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戦後の経済成長の頃、昭和34〜5年から、40年後半ですね。あの当時ですと、中学を卒業する子どもの40%ぐらいは家を離れて出ていきました。あとの40%くらいは進学し、20%は専門学校的なものへ行きました。地元には仕事が無くて、各家庭はあの頃は生活が苦しかったんですね。
それを見ている15~6歳の子どもたちが「このままでは家の人たちがかわいそうだから、俺が出てって、就職をして、働いてお金をとって、それを親に送ってやる」。そういう気持ちで40%の子どもたちは出てったんです。
そういう子どもたちは「金の卵」と呼ばれて、東北から上野に向かう蒸気機関車にいっぱいに乗せられていくんですよ。煙を吐きながら走る、夜行の汽車です。暑くなると窓開けますから、トンネルくぐると、顔見るとみんな煤だらけで、黒くなるんですよ。
私も同じ汽車に乗って子どものお世話をするのに付いて行きましたが、その時の就職列車の中は、いま思い出しても、子どもたちはよく生きて出て行ったなと思うほどでした。東北から夕方に出発して、夜明けに上野に到着するんですが、次々に駅に停まると何十人もそういう就職していく子どもたちが乗って満杯になっていくんですね。椅子は満杯で、すし詰めです。子どもたちは家から持たされた小さいボストンバッグを膝において、うたたねをしていました。
汽車が途中で何十分か停まるわけですよ。ここは駅かと思って見ると、駅じゃないんです。別の列車の通過待ちです。急行列車だのが行ってしまってから就職列車が通る。つまり暗い、駅でもないところで何十分か停まるんです。私もそうでしたけど、一睡もできないんですよね。
到着すると、汽車ん中までは仲間同士で「なあ、友だちで仲良くすっぺな」と、お話しながら来るんですよ。で、上野にでて、西郷さんのあの銅像まで行く間は、もう無言なんです。上野の西郷さんの銅像のまえに、県単位でみんな集められて、「あなたはどの会社」って分けられるんです。一緒に来た友だちは会社が違えばそこで別れるわけです。「じゃね、バイバイ」とか、そんなもんじゃないわけですよ。知らない土地に来たためか、かわいそうになってしまうような顔をしてるんです。
「誰それさん」って呼ばれて「はい」なんて出て行って、それきりで、別れてしまうだけなんですね。別れの言葉も簡単には言えないような気持ちだったろうと思うんです。そんな風に、上野に着いたとたんにもう、子どもたちはばらばらになるんです。誰がどこに行った、ということも考える余裕もないんです。「今から自分が行くのは、どこなのかな」「どういう会社に入るのかな」という不安があったんでないかなと思いますね。
その後、私は1週間くらいかけて、遠くの方に就職した子どもたちから順に会って、様子を見ながら声をかけてくるわけなんです。「がんばれよ、がんばれよ」「何か家にいい残すことは無かったか」って。「おばあちゃんがいるんだけどおばあちゃんが元気になるように言っててね」などの伝言を、帰ってきてから各家庭に行って「誰それさんはこういうふうにして、こういう会社に勤め、てこういう仕事をして、元気にやってるようですから」って報告をするんです。
その時の心情を新聞に投稿したものが残っています。「教え子に乾杯」っていう題で、集団就職をした子どもたちの境遇を書いたものです。中学校卒業して、すぐ集団就職をせざるを得なかった子どもたちがね、非常にけなげな気持ちを持って行ったんだ、ということを、今のほんとに贅沢な子どもたちに教えたいんですよ。今の子どもたちはなかなか理解できないですね。
ある1人の男の子は、アイロンを作る電気会社に行ったんですが、入社して間もなく、身体の調子が悪くなって会社で亡くなったんです。引率して行って送って帰ってきたころは元気だったんですよ。
私が入社後間もなく訪ねて行ったときに、とってもいい子どもでね、食堂で食べる時に出入り口にかかってる縄のれんを、脇のほうに引っ掛けてくれたんです。そうすると私は、縄のれんに邪魔されないで、行き帰りできたんです。そういう子どもがそういうことをやってね。あ、これはいい子どもだなあってね、思いました。会社の指導する人にもそのことを話して、「会社にいい力になる子どもだから、目をかけてください」って言ってきたんですが、間もなく亡くなったんですね。
その子どものお墓を見るとね、涙出るんですよねえ。家族のために、お金をもらって送るんだ、という気持ちで行った子どもなんだけども、それが果たせないまま死んでしまったっていうことで、だからかわいそうだなって思いますね。
集団就職した中に、今では兵庫県加古川市に生活をしている教え子がいるんですが、その子から手紙が来たんです。「家が貧しいから、私が中学校卒業したらすぐ静岡の方に行って、働きながら家に仕送りをする」と言って富士宮に行った女の子でした。その子は、集団就職のときに会社から評価されて、入所式の時に、何百人か、大勢の前で謝辞をやったんですよ。
しかも「私は高校や、大学にも入りたい」という希望があって、そういうルートがある会社を選んだんですね。そして短大まで出て、働きながら頑張ってやったんですね。いい旦那さんと一緒になりました。
今兵庫にいると、その子どもが手紙を書いてよこしたんですよ。「先生は、こういう方でしたよねえ。私が良い人間になったのは先生のおかげです」、というようなことを書いてくれた。手紙と一緒に、「先生これから寒くなるから風邪をひかないように」って、靴下を段ボールに入れて、これと一緒に贈ってくれたんです。
電話してみたら、私が元気だったって喜んで、電話の向こうで涙声は語ってました。彼女に津波で流された新聞記事「教え子に乾杯」のコピーを送ってあったので、その写しをもらうことができました。
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