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遠洋漁業といえば、私の舅は遠洋漁業で船頭をしていました。舅は、家内の父ですが、私の伯父なんです。私の父が家内の父の弟です。私たちは、いとこ結婚ですね。それで、この舅が、漁業者として佐藤栄作が総理大臣の時代に勲七等を頂いています。舅は、この辺で名前を知らない人がいないんだ。神奈川県の三崎に行っても名前が知れているくらいの漁の名人でした。
漁にかけては本当に名人で、漁業者としての叙勲では早いほうだと思います。その舅は、戦時中はカツオ船に油を載せて南方へ船団を組んで運んだと聞いています。昔はタンカーなんていうのがないから、そうやって、油を運んだそうです。漁船っていうのは、船長よりも船頭のほうが偉いんだよ。船を持っている船長が偉いと思うでしょう?漁船の場合は違うの。船頭というのが一番の権限者で、そういう親父でした。
私は遠洋漁業には行きませんでした。息子は、無線通信士ですから、船頭は舅だけですね。
漁業でもね、機械でなかったから、「櫓で漕ぐ」って言うでしょ? それだったんだから。沿岸漁業ではこの辺では戦後まで手漕ぎでした。それでもなんとか生計を立てていました。生活のために売るのは魚やワカメでしたね。開口の日には、私もウニやアワビも獲りました。ただ、何を主に獲るかというのは家によって違います。規模も条件も違うから一概には言えません。私は戦争に行っていますから、終戦後帰ってきてからは、ワカメとかホヤとかの養殖を主にやってきました。
私の親は、遠洋漁業に雇われて行ったこともあります。遠洋漁業に出る人というのは、船主があって、雇われて行くんです。部落の人が皆行くというわけではありませんし、年中ではなくて漁の時だけ行きます。昔は、そんなに長い航海というのはなくて、戦後船が大きくなってから外国へ行くようになって、インド洋だの何だのってなったんです。
養父は遠洋漁業の船乗りでした。ずっとね、マグロ船に乗って、北洋とかに行ってましたね。若い時は、カレイやカニも獲ってたみたいですけど、私が覚えてるのはマグロですね。一度船ででると、3カ月から半年ぐらい帰ってこないんです。たくさん魚が獲れれば帰ってくるのは早いけど。そういう生活ですよね、船乗りはね。
相手は二つ年下でした。年中いないから(都合がいい)って、船に乗ってる人をすすめてくれて。マグロの遠洋漁業をしてる人で、6カ月帰ってこなかったから、非常に自分としては暮らしやすい人でした。給料だけは送ってくるしね(笑)。
父はいわゆる半農半漁で、小漁(こりょう)でした。だいたい私の生まれた所はね、小漁が専門でね。私たちの孫の代くらいからかな、おっきな船にのったのは。そのころは船も機械ではなかったから、ちっちゃい手漕ぎ船で漁に出ていました。獲りがきの(獲ったばかりの)魚を食べて育ったのね。そのころは、小漁をするどこの家でも、大きい魚とか、大きいアワビはね、漁協に売りに出して、売れないようなちっちゃいのを家で食べたの。10人全員でご飯を食べる時も、自分の分の骨は「あんたはちっちゃいから」なんていって取ってはもらえないの。みんな同じように自分で食べるんです。そして私も一生懸命、もくもく食べたんじゃない?(笑) だから今でも骨取って食べる小魚が大好きなの。
お米は家では半年買わなくても良いくらい、自分の家の田んぼから収穫していました。自分の家で食べるための田んぼもあれば、畑もありました。そのころはみんなそんなでした。
兄は学校が終わる(卒業する)までは小漁をしてたんだが、あと、学校終わってからは遠洋漁業に出てね。マグロとか、カツオ船とか。家を離れているのは、昔はそんなに長くなくて、3カ月とかね。あんまり遠くに行く漁船には乗んないで、まず、普通に手伝ったりしてね。兄は家督を残して結婚したら家を出たので、1人抜け、2人抜けってだんだん家にいる人数は少なくなって行って。
2番目の兄は婿養子に行ってね、子どもが2人あったの。それがね、宮城県の主導する宮城丸(水産学校の教育用の船)に普通の船員として乗って行ってね、戦死したの。米軍の魚雷が当たって、「轟沈」でした。5分以内に沈めば「轟沈」っていうんだってね。昭和19(1944)年の話です。いま、自分が結婚して、婿養子に行った先の義姉が30代で未亡人になったが、かわいそうだったなと思ったね。それで、義姉のところに、着る物とかなんとか、いろんなものを送ったのを覚えてるね。
