、命令されてこの地に残り、それが先祖となった、といういわれがあります。そのほかにも、源義経(みなもとのよしつね)が奥州に逃れた時期、兄の頼朝(よりとも)が奥州征伐に乗り出した時期と、11世紀~12世紀にかけ数回にわたり、源姓を名乗る人々がこの地を往来しました。その中でこの地に根を下ろした人々が我が家の祖先だと思うんです。
自分でも調べてみたんですが、菩提寺は、源頼光(みなもとのよりみつ)という人が建て、その名にちなんで頼光寺(らいこうじ)(写真、宮城県登米市東和町米川字町6)となっているというんですね。そのお寺も2回くらい火災を起こして、ある時代より古い資料は無くなったので、調査が行き詰まってしまいました。
だとしても、「源」なんて、何か理由がなければ勝手に名乗れない苗字だと思います。系図もあったらしいが、当時家柄が重要視される時代があって、土地と同じように自分の家も系図を売ってしまったようです。なので、証拠になるものはお墓しかありませんが、年号をみると600年くらい前のものがある。そのお墓があるということは先祖が生きていた時代はもっと古いので年代的には合っているし、由緒は正しいと信じていますね。
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