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気仙沼の父親の実家は、階上(はしかみ)で縫製工場をやってました。そこは、最初から縫製やってたわけではないんです。
昔はね、海のほうをやって、私が小さい頃は大網のサンマの油を絞って、油は何に使ったか分かんないけど、あとその残りのサンマは干して肥料にしていたと思いますね。人はけっこう使ってたんですよ。15~6人で、当時としては大きかったですね。
それがつぶれて、最後に縫製にたどりついて、それが成功して、もう何10年になるでしょうか。30年以上、その縫製で生計を立ててきました。何人だったかは知らないけれど、お針子さんも沢山雇っていたようです。今度の津波で工場は流されたんだけど、国の方から「人を使ってください」という要請が来て、今はもう、事業を再開しています。
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