ただ、その頃は夫が死んでも、田があり、畑があり、自分の家で食べるくらいは働けるわけね。それから漁業に出て魚を獲ってきて売るとかね、食べることにはそれほど事欠かないし、ぜんぜん財産がなければ、いっぱいある家に手伝いに行くとか、そうして暮らしたんです。兄の子どもが、今では「おばさん1人だ」っていうわけでね、ホタテ養殖をやってるから、私のところにホタテを持って来てくれたり、いろんなものを持って、この急な坂を上がってきます。巡り巡ってねえ。
私の最初の仕事は、お客さんの所を回って「日掛け金」を回収することでした。お客さんを覚えるのに150軒くらいの担当を持たされて回らされるんです。入社して2年くらいやりました。最初は佐沼地区で、1年回ると、また別の地域を担当しました。だから、長い人だと10年くらいする人もいます。
昔は、「日掛け」という無利息の勘定があって「私は毎日500円ずつ積みたい」など希望の金額で毎日積み立ててもらい、ある程度1万円、2万円とまとまった金額になると、月掛けや、定期預金、無尽の掛け金に振り替えることもできるというものでした。毎月1回、日掛け金を自分の好きなように使っていいというわけです。
担当地区を回る間には、いろんなお客さんを見て来ましたたよ。だいたい、銀行には朝8時半の出勤で9時ごろに外回りに出発します。開店前の商店には朝早く行きます。そうすると、家の前まで行ってみたら、奥さんがほうきを持ってだんなさんを追いまわしてる(笑)。そういうのに出くわすんです。近所の人たちも「あそこはしょっちゅう喧嘩してっからな。声かけないで静かに通りすぎなさい」って(爆笑)。
そういうのもあれば、だんなさんが洋服の仕立て屋で、おっかさんがバーをやってる家で、朝は寝てるんですよ。ところが、その夫婦は「家は開けとくから、いいから入ってきて」というので、2人して並んで寝ててる布団の間から手を入れて、日掛け金を回収です(笑)。なんで起きないのかね、起きたらいいのに(笑)。
もっと面白いのがね、仙台市内で集金したときの話ですが、飲み屋に朝の集金に行くと、飲み屋のお兄ちゃんとかもそうだけど、こっちは若いでしょ、20代のころだから、パンスケ(夜の商売の女性)どもに部屋に引っ張り込まれそうになる(笑)。だけど、そのあとがおっかないわけ。パンスケの後ろにはヤクザもいるから。
あとは、集金しててお酒なんかも出たんです。町内集金は自転車だから、「ほら飲んでらい(飲みなさい)!」って。そういうのは珍しくありませんでした。またみなさん、お菓子とかね、あとお香子(つけもの)を出してもらったり。それをゆっくり食べてね、休んで(笑)。だから。お客さん1軒の家に1時間くらいいるのが普通だったの。次の家は「おぉぉっ!」って駆け足(爆笑)。
昔の人たちは何やっても、それでも友だち、仲間同士。今みたいに告訴されたり、訴えられたりってないからおおらかでしたね。
私たちの頃は、当時は、今みたいに金余りの時代じゃなく、いくらでも集金して来いという時代でしたし、集金やっててもいろんな話題があって面白かったんですね。
集金というのは、銀行にとっては「安定」なんです。お客さんと親しくなって「よもやま話」ができるようにならなければ、銀行に情報が入らない時代だったのです。例えば、「あそこの家のお爺さんが亡くなったから保険金が入るよ」って、教えてもらえるわけです。今は、人件費の高くつく集金というのがなくなってしまった。お客さんには、全部一斉にメールだの、なんだのになってしまいました。私の退職近くになって携帯端末が入ってきました。機械化され時間管理されて、お客さんとお話もできない時代に変わっていったんです。
銀行に入った当初は、帰宅が夜の9時、10時でした。ここの地域は農家預金っていうのがあって、昼間仕事してから、また夜集金に行くんですよ。そうするとね、帰ってくるのは9時10時になります。農家に行って、農協に入ってるお金を拝み倒して預け直してもらうわけです。
それから、北洋船団と言って、遠洋漁業の船員が7月~8月に帰ってくるので、その預金を予約してあるわけです。昼間だけでは終わらなかったら夜になる。それでも残業代はもらえませんでした。そんなふうで、遊ばなかったし、夜も仕事があって飲み屋さんには行けなかったですし。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
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