文字サイズ |
この八幡神社の祭典のときには、いろいろなお祭りの道具がありますが、八幡神社に置いておくと人があまり出入りしないので、盗難などの危険があるんです。ですから、神輿のいろんな飾りも全部外して、獅子頭ですとか、天狗のお面だとか、そう言った貴重なものは全部、家に持ち帰っていました。
その中に木の観音像があったんですよ。これは私の家の家宝だって言うことで、お祀りしてあったんですよ。これは大事なものだからって毎日寝るところの神棚に乗せて。別の棟には、八幡様まで行くのが大変だから、私のうちに八幡神社の分霊で、参拝できる場所を作っておいたのです。そこにも観音像を納めてあったんです。それも津波で無くなってしまいましたね。
お正月には、みなさんが神様参りされるときに、いろんな神飾りを作って差し上げておったわけなんです。年寄りたちに聞かれるんですよ、「全部流されて仮設生活している、今年のお正月はいったいどうすんの?」って。
この海岸地帯の神社は、気仙沼市の十三浜や、石巻の方とか、大分流された神社があります。大谷も、奥にも神社あったんですが、流されまして、道路の近くに赤い鳥居だけが残っています。
そういうところにその、伊勢神宮から、天照皇大神宮っていうお札が配られました。お正月どうすんのって言われるんですけど、なんとか、例年並みに神飾りは作ろうと思ってますと。先祖に申し訳ないという気持ちと、地域の方々の心のよりどころがないと気の毒だという気持ちで、例年の通りのお正月をしようと、そんなふうに考えてます。
小泉から見える海抜512メートルの田束山(たつがねさん)という山は、藤原氏の住んだ平泉の衣川、源義経の家来の弁慶が立ち往生した、あの衣川ですけど、その向かいにある山と非常に似ている山だそうですね。それで、藤原氏が伽藍(注:僧侶が集まり修行する清浄な場所。転じて寺院または寺院の主要建物群)を作っていろんなものをお祀りして拝む場所にしたんですね。その当時は40伽藍など、いろいろな建物があって盛んになったそうです。
田束山には3つの大きなお寺があるんですよ。(羽黒山)清水寺、(田束山)寂光寺(じゃっこうじ)、(幌羽山)金峰寺(きんぽうじ)とね。藤原家が滅亡した時に、ここも廃れて、その3つの大きなお寺が持っていた観音像を敵に取られないように、家宝と一緒に持って出て、ひとつは入谷、南三陸町の方に、もう一つは清水浜(しずはま)のほうへ、下って行ったんですね。
そのうちの一体と言われるものが山内家にあったんです。津波で流されましたが。私が小さい頃、よく兄貴なんかとイタズラしたんですが、重いんですよね。こんな小さくてしたの方が空洞なんですけどね、すごく重いんですよね。「これ金でねえか、切ってみるか?」なんてね。
病気で死んだ2番目の兄貴が、裏にして台のほうからちょっと削って見てたのを覚えています。それが何十年経っても錆びないで、ピカピカ光ってるんですよ。いろんな古文書を見てみたら、その頃、金鉱があって、金が沢山出たんですね。当時の金は精錬の技術が低く、粗金(あらがね)と言って、不純物がはいっていて、それであの像を作ったらしい。よく見ても表面はピカピカになってないんです。
田束山は何回も火災にあったことがあり、そのときの煤(すす)で黒くなっているそうです。そこを兄貴たちが切ったらそこだけまだピカピカしていました。大事にして神棚に置いていたんですけど、そういうものまで津波で流されました。
田束山には時の権力者が平泉と同じように金を運び込んだらしいんです。そして、金粉で書いた経文を、鉄で作った筒の中に納めて、敵が来ても持って行かれないように、土の中に埋めてしまったという言い伝えがありました。それが経塚です。
昭和何年か、気仙沼市の教育委員会が、東北歴史資料館の方をお呼びして、本当に経文があるか、ほっくりかえしてみようということになったんです。経塚を一つ掘ってみたんですよ。そしたら鉄の筒は錆で、ふたを外したら中に水が入っていました。経文を出してみたら、金で書かれた経文の文字がいくらか読めるものが出てきました。これは貴重なものだというので、東北歴史資料館に陳列されるようになりました。
山内家由来のお墓は大きく2つあるんですよ。ひとつは、古いほうで、藤原家のお墓。これは小泉中学校に行く途中にあるんです。山内家の先祖は、藤原姓を名乗って、田束山のお寺の学問の親分格、「学頭」をやっていたといいます。もうひとつはもっと高い山のところ、そっちは山内家なんです。
おそらく藤原から山内に姓を変えたのは、石に彫ってあるのをみると「山内盛」ってあるんです。彫が浅いので、よく見えないんですが。それが、観音像を抱いて山の下に降りてきて、寺子屋のように地域の方々に学問を教えてたんだということです。どんな人なのかもわかりませんが。
私の祖先の墓はあるんですが、位牌などは津波で全部流されました。あまり大きなものだと、何代も昔のものは置いておけない。ですから、薄い板をですね、一定の大きさに切って、法名と言うか、何年何月だれそれだれ、どこで亡くなったということを書いたんですね。妻が津波のあとに探して何枚か見つけてきたんですが、何枚もありません。
Please use the navigation to move within this section.