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三陸ホウレンソウは、海から吹く冷たく湿った三陸特有の季節風、山背(やませ)を上手く利用して作ります。ホウレンソウは暑いとうまくできないんです。だけど、三陸は夏でも山背が吹くので、ビニールハウスの天井だけビニールをかけて、両サイドは開放してやれば、うまく育つんです。ビニールは日光も80%くらいしか通さないので、屋根だけ張ってやると夏でも冷たい風が吹き込んで暑くならない。夏物のホウレンソウは、なかなか出ないんですよ。品物も、仙台の山元町のように暖かいところで作るものとは違うんです。葉が肉厚で、いいホウレンソウができる。自然をうまく利用しているんです。
イチゴ栽培も、今はずいぶん楽になったけど、当時は手がかかりました。温度の管理は換気扇で、暑くなったら開けて、涼しくなったら閉めてと、しっかり見張って面倒を見なければいけません。今は自動でやってくれる機械がありますけれど、昔はそんなもの、ありませんからね。生き物を飼うのと同じなんです。だから、イチゴの時期はほとんど出かけることができませんでした。
私が中学生の頃は、稲作も機械を使わずにやっていました。1反くらいの田んぼで田植えとなると、まず、牛にバコ(鋤すき)を牽かせて、土を返して田を起こします。
次に、田んぼに水をはって、牛に鉄の馬鍬(まぐわ)を縦横に2回か3回牽かせて、土を砕いてドロドロにする。そうしたら、代掻き(しろかき)をして、泥を平らにならして苗を植える準備をする。
その後、竹を挿した板で田んぼに線を引き、それに沿って女の人たちが横に30間くらい並んで、苗を植えていきます。そして、秋になったら稲刈り。これもコンバインではなく、鎌で手刈りです。刈り取った稲は束ねて、1間くらいの間隔で立てた杭に竹を渡し、そこにかけて自然乾燥させます。
今は、乾燥にも機械を使うけれど、自然乾燥の方がおいしいね。こういう手作業は、中学生の頃に実家を手伝って覚えました。家ごとにやり方も違うんです。農学寮では畑も畜産も全部機械。昔は鍬(くわ)で作ったうねも、寮では牛や馬にカルチベーターという機械を牽かせて作りました。そのカルチベーターも今じゃ使われなくなりましたから、子どもが農業を継ぐといっても、昔のやり方は全然分からない。やっぱり、自然と闘い、実践のなかで学んでいくしかないんですよ。机上の計画ではなく、実際に働いて体験しながらでないと農業はできません。
私の実家は伊里前にありました。前町切(まえちょうぎり)の場所よりも下。敷地は380坪ほどあったでしょうか。お祖父ちゃんの代から農業一本の家系で、今も、山林40町、水田1町、畑5反歩はあります。馬2頭、牛2頭を飼って、昭和60(1985)年ごろまでは桑畑も2、3反歩ありました。蚕を飼って生糸も取っていたんですよ。でも、平成4(1992)年、私が町長になる直前に、桑は全部抜いて、銀杏を植えたりもしました。その後は、30反くらいを使ってハウス栽培でイチゴやホウレンソウを作りました。
最初はお母ちゃんと2人でイチゴを始めたんですが、だんだん腰が痛くなったので、最後はホウレンソウをやりました。大きな農家ではありませんが、昭和30年ごろには8反歩の農地があったので、歌津駅から自宅まで他人の土地を通らずに帰って来ることができたんです。その土地に、やがて鉄道が走り、役場や商工会、仙台銀行、駐在所などができた。鉄道のトンネルを掘って出た土なども、全部田んぼに埋めました。敷地の中に何でも揃っていて、それは便利でした。ちなみに、漁業権はお祖父ちゃんが亡くなったときに使うこともないだろうと手放したそうです。
戦争が終わってからは、家に帰って農業をしました。
周りはみんな農家で、いっぱい畑があって、人手がない。昼間も働いて、月夜の時は月の明かりで働いたんだ。月の明かりだけでやったの。私だけでなく、みんながそうでした。
それに、今こそ、機械でやるけっども、昔は耕運機なんてながったから、手だけで作業したの。
この辺は火山灰みたいなとこでないから、柔(やわ)い土やサラサラの土でなくて、粘土ども違って、固いし砂利だし、崩れやすいような土ではないんです。機械なら1時間や2時間すれば終わるのを、幾らも耕せないわけ。だから、ほんとうに重労働だからね。