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昭和52(1977)年ごろからホウレンソウは市場に出荷していました。当時夏場にホウレンソウを出荷する人はいなかったんです。ホウレンソウはもともと冬の作物ですから。作物には、長日性作物と短日性作物との2つがあって、長日性は日が長くなって花咲くもの、単日性は日が短くなって花芽が付くものです。ホウレンソウは典型的な長日性なので、夏、種をまいて17、18cmぐらいになった時に花芽を取り去って市場に持って行ってみたら、市場で受付のやり方を聞いている間にそれが売れてしまったんです。なんと(250g1束あたり)400円の高値で売れたんです。当時の400円ですよ。それは当時、「先取り」と言って欲しい人が先に持って行ってしまう方法でした。そんな時代もありました。
それから野菜研究会という組織を立ち上げて、最終的には100人以上の組織になりました。後に農協内にホウレンソウ部会を作って会長をやって、夏場のホウレンソウ出荷を定着させるよう努力してきたんです。
本格的に野菜を市場に出荷し始めたのは昭和55(1980)年、大冷害の年でした。米の収入はゼロでしたが、国からの補償金で何とかなりました。しかし、それをきっかけにもう田んぼは儲からない、ということで、ハウス栽培に切り替えたんです。息子も生まれた時だし、百姓を継ぐ気持ちもあったから、借金をして昭和56(1981)年に750坪の土地にビニールハウスを建てました。そこは道路よりも1m以上低い土地だったので180万円かけて埋め立てて、その上にハウスを建てたんです。その時女房には話さずにやったので、今でも「相談してくれなかった」って女房に言われますね。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
うちでは、葉タバコ、米、野菜を作っていました。いろんな野菜を作っていました。大根、白菜は当然のこと、ニンジンも作ってましたね。
今のように野菜を市場に出荷し始めたのは昭和52(1977)年からのことで、その前はすべてお袋がリヤカーで売り歩いていたんです。だから毎日現金収入がありました。1日売れば少ないときでも5~6千円入ってきました。そのお金は日々の生活に使いました。タバコと米は年に1回の清算でした。
そのほか酪農をしていました。酪農は親父と長女と2人で牛を4~5頭飼っていたんです。昔の乳価は高くて、月1回の清算で、そのお金で物置を立てたり土地を買ったりしていました。
昔は野菜と酪農を同時に営む人は多かったんです。養蚕やってた人もいました。しかし、中瀬町では海で生計を立てている人はいませんでしたね。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
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